カテゴリ: 第十一章・みあと遥かなり

結果から見れば無謀な行為とも取れる鎌倉公方の天下取り。清和源氏の子孫、尊氏の息子だからといっても、所詮は弟系統。しかも上洛した将軍のお留守番で、たかだか関東10ヶ国を預かる庶流でしかない基氏の家系がそうやすやすと野心を抱けるというのは、単に傲慢な欲タカリゆえなのでしょうか?

これはおいらの勝手な想像でしかありませんが、鎌倉公方の使命とは、室町将軍家にことあらば征夷大将軍に就任しても良いということが内々に約束されていたのではないでしょうか?

いずれにしても当時の天皇家の如く両統迭立、系統分裂の危機を足利氏も抱えていたのです。

1380年(北康暦2年・南天授6年)3月7日、半ば絶望した関東管領山内上杉憲春が自害したことにより、2代公方氏満は思い止まります。結果としてその死は諌死として平手政秀の如く美談化されました。

4月13日、脇に追いやられていた斯波義将一派の武将達が復権を果たし、幕政が塗り替えられます。

鎌倉公方氏満は思い止まりこそすれ、諦めた訳ではありません。山内上杉憲春5弟憲方を指揮官に上洛させますが、何とこの男、裏で3代将軍義満と結託し、関東管領就任を条件に撤兵してしまいます。

そうなると氏満は手足をもがれた状態となり、進退窮まって5月2日、義満に屈服します。

皇室や貴族、荘園の支配といった古代社会の遺物は既に無実化され、在地豪族は自立を求めた動きをするようになり、近隣とせめぎ合いをするようになります。
そのさなかで下野国(栃木県)では宇都宮氏と小山氏は両雄並び立たず、激しい対立を繰り広げ、5月16日、足利氏満は宇都宮基綱に命じ、小山義政を討伐させますが、あべこべに戦死してしまいます。享年31歳。長男満綱が跡を継ぎ、次弟氏広が後見します。

「佐久間本国分系図」によれば6月5日、国分氏7代当主美濃守胤輔が没します。享年68歳。養孫修理亮胤経が8代当主を継ぎます。

小山義政討伐を諦めない公方氏満は6月15日、征討軍を発し、9月21日小山義政が降伏します。

熊谷氏の系図によれば8月18日、元良郡赤岩館主(気仙沼市)熊谷弾正直政が没します。享年59歳。長男備中守直行が跡を継ぎます。

千田氏の系図によればこの年は、桃生郡太田館山館主(石巻市桃生町)千田重親長男重元と及川内膳正為氏の娘との間に3男重綱が誕生します。

またこの年は北畠顕信が没します。享年61歳。北畠氏の嫡統は3弟顕能の伊勢国司家に引き継がれます。

葛西清重が東北に所領を賜り、葛西氏の歴史が開闢して既に折り返し地点に差し掛かろうとしています。

ここまで殆ど表舞台に出て来なかった末永氏も、漸くその活躍の兆しを見せます。

次章、第十二章・庶流の枢軸では、後に謀叛を起こす末永清連誕生前夜の、もう一つの葛西氏の系統を炙り出しながら、地方の領主として生きて行く葛西氏の姿を追っていきます。乞うご期待下さい!

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1376年(北永和2年・南天授2年)10月10日、亘理郡、刈田郡、伊具郡、柴田郡の領主・亘理武石広胤(胤顕の息子)は、刈田郡で伊達宗遠との合戦に惨敗、刈田郡、伊具郡、柴田郡の割譲を余儀なくされます。

現在の刈田郡は白石市、蔵王町、七ヶ宿町。伊具郡は角田市、丸森町。そして柴田郡が柴田町、大河原町、村田町、川崎町であり、これらの県南市町は宮城県のおおよそ5分の1を占めます。

凡そ戦国時代のようなやり口に、管領斯波詮持は眉を顰めます。

12月3日、前陸奥守石橋棟義は鬼柳伊賀守に栗原郡三迫細川村を兵糧供給の為の領地として与えています。

鬼柳伊賀守とは系図から義順かその従兄弟継義と見られます。

細川村の具体的な場所は不明です。

元祖松川氏の系図によれば1377年(北永和3年・南天授3年)6月1日、磐井郡松川館主(岩手県一関市東山町)松川隼人正正村が没します。享年63歳。長男治部正胤が跡を継ぎます。

6月27日、北朝5代後円融天皇と妃三条藤原厳子との間に第一皇子幹仁親王が誕生します。ところが、三条厳子と3代将軍義満とは不倫の関係にあり、この皇子は義満の胤だと云われますが、それはないでしょう。

この年は、葛西詮清、留守家任、長江氏、山内首藤氏、登米氏らによる5郡一揆が成立します。

長江氏の当主名は3男景盛が養子に行った先の陸奥介八幡氏の系図から、景泰ではないかと推定されます。辛うじ当主名がて判明した長江氏とは異なり、山内首藤氏とその分家の分家登米氏の当主名は史料の散逸もあり、不明です。

矢作氏、浜田氏の系図によれば、気仙郡鶴崎館主(岩手県陸前高田市矢作町)矢作因幡守重慶の長男大膳亮胤慶に長男胤長が誕生します。

伊達氏の系図によれば、伊達氏の家督が宗遠から政宗一世に引き継がれたものと見られます。とは言え、第一線を退きながらも大殿として家政を取り仕切ります。

一方で伊達行宗嫡男行資の後見・修理亮宗政の活動も知られ、伊達宗政と留守氏分家余目持家とが一揆を結びます。

南部氏の系図によれば、糠部郡三戸城主(青森県三戸町)南部氏12代当主遠江守政行の長男大膳大夫守行に長男義政が誕生します。

1378年(北永和4年・南天授4年)、3代将軍義満が花の御所を造営します。
南部氏の系図によれば、南部守行に次男政盛が誕生します。

1379年(北永和5年・南天授5年)3月22日、北朝元号は康暦と改元されます。

「笠井系図」によれば、中国葛西金太郎時盛の長男金三郎弘忠に長男弘通が誕生します。母は小幡左衛門(不明)の娘。

6月8日、初代羽州探題で出羽国最上郡山形城主(山形県山形市)最上式部大夫兼頼が没します。享年64歳。長男左京大夫直家が2代目を継ぎます。

伊達郡霊山で伊達宗遠と相馬憲胤が合戦します。場所柄、相馬氏が伊達領に進出した形なんでしょうが、合戦に至る具体的な理由は不明です。

千厩金氏の系図によれば、磐井郡千厩茶臼館主(岩手県一関市千厩町千厩)金野勝次郎俊国に長男国吉が誕生します。しかし、次弟で伝千厩祖と記された右馬助俊寛こと持俊の実子の可能性があります。

「笠井系図」によれば1380年(北康暦2年・南天授6年)1月4日、中国葛西金太郎時盛が没します。享年50歳。長男金三郎弘忠が跡を継ぎます。

千厩金氏の系図によれば、金野俊国が早世します。享年23歳。長男(?)国吉が1歳の幼児であるため、次弟(というより国吉の実父?)持俊が跡を継ぎます。

この頃の室町幕府は管領細川頼元が幕政を仕切り、一方の巨頭斯波義将とその一派は面白くありません。

また、3代将軍義満にとっても細川頼元は鬱陶しい存在となり、ここに頼元は失脚します。いわゆる康暦の政変です。

これに2代公方氏満が何を思ったか、幕府に殴り込んで将軍になろうとの野心を抱きます。

室町時代の宿痾として歴史に刻まれている幕府と鎌倉府との対立。それは同母の兄弟であった義詮と基氏の最晩年に既にその萌芽がありました。
足利氏満はわずか10歳で関東統治の重責を担うや、とにかく力任せの政治に走り、それでいてある程度の成功を収めていましたから、自信が確信を通り越し、過信と慢心に増長していたのかもしれません。

氏満の決起上洛に関東管領山内上杉憲春(憲顕4男)が反対します。元々家督息子でなかった憲春にとって、家督相続を保証してくれる鎌倉府と関東管領の地位を承認してくれる幕府との和合こそが自身の権力の源泉なのですから当然です。

32に続きます。

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金沢氏の系図によれば1375年(北応安8年・南文中4年)2月22日、磐井郡金沢朝日館主(岩手県一関市花泉町)金沢出雲守清胤が没します。享年69歳。長男刑部基胤が跡を継ぎます。

2月27日、北朝元号は永和と改元されます。

「秋田藩佐竹家所蔵文書・蜂屋文書」によれば4月1日、左京権大夫こと奥州管領斯波詮持が葛西周防三郎に対し、胆沢郡志牛郷(岩手県奥州市水沢佐倉河)、那須河郷(岩手県奥州市水沢佐倉河字前田周辺)を恩賞として宛行う書き下し文を発給しています。改元を知らなかったのか、元号は北応安8年と記しています。

葛西周防三郎とは葛西詮清のことと推測されます。であれば、その父7代当主高清は周防守を名乗っていたことになります。

胆沢郡志牛郷はかのアテルイ公が朝廷軍を散々に打ち破った巣伏の合戦があった地ではないかとされ、後に四丑村と改名し、北上川に架かる橋にその名を留めるのみとなっています。

那須河郷もまた、茄子川村と改名し、八幡神社とそのバス停にのみその名を留めています。

ついでにアテルイ公に因む安土呂井村というのもその南隣にあって、跡呂井橋と跡呂井文化センターにその夢の跡を遺すのみとなっています。

未来の首都機能移転を見据えて奥州市と名乗るのは構わないが、古来からある地名は残しとけって。

8月15日、南朝元号は天授と改元されます。

この年は伊達宗遠、田村荘司氏、留守家任による一揆が成立します。一揆とは元々同盟という意味で、ここでは国人一揆、即ち国人同士が結託して外部権力の介入を拒否し、自治権を確立するもので、この時代の東北政治史は国人一揆のそれと呼んでも過言ではなくなります。

ちなみに一揆が農民の反乱を意味するようになるのは、農民反乱を意味した土一揆が一般化してからのことです。

田村荘司氏の当主は系図によれば定義か則義と見られます。同時史料にのみ名前がある宗季の次世代と思われますが、史料があやふやなため、詳細は不明です。

「B類系図」によればこの年は、葛西詮清に4男信貞が誕生します。母は側室・江刺郡岩谷堂館主(岩手県奥州市江刺)江刺重光の娘。

岩渕氏の系図によれば、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕近江守経信が没します。享年69歳。長男修理亮幸経が跡を継ぎます。
福地首藤氏の系図によれば、相模国鎌倉郡山内郷(神奈川県鎌倉市)の山内首藤越中守俊広が没します。享年86歳。長男俊宗は父に先立ち戦死していますので、長孫周防守経宗が跡を継ぎます。

1376年(北永和2年・南天授2年)1月24日、吉良治家が自領である武蔵国荏原郡世田谷郷(東京都世田谷区)の一部を鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進しています。

永井菅原氏の系図によれば3月29日、桃生郡永井館主(石巻市桃生町)永井菅原兵部大輔長顕が没します。享年63歳。長男兵部長明(1347~1407)が跡を継ぎます。

恐らく読みは“ながはる”でしょうが、親子して紛らわしい名前の永井菅原長明は葛西詮清家臣として東方の旗頭となったと記されます。

31に続きます。

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金沢氏の本家・薄衣氏は磐井郡薄衣郷(岩手県一関市川崎町)に土着する前に栗原郡三迫地方(栗原市)に一旦下向しています。薄衣郷移動後も栗原郡内の所領は所持していたのでしょう。それが金沢氏を経て富沢胤重が相続し、栗原郡岩ヶ崎館主(栗原市栗駒)として分立したという経緯でしょう。

遠田郡鉢森郷の合戦時、富沢胤重はわずかに10歳で、葛西氏からの養子でもないし右馬助でもないからお伽話にもならないんですが、系図類から炙り出される富沢氏の肖像は、謎めいているという点では末永氏など他の葛西家臣団と何ら変わりがないのですが、壮絶さにおいては預り囚人から発祥した氏族以上に凄まじい履歴を踏んでいます。

ただ河内守というもう一つの名乗りについては、実際河内守を名乗る当主がいたことを勘案すれば、あながち作り事では無さそうなんですが、その富沢河内守と名乗った男を見るにつけ、葛西氏の子孫とか本当か、お前?って思うのです。その時になれば述べますけれども、葛西氏滅亡前夜、その存立を危うくする前門の伊達氏、後門の富沢氏が最後の当主葛西晴信をまさにサンドウィッチしていたってまぁ、何言ってるかわかりませんけど。

また、上形氏については系譜も残らない本当に謎の氏族なのですが、後述しますが富沢氏とはピンポイントに結託して行動しており、まさに余目旧記にある裏で示し合わせながら云々に相当するのです。

さて、中世留守氏の物語である「余目旧記」が何故にこのようなお伽話めいた武勇伝なんぞを別更に特筆大書するのかといえば、どうやら上形氏は天文年間(1532~55)、所領を追われ、留守氏の家臣に所属したようで、やがてお家発祥譚が富沢氏と共に採録されるに至ったのではないでしょうか。とすれば、「余目旧記」の編纂には上形氏も少なからず関わったことが想像されます。

1374年(北応安7年・南文中3年)、伊豆守清員と光清が胆沢郡大柏山貊塚(えびすづか、岩手県金ヶ崎町永沢、永栄)900苅(約900アール)を曹洞宗大梅拈華山円通正法禅寺に寄進しています。

伊豆守清員とは葛西一族と見られ、「B類系図」に6代当主清貞の3男で末永美濃守定道の養子となって家督を継いだ式部清定が清貞→清員と、或いは書き換えという名の改竄とかではなくて、書き間違えられたものと見られ、「末永系図」では安芸守清恒、別本には七郎左衛門尉晴房と記される人物であると、おいらは思い込み、いや考証しています。

光清については不明です。或いは“こうせい”という名の出家なのかも知れません(しつこいな)。

大柏山貊塚が金ヶ崎町永沢ないし永栄のどの辺にあるのかは、既に地名が喪失して久しく、不明です。

黒沢氏の系図によればこの年は、磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢隠岐守守尚に長男守忠が誕生します。

留守氏の系図によれば、留守氏9代当主淡路守家任に長男家政が誕生します。

30に続きます。

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お互いが敵味方に別れ、双方示し合わせながら武功を立て、共に晴れて念願の領主に立身出世するサクセスストーリー。そんなこと出来るワケねーだろと、直球なツッコミは敢えてせず、100歩譲って(譲り過ぎだ)このエピソードの根本を見つめてみます。

まず葛西レンセイという人物ですが、石巻市吉野町の曹洞宗日輪山多福院板碑にある蓮阿(葛西武治)、蓮昇に連なる人物と見られ、そのものずばり、蓮昇に繋げる説があります。

葛西蓮昇こと蓮昇大禅定門は、応永7年(1400)5月2日に没し、その1周忌と33回忌の板碑が幸いにも現存するという、学術的には中々果報な人物でありながら、俗名等一切不明の人物で、「A類系図」にのみ、8代当主葛西満良の戒名として記載があります。

「A類系図」以外での葛西満良の扱いは、「盛岡」ではあろうことか3代清親の世代に“強制連行”され、剰え“こんなヤツいねーよ”とばかりに晒し者にされています。

また、「末永系図・河南」では一応8代当主として記載しながらも、割り注でいきなり“又詮清と称す”と、こちらが正しいと主張され、結局否定されてしまっている有り様。

案外葛西満良戒名蓮昇とは葛西武治戒名蓮阿の孫行重のことなのかも知れません。親家ではなく行重と考証したのは親家が案外早く没した可能性から類推した結果です。

であれば葛西レンセイ(蓮誓?)とは蓮昇行重ではなく、親家のことなのかも知れません。

その葛西レンセイの第10子右馬助とも16子河内守とも言われる、兄弟多くして部屋住みを余儀なくされた持て余しっ子、さながらイギリスのジョン王か井伊直弼か「アナと雪の女王」のハンス王子のような人物が富沢氏の初代だと「余目旧記」は記すのです。

富沢氏のルーツについて余目旧記以外から何か判ることは無いでしょうか。

第九章67で述べましたが、弘安7年(1284)12月9日開催の新日吉社小五月会(しんひえしゃ・こさつきえ)流鏑馬の3番射手として出場した葛西宗清一世家人、富沢秀行が富沢氏の祖ではないかと、旧志津川町の郷土史家・佐藤正助氏は類推されておられましたが、富沢秀行の名前じたい、他に出典例が無く、このまま歴史の波に埋没してしまっているため、そのDNAの連続について語る術は無いのが実状です。

では後世編纂の系図では富沢氏をどのように調理し、咀嚼しているのでしょうか。

熊谷氏と薄衣氏の系図によれば、

熊谷直実の庶流子孫、元良郡熊谷氏4代直光の4男寺崎熊谷直能、その長男直常が馬篭熊谷合戦で壮絶な討死を遂げ、その遺児直次が浜田熊谷氏となり、金沢薄衣清胤の次男胤次が養嗣子に迎えられて常直と名乗っていたところ、直次が殺人事件の被害者になり、仇討ちの末実家に戻り、金沢熊谷胤助と名乗ります。

その胤助も早世し、長男胤正(胤直)が家督を、次男日向守胤重(1363~1428)は磐井郡富沢(岩手県一関市)約100町(約100ヘクタール)に分家し、富沢氏を名乗ったのが嚆矢となります。

29に続きます。

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