既に隠居して久しい葛西清重は老境に於いて、孫や曽孫に囲まれ、悠々自適であったか、将又病気がちで苦悩の日々であったかは各種系図は勿論のこと、「吾妻鏡」などの同時代史料からは判然としません。
「笠井系図」によれば、嘉禎3年(1237)12月5日、葛西清重が没します。享年81歳。
思えば治承4年(1180)9月3日の源頼朝に参陣を催促されてのデビューから、元仁元年(1224)閏7月1日の北条政子第二の演説を聞き、嘉禄3年(1227)12月の香取神宮遷宮完了まで、“忠節抽んでる者”“弐あらず”“勲功殊に抜群”“殊なる勇士”“心隔たり無く”等、失態や不手際も無く、怨恨や嫉妬、誹謗中傷もされず、賛辞に彩られた生涯を送り続けた武将は、毀誉褒貶激しい鎌倉政界において極めて稀有な存在であり、さしずめ戦国時代の堀秀政か蒲生氏郷を彷彿とさせます。
その生き様は「曽我物語」や「沙石集」にある如く、勇気凛々、清廉潔白、質実剛健で無欲な忠義者というよりは、機敏で率の無い、いざという時は手段を選ばず、徹底的にやり遂げる勁い覚悟を持ったいくさ人であったように感じます。
香取神宮遷宮完了の嘉禄3年(1227)12月、その12月10日に安貞に改元されていることと、「笠井系図」の葛西清重没年月日の嘉禎3年(1237)12月5日とを見比べた時、極めて類似していることから、誤解の可能性も勘繰れますが、これより勝る日付も無い上は、新しい発見が顕れぬ限り、この説を採用したく思います。
墓所は下総国葛飾郡葛西御厨渋江郷(東京都葛飾区四ツ木)に、嘉禄元年(1225)開基の浄土真宗雨降山西光寺(現天台宗超越山来迎院西光寺)。葛西御厨30余町の領主だけあって、石棺に武器を副葬した弔われ方だったことが発掘から判明しています。
元々は清重夫妻のみを弔う寺院だったのでしょうが、いつしか檀家を募り、宗旨替えを経ていく内に何時しか寺伝は散佚し、大正時代に大槻文彦(1847~ 1928)が調査に訪れ、奇しくも寺の住職が葛西姓だった頃には、没年月日さえ明らかでは無くなっていました。
戒名は「A類系図」では定蓮、「B類系図」では清重寺殿実山清真大居士。
葛西清重の子供達は、長庶子小三郎時清、次男で嫡男の三郎清親、3男四郎重元、4男六郎朝清、5男七郎時重、6男八郎清秀が同時代史料から窺えますが、娘など、その他の子供達については後世編纂された系図からは、先祖を清重に求める仮冒もあって夥しい数に上るため、当てにならず、不明です。
また、「末永系図」には、葛西清重の弟に見えるように書き込まれた“末永五郎三郎師清・戒名浄歓”なる、末永氏の先祖とされる人物がありますが、意図的な暗号であることは再三指摘して来ました。
葛西氏にとって幸運だったのは、家祖が清重であったことに尽きるでしょう。
しかし、葛西氏にとって不幸だったのは、その後の16代プラス1人において、家祖清重に勝る当主が顕れなかったことだったのです。
次章・第九章虚空の柏では、葛西氏が時代の流れによって鎌倉から東北へと次第にシフトしていきながら鎌倉時代を経ていく様を記していきます。乞うご期待下さい!
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「笠井系図」によれば、嘉禎3年(1237)12月5日、葛西清重が没します。享年81歳。
思えば治承4年(1180)9月3日の源頼朝に参陣を催促されてのデビューから、元仁元年(1224)閏7月1日の北条政子第二の演説を聞き、嘉禄3年(1227)12月の香取神宮遷宮完了まで、“忠節抽んでる者”“弐あらず”“勲功殊に抜群”“殊なる勇士”“心隔たり無く”等、失態や不手際も無く、怨恨や嫉妬、誹謗中傷もされず、賛辞に彩られた生涯を送り続けた武将は、毀誉褒貶激しい鎌倉政界において極めて稀有な存在であり、さしずめ戦国時代の堀秀政か蒲生氏郷を彷彿とさせます。
その生き様は「曽我物語」や「沙石集」にある如く、勇気凛々、清廉潔白、質実剛健で無欲な忠義者というよりは、機敏で率の無い、いざという時は手段を選ばず、徹底的にやり遂げる勁い覚悟を持ったいくさ人であったように感じます。
香取神宮遷宮完了の嘉禄3年(1227)12月、その12月10日に安貞に改元されていることと、「笠井系図」の葛西清重没年月日の嘉禎3年(1237)12月5日とを見比べた時、極めて類似していることから、誤解の可能性も勘繰れますが、これより勝る日付も無い上は、新しい発見が顕れぬ限り、この説を採用したく思います。
墓所は下総国葛飾郡葛西御厨渋江郷(東京都葛飾区四ツ木)に、嘉禄元年(1225)開基の浄土真宗雨降山西光寺(現天台宗超越山来迎院西光寺)。葛西御厨30余町の領主だけあって、石棺に武器を副葬した弔われ方だったことが発掘から判明しています。
元々は清重夫妻のみを弔う寺院だったのでしょうが、いつしか檀家を募り、宗旨替えを経ていく内に何時しか寺伝は散佚し、大正時代に大槻文彦(1847~ 1928)が調査に訪れ、奇しくも寺の住職が葛西姓だった頃には、没年月日さえ明らかでは無くなっていました。
戒名は「A類系図」では定蓮、「B類系図」では清重寺殿実山清真大居士。
葛西清重の子供達は、長庶子小三郎時清、次男で嫡男の三郎清親、3男四郎重元、4男六郎朝清、5男七郎時重、6男八郎清秀が同時代史料から窺えますが、娘など、その他の子供達については後世編纂された系図からは、先祖を清重に求める仮冒もあって夥しい数に上るため、当てにならず、不明です。
また、「末永系図」には、葛西清重の弟に見えるように書き込まれた“末永五郎三郎師清・戒名浄歓”なる、末永氏の先祖とされる人物がありますが、意図的な暗号であることは再三指摘して来ました。
葛西氏にとって幸運だったのは、家祖が清重であったことに尽きるでしょう。
しかし、葛西氏にとって不幸だったのは、その後の16代プラス1人において、家祖清重に勝る当主が顕れなかったことだったのです。
次章・第九章虚空の柏では、葛西氏が時代の流れによって鎌倉から東北へと次第にシフトしていきながら鎌倉時代を経ていく様を記していきます。乞うご期待下さい!
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