天文11年(1542)から17年(1548)にかけて繰り広げられた大戦乱はここに終結しました。しかし、同時史料からはこの後も、親子が再び戦闘した様子が窺えます。
相馬氏の記録によれば、天文10年(1541)にも稙宗の幽閉事件があり、相馬氏の家臣が救出したのだそうですが、いい加減な記憶の中から誤謬され、辻褄を合わされ、修飾されて記録されたものと見られます。
足掛け6年に及んだ戦闘は、伊達稙宗が撒き散らした種もあって、和平後もその傷痕は容易に解消されませんでした。
そりゃそうだよな、その6年間でとれだけの生命が奪われ、悲劇が生み出されたのか、想像するにつけ、和解はそう簡単ではないし、寧ろそう簡単に和解すんなよ、和解するぐらいなら初めから戦争すんじゃねぇって話ですから。
言わば母方祖父母が住んでいた惑星をぶっ壊され、どっかんばっきゅんとドンパチしながら、そんなもんみーんな忘れ去って感動の和解を遂げたアナキンとルークみたようなもんですか。今までの流血は一体何だったんだって、映画にイチャモンつけても仕方ないんですがね。
この後、親子再乱はもとより、相馬氏とはこの後、50年間で30度に及ぶ合戦が繰り広げられました。葛西と大崎の合戦が200年間に30回くらいだったのを考えれば相当激しかったことがわかります。
稙宗に同調する勢力との抗争に晴宗は追われました。
耳元で囁く君側の奸への大幅な既得権益が認められ、一元化された指揮系統を根幹にした大名領国制度は達成されず、伊達氏の戦国大名化への道は大幅に後退しました。
伊達氏が戦国大名として脱皮するまでには、晴宗の息子・輝宗の家督相続を待たなければなりませんでした。
そして葛西氏は。家中にいまだ痼を残す大崎氏は。
後日談は背筋も凍る血の粛清にまみれていました。
それを語る前に、前々から書いておりましたように、かつておいらの不手際から、デススターの如くどっかんさせてしまった部分を今、ようやく復活させたいと企図しています。
第四章・発祥の地、乞うご期待下さい!
相馬氏の記録によれば、天文10年(1541)にも稙宗の幽閉事件があり、相馬氏の家臣が救出したのだそうですが、いい加減な記憶の中から誤謬され、辻褄を合わされ、修飾されて記録されたものと見られます。
足掛け6年に及んだ戦闘は、伊達稙宗が撒き散らした種もあって、和平後もその傷痕は容易に解消されませんでした。
そりゃそうだよな、その6年間でとれだけの生命が奪われ、悲劇が生み出されたのか、想像するにつけ、和解はそう簡単ではないし、寧ろそう簡単に和解すんなよ、和解するぐらいなら初めから戦争すんじゃねぇって話ですから。
言わば母方祖父母が住んでいた惑星をぶっ壊され、どっかんばっきゅんとドンパチしながら、そんなもんみーんな忘れ去って感動の和解を遂げたアナキンとルークみたようなもんですか。今までの流血は一体何だったんだって、映画にイチャモンつけても仕方ないんですがね。
この後、親子再乱はもとより、相馬氏とはこの後、50年間で30度に及ぶ合戦が繰り広げられました。葛西と大崎の合戦が200年間に30回くらいだったのを考えれば相当激しかったことがわかります。
稙宗に同調する勢力との抗争に晴宗は追われました。
耳元で囁く君側の奸への大幅な既得権益が認められ、一元化された指揮系統を根幹にした大名領国制度は達成されず、伊達氏の戦国大名化への道は大幅に後退しました。
伊達氏が戦国大名として脱皮するまでには、晴宗の息子・輝宗の家督相続を待たなければなりませんでした。
そして葛西氏は。家中にいまだ痼を残す大崎氏は。
後日談は背筋も凍る血の粛清にまみれていました。
それを語る前に、前々から書いておりましたように、かつておいらの不手際から、デススターの如くどっかんさせてしまった部分を今、ようやく復活させたいと企図しています。
第四章・発祥の地、乞うご期待下さい!