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天正16年(1588)1月17日、いよいよ玉造郡岩出沢館主(大崎市岩出山)氏家弾正忠吉継に加勢する軍勢の陣触れ(出陣命令)が下されます。

参戦する武将は以下の通り

陣代(総大将代理)

浜田伊豆守景隆

大崎家中の親伊達派の元に派遣されます。

副大将

宮城郡利府城主(利府町利府)留守上野介政景

名取郡鵜ケ崎館主(岩沼市栄町)泉田安芸守重光

軍奉行

柴田郡小山田館主(大河原町福田)小山田筑前守頼定

目付

柴田郡小成田館主(柴田町小成田)小成田総右衛門重長

名取郡入生田館主(仙台市太白区富沢西)山岸修理定康

その下に、

桃生郡深谷荘小野城主(東松島市小野)長江播磨守晴景入道月鑑斎

志田郡松山城主(大崎市松山千石)遠藤出羽守高康

宮城郡高城郷領主(松島町高城)高城周防守宗綱

黒川郡大窪館主(大郷町大松沢)宮沢左衛門元実

名取郡北目城主(仙台市太白区郡山)粟野大膳亮重国

柴田郡支倉郷領主(川崎町支倉)支倉紀伊守久清(時正?)

らが付けられます。

出陣に際して伊達政宗二世は、1月25日迄に玉造郡岩手沢郷(大崎市岩出山)に着陣し、内通者・氏家一派と合流して作戦を展開せよと命令しています。

結論から先に記しますが、戦果は伊達軍のボロッカスのクソミソな敗北に終わりました。

敗因は様々に言われていますが、伊達政宗二世の出陣が無いから、と言われていますけど、伊達政宗二世って実はそんなに合戦は強い方ではありません。どちらかというと外交や謀略といったアタマを使った戦が得意で、個人的武勇としては一応隻眼の身障者なので推して知るべし、です。

また、参戦武将達もメジャーリーグならぬマイナーかリトルリーグ級の指揮官揃いだから云々というのも、それは多分に後世からの視点です。後から評価した、の最たる例である「信長の野望」のパラメーターだけを見ても、確かに片倉小十郎景綱や伊達藤五郎成実は勇将のそれですが、当初の伊達成実は若年であることを言い訳に怖気づき、伊達輝宗が拉致されても拱手して何も出来なかった奴だったし、後には政宗二世とトラブって出奔騒ぎさえ起こしているのです。

結果論やバイアスを外した状態で出陣メンバーを見る限りでは、土地勘のある地元武将を、従属させた中小大名と合わせつつしっかり揃えていて、陣容についてそんなに問題があったとは思えません。

少し譲って宮城県の大名、武将達が伊達家中でも二流だったとしましょう。そんなら一流の武将らは福島県内でどうしてたんだと言うと、内には小手森館の大虐殺や二本松畠山義継の惨殺といった暴力性に頼った手段が地元民達の反発を生み、日に陰にゲリラ反乱が頻発し、外を見渡せば敵ばかり。まともに仲良しなのは葛西晴信だけという見事な孤立っぷりを晒し、その対応に追われていたのですからザマぁありません。

こういったことが後に政宗は南東北で無双してましたとか言われるようになる訳ですが、それは伊達政宗二世が最終勝利者となったからであり、最終勝利者だからこそ歴史を編む権利を得ただけに過ぎないのです。

1月26日、宮城郡松森鶴ヶ城主(仙台市泉区松森)国分能登守盛重が新年の挨拶からさして間を置かず米沢城(山形県米沢市)の伊達政宗二世を訪れます。どうやら大崎攻めには参戦しなかったようですが、用件は恐らく、黒川郡鶴楯城主(大和町鶴巣下草)黒川安芸守晴氏入道月舟斎の動向に関するものではないでしょうか。

1月28日、17代太守葛西晴信は江刺郡浮牛館主(岩手県北上市口内町松坂)口内出羽守及び江刺郡羽山館主(岩手県奥州市江刺玉里)角掛菊池右近丞定恒に宛てた書状に、伊達政宗二世が大崎氏に合戦を仕掛けるのは決定事項なので、江刺郡内から軍勢を募り、参戦するよう指示する一方、元祖江刺三河守信時の勘当を解かないで欲しいとの要望は尤もなことであり、そなた達の望む通り、全く赦免する気は無い。詳しくは使者世左(世田米左衛門?左兵衛?)が語ってくれるだろうから、相談するように、と記しています。

この時点で伊達勢が出陣したことはまだ葛西晴信には伝わっていなかったようです。それは兎も角、この書状からは角掛菊池定恒が口内出羽守の居館に居候していること、暴君元祖江刺信時の謹慎を解除してはならないと要望していたことがわかります。

一方で口内出羽守が援軍要請したと考えられる阿曽沼広郷の姻戚となった気仙郡世田米館主(岩手県住田町)世田米某を太守晴信が使者に任命するなど、終始アンチ元祖江刺信時で事態が動いていることが判明します。

19に続きます。

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本家奈良坂氏の系図によれば天正15年(1587)は、磐井郡流荘高森白鷹館主(岩手県一関市花泉町花泉)本家奈良坂能登守邦信が没します。享年69歳。長男和泉守信列が跡を継ぎます。また、次男兵庫助信起は邦信の叔父に当たる磐井郡流荘小山和泉館主(岩手県一関市花泉町花泉)小山奈良坂播磨守正信の養嗣子となって跡を継いでいます。

伊達家中の師走は大崎領への出兵問題に、浮図湧き上がった大内備前守定綱の伊達再仕官話とか、巻き起こる訳ですが、正月のお祝いがあるからってんで、続きは来年に持ち越されます。

一方で関白豊臣秀吉が関東奥羽惣無事令を発布します。西国を統一し、徳川家康の壁が然程脅威でも無くなってようやく次は東国に眼を向ける段になったのです。

ぶっちゃけ秀吉の一方的な言い分ですが、それでも常陸国の佐竹常陸介義重に、次男である会津郡黒川城主(福島県会津若松市)芦名義広と義理の甥である伊達政宗二世の和睦を督促しています。

天正16年(1588)1月4日、宮城郡松森鶴ヶ丘城主(仙台市泉区松森)国分能登守政重、国分氏累代の通字たる盛の字を冠して盛重と改名しましたが、伊達政宗二世の居城置賜郡米沢城(山形県米沢市)に登城し、年始の挨拶を述べます。

1月11日には遠藤文七郎宗信を司会に、本年初の伊達氏政策会議を開催しています。また、越後国頚城郡春日山城主(新潟県上越市)上杉弾正大弼景勝に年始の使者を出しています。

この日の夜に八幡小源太が年始挨拶に訪れ、仏眼寺の日淳など領内の寺院住職が年始の挨拶に来たことを報告します。仏眼寺は元々は現在の福島県福島市渡利に開山され、後の伊達政宗二世の仙台開府に伴い、仙台市若林区荒町に移転した日蓮宗富士大石寺門流寺院でしたが、開山者の日尊の流派がやがて分派独立すると、仏眼寺の取り合いが発生し、結果として2つの仏眼寺が成立し、仙台市は日蓮正宗法龍山仏眼寺、福島市は日蓮本宗諸仏山仏眼寺となっています。

さて、重要なのはここからです。「貞山公治家記録」は続けて、八幡氏は藤原姓で、一家(准一家)である。家伝に曰く、伊達氏初代の分家であると。家系図は伝わらない。

伊達尚宗公の時、八幡紀伊守宗永という当主がいて、その子孫が宗景で、輝宗公に仕えた。

宗景に息子が無かったので、”葛西家臣末永能登宗春“の息子藤八郎を婿に取って家督とし、宗実と名乗った。宗実にも息子が無く、鬼庭石見守綱元の次男小源太を婿養子にした。小源太はこの時10歳。後に(文禄元年・1592)綱元の長男左衛門(安元)が病死したので実家に帰って家督を継ぎ、茂庭周防守良綱(後に良元と改名)と名乗った。

それ以後の八幡氏は宗実の娘が遠藤外記と再婚して婿養子相続した。その息子は紀伊守で、その息子は清三郎こと主計衆義、次いで増田主計胤繁の次男斎三郎義繁が養嗣子となって継ぐも、伊達綱村公の時代の延宝9年(1681)1月17日、享年26歳で早世し、後継者がおらず、八幡氏は断絶してしまった。

とまぁ、これって「伊達正統世次考巻10晴宗上・弘治2年(1556)12月9日条按文」の焼き直しで、かつ加筆修正じゃねーかって驚く訳です。

第24章21、22、第25章12にも記しましたが、鬼庭小源太はこの時点で既に八幡宗実の婿養子として迎えられていたようです。奇しくも八幡小源太(鬼庭良綱)と末永運之助(筑後守定親)は同い年です。それぞれの養父宗実と実父定継の年齢は不詳ですが、小源太の実父鬼庭綱元がこの時40歳だったので、末永兄弟も30代くらいと推定出来ます。

30歳から40歳くらいならまだ嫡男の誕生は期待出来そうです。にも関わらず養子を迎えようとした背景には、八幡宗実の妻、八幡宗景の娘が早世してしまい、八幡氏の遺伝子を繋ぐ手段が最早自身の娘に産んで貰うしか無くなったからではないでしょうか。

しかし、折角迎えた婿殿はこの4年後に実家の長兄安元の早世により離縁の已むなきに至ります。

1月12日の夕暮れから13日にかけても伊達郡大枝館主(福島県国見町)大条左衛門宗直や名懸組200人ら大勢の家臣達が年始挨拶に訪れます。「貞山公治家記録」は大条氏の系譜を紹介しながら、大条宗直を数寄屋囲、四畳半の部屋を屏風や障子で囲った部屋に特別に饗(もてな)し、尾張守の名乗りを許しています。

大条宗直はコーエーの歴史シミュレーションゲーム「信長の野望」シリーズにも登場するキャラクターですが、そのアイコンは何となくあの有名な子孫にわざと似せたような気がします。

18に続きます。

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天正15年(1587)10月16日、伊達政宗二世が家臣で名取郡鵜ケ崎館主(岩沼市栄町)泉田安芸守重光に宛てた書状には、国分氏の騒動がどうにも収まらないので、兵を差し向け、敵対する奴らは討ち取り、いっそ攻め滅ぼしてやろうという考えを披露しています。

また、11月4日に政宗二世が家臣・黒川郡大松沢館主(大郷町大松沢)宮沢左衛門元実に宛てた書状には、一気呵成に国分氏を折檻(懲らしめる)してやることもあり得るから、その時は参戦してもらいたいことや、大崎氏への備えも万全を期するよう指示しています。

これには宮城郡松森鶴ヶ城主(仙台市泉区松森)国分能登守政重も吃驚仰天し、出羽国置賜郡米沢城(山形県米沢市)に出向いて謝罪しますが、比較的血の近い国分氏よりも血縁が遠い大崎氏を優先しようと考えたものか、計画は実行されませんでした。

11月24日、伊達家臣で伊達郡増田郷領主(福島県福島市)増田摂津守興隆(我即斎)の仲介も虚しく、最上義光は和睦成立で安心した田川郡藤島城主(山形県鶴岡市)大宝寺武藤氏18代当主義高を急襲、自刃に追い込み、政宗二世のメンツを潰す形で大宝寺武藤氏を滅亡させてしまいます。享年34歳。養嗣子義勝は実家本庄氏にからがら戻されています

「箟岳箟峯寺記録」によれば12月3日、天台宗山門派無夷山箟峯寺の観音堂が改築され、17代太守葛西晴信が左の柱を、大崎12代義隆が右の柱をそれぞれ色彩を施した上で寄進しています。

大崎家中は色彩柱を寄進するのが驚くくらい緊張した情勢です。氏家吉継に続き、加美郡小野田夕日館主(加美町)石川長門守隆重も伊達氏に内通し、主君を裏切ります。しかし、伊達政宗二世は大崎の様子がどうなっているのか正確には掴みかねていたようで、12月16日付けで泉田重光に書状を送り、大崎対策で宮城郡松森鶴ヶ城に軍勢を置きたいのだが、隣国の黒川郡鶴楯城主(大和町鶴巣下草)黒川安芸守晴氏入道月舟斎に要らぬ疑念を与えてしまうため、まずは情報収集するよう指示しています。

12月25日、伊達政宗二世は17代太守晴信に書状をしたため、大崎氏の内紛について相談しています。

そんな葛西氏の領内に問題が勃発します。

太守晴信への反逆の罪で江刺郡倉迫館(岩手県奥州市江刺藤里)に勘当謹慎中を喰らっていた江刺郡岩谷堂館主(岩手県奥州市江刺岩谷堂)
元祖江刺三河守信時が、葛西晴信への反抗心を捨てないため、元祖江刺氏執事の角掛右近と大田代伊予守の父子が主君を強く諌言します。

元祖江刺信時が何故そんなに葛西晴信に逆らうのか、理由はわかりませんが、身分制度が厳しい時代に主君を諌めるというのは命懸けの難業です。伊達政宗二世が宮沢元実に送った書状に記した折檻という言葉は、前漢の朱雲が諌言の末に成帝(BC51〜BC7)から死刑を言い渡され、廷内から引き摺り出されようとも、欄干にしがみついて折れるまで抵抗を止めなかった、という故事から発生した言葉です。

曲がりなりにも中華の朝廷でそんなヤワな木材使うのかって野暮なツッコミはまぁいいとして、元祖江刺信時を諌めた陪臣執事の父子とは、角掛菊池氏の系図によれば、江刺郡羽山館主(岩手県奥州市江刺玉里)角掛菊池右近丞定恒に比定されますが、大田代氏に養子に行った息子は記されません。

一方の大田代氏の系図によれば、菊池右近恒邦の息子で江刺郡大田代郷(岩手県奥州市江刺田原)1700石を領した同郡大田代館主(岩手県奥州市江刺田原)大田代伊予守が記されます。

元祖江刺信時は相当な暴君だったようで、大田代伊予守を即座に手討ちに遭わせ、父の角掛菊池定恒(恒邦)は出奔を余儀無くされます。

元祖江刺氏をバックレた角掛菊池定恒は江刺郡浮牛館主(岩手県北上市口内町松坂)口内出羽守を頼ったようです。角掛菊池定恒は諌臣ながら巧いなーって思ったのは、口内出羽守は本家江刺氏の系図によれば、江刺郡三州館主(岩手県奥州市江刺藤里)本家江刺兵庫頭重恒の3弟彦三郎又は3番目の叔父帯刀に当たるとされ、しかも元祖江刺信時の娘を妻にしていたのです。

更にこの動きに閉伊郡鍋倉城主(岩手県遠野市遠野町)阿曽沼氏13代当主刑部少輔広郷が国境を越え、葛西領に進撃します。

阿曽沼広郷は遠野阿曽沼氏歴代随一の名君と評価された傑物で、17代太守晴信とも一戦交えていますが(第25章31参照)、今回の軍事行動は口内出羽守の手引きがあったか、更に言えば葛西晴信の要請があったからではないでしょうか。広郷の長男広長の妻は気仙郡世田米館主(岩手県住田町)の世田米浅沼氏(阿曽沼氏の分家で大原氏からの養子が入っている)の出身という縁によるものでしょう。

阿曽沼広郷は恐らく和賀郡田瀬湖(岩手県花巻市)のほとりをちょこっと通過して、江刺郡口内郷で合流し、南下して元祖江刺信時と対峙します。元祖江刺信時は暴君には有りがちな戦上手だったようで、地の利もあったでしょうが、阿曽沼勢を散々に撃ち返し、広郷は夜陰に紛れて退却してしまいます。

17に続きます。

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燻り続けて収拾つかない国分氏の内紛に業を煮やした伊達政宗二世は再度、家臣浜田伊豆守景隆を派遣したようで、天正15年(1587)6月20日、浜田景隆が伊達領に戻って来ます。

6月24日、刈田郡白石館主(白石市益岡町)から安達郡宮森館主(福島県二本松市小浜)となった白石右衛門大輔宗実が鬼庭石見守綱元に伊達政宗二世宛ての書状を添えて松茸を献上しています。政宗二世が喜びの返書を送っています。

内紛を拗らせた国分氏には更に高野壱岐守親兼と片倉紀伊守、そして伊東重信が再派遣されます。主君の誕生日に合わせたか、8月2日と8月4日にそれぞれ伊達領に戻っています。

側小姓(寵童)同士の嫉妬渦巻く色恋沙汰の正体とはその実、大崎四家老と大崎監司(執事)による家中を二分する派閥争いだったようです。

四家老派、里見、中目、渋谷、仁木に笠原が加わった勢力は、玉造郡名生城主(大崎市古川大崎)大崎左衛門督義隆を推戴することに成功したわけですが、それを見て不利だと焦った監司派は、殿様が幽閉されたとデマゴギーを吹聴し、元々背後に伊達政宗二世の陰謀があったのか、将又派閥争いの末に伊達政宗二世と結び付いたのか、剰え派閥の首魁たる玉造郡岩手沢館主(大崎市岩出山)氏家弾正忠吉継に至っては、政宗さん、大崎を我が物に成されませとホザいているわけですから、葛西史上稀代の謀叛人・末永能登守宗春も真っ青の、北越の革命志士・新発田重家が驚き呆れ、北東北の反骨闘将・九戸政実が憎悪侮蔑する、とんだ売国奴野郎です。

このような氏家吉継の態度に心底腹に据え兼ねた大崎義隆は、吉継の隠居した父親で玉造郡三丁目館主(大崎市古川清水三丁目)氏家三河守隆継鉄心斎の討伐を決意し、息子のほうには切腹を申し付けています。

8月8日、氏家隆継は伊達政宗二世に書状を送り、大崎義隆が居城名生城から自ら出陣し、愚老(ワシ)の所まで僅か数里の所まで迫っている!と危機的状況を伝えています。

1里が約4キロメートルに定められたのは関白豊臣秀吉の全国統一以後であり、それまでは地域差はあるものの、大体600メートルくらいだったようです。
名生城から三丁目館までは大体2、3キロメートルくらいでしょうか。些かアバウトですが数里っちゃあ数里なのでしょう。或いは政宗二世の危機感を煽ろうと隆継が吹聴した可能性も無きにしも非ずです。

とは言え、この書状が政宗二世の元に届いた頃には氏家鉄心斎隆継の首は宙に飛んでいそうです。しかし、出羽国最上郡山形城主(山形県山形市)最上出羽守義光が仲介に入り、一旦停戦しています。

そんな最上義光について興味深い話があります。8月24日、白石宗実宛ての書状で政宗二世はその母方伯父について、表向きと内心が異なる策略家として近隣に音に聞こえた人物だから気を付けろよ、と記しているのです。

お前もな、って義光のツッコミが入りそうな科白ですが、改めて考えると最上義光って軒並み没落していく室町の名門武家の末裔にしては極めてタフでクレバーな癖者という印象です。しかし、そのキレ過ぎる才能は却って諸刃の剣となって己に降り掛かって来たことは甥に劣りません。

また、田村家中については、親伊達派と親相馬派の対立が、車の両輪の如く拮抗させておいたほうが何かと都合が良いと判断していたようです。中々狡猾なことを企むものです。

8月28日、そんな最上義光と田川郡藤島城主(山形県鶴岡市)大宝寺武藤義高との和睦が成立し、仲介に立った伊達郡増田郷領主(福島県福島市)増田摂津守興隆(我即斎)が伊達領に戻って来ます。政宗二世はその労いとして増田興隆に初雁料理(秋に北から渡って来たばかりの雁を材料にした料理)を振る舞っています。

9月10日、伊達政宗二世が関白豊臣秀吉に名馬を献上しています。両者の交流がスタートするのはこれが初めてです。

これは恐らく、既に豊臣政権に入った上杉氏が、新発田重家の独立を潰す為に、既に交流していた政宗二世を秀吉に引き合わせ、三位一体で戦争を有利に進めようとの画策と見られます。

9月19日、越後国頚城郡春日山城主(新潟県上越市春日山町)上杉弾正大弼景勝は、越後国蒲原郡新発田城主(旧沼垂郡、新潟県新発田市)新発田因幡守重家に対し、豊臣政権としての和睦勧告を発しますが重家は断固拒否します。

会津郡黒川城主(福島県会津若松市)芦名主計頭義広の執権・越後国蒲原郡津川館主(旧沼垂郡、新潟県阿賀町)金上遠江守盛備が救援の兵を差し向けますが阻まれて失敗。9月25日の最後通告も拒否し、重要拠点も陥落しますがそれでも持ち堪え、遂に10月25日、新発田城が陥落、新発田重家は自刃を遂げ、関連拠点も掃討され、独立戦争は終焉しました。享年41歳。その生き様はただ菩提寺に神妙壮麗な肖像画が遺るのみです。

9月は、17代太守葛西晴信と伊達政宗二世が同盟を結び、起請文を書いています。

16に続きます。

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天正15年(1587)3月13日、宮城郡松森鶴ヶ城主(仙台市泉区松森)国分能登守政重が、家臣古内某を使者に、黄金、馬、鷹を伊達政宗二世に献上し、鬼庭石見守綱元がその使者の応対をしています。

政重にはこの年に長男実永(じつえい、僧籍)が誕生していますが、3兄で冷酷無比なる粛清家・留守上野介政景とは異なり、末っ子故のユルさか、家中の統率を上手く采配出来ず、宿老で宮城郡堀江館主(仙台市若林区荒井)堀江掃部尉改め伊勢守勝重の造反を招いており、それに関する相談と嘆願の使者と見られます。

3月29日、17代太守葛西晴信が伊達政宗二世に使者を出しています。内容については不明ですが、浜田広綱の乱の顛末ではないかと思われます。

4月16日、伊達兵部大輔実元が没します。享年61歳。既に一人息子の安房守成実が家督を継いでいます。

伊達実元ほど不如意な運命に翻弄された伊達氏当主の息子もいないでしょう。何故か曽我兄弟に因んで幼名をつけられ、越後上杉氏の養嗣子に入れられると決められ、この養嗣子入りが伊達氏を、南東北を二分する大戦に発展し、父稙宗派に属するものの、内戦の勝利も養子縁組の話も雲散霧消し、次兄晴宗に降伏します。
気の毒なことに周りの様々な思惑に巻き込まれただけだったことが却って良かったのでしょうか。その後も活かされたことは怪死謀殺を遂げた長庶兄晴清、3兄義宣とは明暗を別けました。
その後も晩婚、しかも近親婚で一家を成すなど、伊達家長老というやっと安定した存在になるまで紆余曲折に満ちた生涯と呼べるでしょう。

田川郡藤島城主(山形県鶴岡市)大宝寺武藤氏18代当主義興(義高)は、最上郡山形城主(山形県山形市)最上出羽守義光との対立から、上杉氏に接近し、その家臣本庄越前守繁長の次男義勝を養嗣子に迎えるのですが、余計に最上義光の猜疑心を掻き立たせ、情勢は極めてきな臭くなります。
4月20日、伊達政宗二世は伊達郡増田郷領主(福島県福島市)増田摂津守興隆(我即斎)に書状を送り、両者の和睦の使者を命じています。

4月25日、国分氏の内紛に際し伊達政宗二世は家臣伊東肥前守重信を名取郡北目城(仙台市太白区郡山)に派遣し、事態の収拾を図っています。

5月3日、桃生郡深谷荘小野城主(東松島市小野)長江播磨守晴景入道月鑑斎が伊達政宗二世にハイタカを贈っています。ハイタカとは鷹狩り用の小型の鷹の種類です。

5月8日、国分氏の内紛が収まったことを記した伊東重信の書状が政宗二世にもたらされます。しかし、内紛は又もや再発してしまいます。一方で増田興隆が担当した最上義光と大宝寺武藤義興との和睦成立の書状も同日に届きます。

またこの日は、薩摩国(鹿児島県)の島津義久が関白豊臣秀吉に降伏し、九州征討が完了しています。

5月22日、黒川郡鶴楯城主(大和町鶴巣下草)黒川安芸守晴氏入道月舟斎の使者成田紀伊守が伊達政宗二世の元を訪れます。

成田紀伊守は黒川郡成田郷(富谷市成田)を名字の地とする人物でしょうか。二人の月ナントカ斎が政宗二世に連絡するのは何らかの意図あってのことでしょうか。

またこの日は伊東重信が伊達領に帰還しています。

5月24日、越後国頚城郡春日山城主(新潟県上越市春日山町)上杉弾正大弼景勝の使者が伊達政宗二世を贈答品もて訪問します。恐らく越後国蒲原郡新発田城主(旧沼垂郡、新潟県新発田市)新発田因幡守重家独立戦争に関する協議と見られます。

九州征討を遂げて九州に立った秀吉が見た風景は、嘗て世界の荒波を越えて遥々やって来たキリシタンバテレン、キリスト教カトリック派神父どもが、その実、西欧国家の手先となって日本国土を占拠し、日本国民を奴隷として売買し、やがては植民地化しようとの黒い陰謀でした。

6月19日、秀吉はバテレン追放令を発布。バテレンとはポルトガル語でカトリック神父、父親を意味するパードレの日本語訛り。英語のファーザーに相当する言葉です。

スペインとポルトガルの世界植民地化の陰謀を垣間見た秀吉はやがて、海外進出を決断するに至ります。それを見越して黒田官兵衛孝高、小早川隆景、加藤清正、佐々成政などが移動を命ぜられ、鎌倉室町伝来の在地氏族は見ず知らずの土地に転封を余儀なくされます。

今も都会の人が、止せば良いのに地方に終の移住をするものの、その土地の風土に馴染めず失敗するという話を聞きますが、戦国時代末期なんてそれ以上に他所者には冷たく厳しかったでしょう。しかし、逆らえば城井(きのい)宇都宮氏のように血の粛清が待っていました。
この決断は世界や日本のみならず、この東北にも少なからず影響を及ぼします。

15に続きます。

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