カテゴリ: 第二十章・登米行賢の騙討

葛西宗清の義理の従弟にあたる相馬盛胤に預けられた山内首藤伊勢守知貞は、行方郡鹿島郷(福島県南相馬市鹿島区)に食邑、すなわち捨て扶持のような所領を与えられ、居候として日々を暮らしたようです。

紀伊国伊都郡(和歌山県高野町)高野山真言宗総本山金剛峰寺に独楽庵なる塔中を構えていた父貞通は、お家の滅亡と弟や息子の追放を知っていたでしょうか。逆に、鹿島郷にいた息子知貞は大永2年(1522)に父が亡くなったことを知っていたでしょうか。

山内首藤知貞はその後結婚し、頼嗣、頼貞、貞直の3人の男子に恵まれました。

歴史は編者首藤頼広をして、その先祖山内首藤知貞から一切の言葉を消し去りました。しかしながら山内首藤知貞の人生は登米太郎行賢の理不尽な裏切りに落とされることで既に終焉していたのかも知れません。子孫はそれを強く感じたからこそ、哀れな先祖に敢えて無言を貫かせたのでしょうか。

永正年間に編纂され、天文2年に改めて著述された「天文二年旧記」がどのような経緯を経て大崎市岩出山の曹洞宗諸法山実相寺に遺されたのかは不明ですが、その3年後の天文5年(1536)4月4日、山内首藤知貞はわずか38年の生涯を鹿島の地で閉じます。

山内首藤知貞が肌身離さず携えていた「修善堂記」は、行方郡小高(福島県南相馬市小高区)の曹洞宗小高山同慶寺に保管されました。ひょっとすると菩提寺だったのかもしれません。「天文二年旧記」と「修善堂記」はやがて、山内首藤知貞の子孫首藤太郎左衛門頼広の手に移り、家記編纂の血肉となるのです。

邪魔者を一つ一つ排除していった葛西宗清。しかし、新たな邪魔者が一つ一つ顕れる修羅と地獄の繰り返しを余儀なくされます。

次章・梨郷館の黄昏では、中興の英主の資格を有しながら結局中興の英主たり得なかった宗清のその後と最期を追跡します。乞うご期待下さい。

ー按ずるに、修善堂記の記載によると、七尾城は中島村に在ると伝える。現在(編者首藤頼広の時代)、土地の人に尋ねると、七尾城は中島と中野の村境に位置し、どちらの村に属するのかは不詳という。また、土地の人は七王館とも呼んでいて、七尾が七王と間違って呼ばれるようになったのではないだろうか。この他中島村には中島館と呼ばれる古いとりでがあり、言い伝えではこの館は七尾城の支城で、先祖達の隠居場所として使われたと伝わる。江田七郎清通がこの館に住んだかどうかは分からないと語ってくれた。ー

このくだりは「永正A・漢文」のみの記述です。

按ずるに、という始め方はいかにも「伊達正統世次考」の註釈を思わせる表現です。

「世次考」の“按ずるに”という註釈が中々の曲者で、江戸時代の仙台藩伊達氏の御用学者の視点で記されているものですから、葛西氏など伊達氏以外の大名領主の記述は一旦構えて読まなければならないくらい、信用なりません。

編者首藤頼広は「修善堂記」を引用しながら、取材当時の視点で地勢を論じています。

もう一つの種本、「天文二年旧記」には、江田清通が中島館主である旨が記されていましたが、編者首藤頼広の時代にはその史実があやふやになっていた様子が生々しく窺えます。

ー山内首藤知貞は桃生郡を出奔した後、相馬氏を頼り、伊勢守と名乗りを変え、当主盛胤より賓客として遇され、鹿島に領地を与えられた。天文5年(1536)4月4日病死、享年38歳。戒名は無際自得。ー

桃生郡七尾城を逐われた山内首藤知貞は「修善堂記」を携え、宮城郡南部の国分領の山野内館に移動した、というのは「桃生領主山内伝」の誤伝ですが、亡くなった江田清通の息子清氏ほか主戦派諸将のいる磐井郡日形郷の寺崎氏に移ることもなく、先祖伝来の住み慣れた故郷を去りました。このことは葛西宗清が領内に山内首藤知貞を預けておけば、またこれを旗印に挙兵されてしまう可能性を予め排除したかった為でしょう。

山内首藤伊勢守知貞が頼ったとされる行方郡小高城主(福島県相馬市)相馬大膳大夫盛胤一世の妻は、かつて伊達成宗と尚宗の親子喧嘩において尚宗に助太刀した会津郡(福島県)の芦名盛高の娘であり、伊達尚宗、葛西宗清から見て芦名盛高は義理の叔父に当たりますから、その娘婿たる盛胤一世は尚宗と宗清の義理の従弟になるわけです。

18に続きます。

ところで、明応永正の戦乱における最大の悪党とは一体誰でしょうか。

それは、編者首藤頼広が「永正A」において奸雄の士と弾劾した登米太郎行賢ではなく、ましてや山内首藤氏を滅ぼした葛西宗清・重清でもなく、己が生き延びる必要性に駆られ、策を弄した結果、山内首藤氏滅亡の切っ掛けを作ってしまった末永能登守その人に他ならないでしょう。

しかしながら、山内首藤貞通一族にとって、対する葛西宗清、重清にとっても、両者はいずれ戦わなければならない定めだったかも知れません。

こうして見ていくと、登米太郎行賢だけを奸雄の士と罵る筋合いはありません。しかし、客観的かつ感情を交えず、敵味方の区別なく公平に記述している編者首藤頼広をしてそうさせたものは一体何だったのでしょうか。

首藤頼広が家記を編纂していた頃、末永能登守嫡流の子孫は仙台藩伊達氏の統治機構の中にあり、時の家督末永惣兵衛は駒口御判肝入役(馬商人から売上税を徴収する役職)、両替屋御役目(武士身分への金貸し)、雑穀御蔵守、大豆御買人(雑穀や大豆を取り引きする役職)を命ぜられるほどのお大尽になっていました。

首藤頼広は仕官の有無は不明ですが、まかりなりにも武士階級であり、一方の末永惣兵衛は農民。何ら憚ることは無いとは言え、取材協力に応じた者や氏族に対し、或る程度の配慮はしたかも知れません。

一方で登米氏は、「世次考・政宗応永9年条按文」によると、明応永正の戦乱が終焉した後、葛西氏によって亡ぼされたことが記されます。また、登米太郎行賢の出家を伝える「大苗代系図」は、葛西氏と同時に滅亡したことを伝えていますが、血脈が絶えたわけではなく、子孫かどうかは不明ですが、「大苗代系図」はもとより、江戸時代の宇和島藩伊達氏の藩士に登米姓を名乗る者がいたようですし、登米市登米町の旧登米高等尋常小学校教育資料館には、“先祖の地を訪ねて”と題した登米さんの色紙が展示されています。

果たせるかな、編者首藤頼広をして登米太郎行賢を奸雄の士と名指しさせたものとは、登米行賢自身の不徳というよりはむしろ、「永正A」が編纂された時点で登米氏が名跡を喪って行方不明だったか、取材に非協力的だったかのいずれかではなかったかと見ているのですが、いかがなものでしょうか。

奇しくも末永能登守の乱が勃発した年に、この濁乱の世に生を享けた山内首藤知貞は、その多感な青少年期を末永能登守の人生と意地と沽券を賭けた一大合戦の巻き添えにされる形で過ごしました。

山内首藤氏への不意討ち工作に、罪悪感を得たのでしょうか、はたまた騙し討ちに対する世間の眼を恐れたのでしょうか。3月3日の出家は登米太郎行賢なりのけじめだったように感じます。もっとも、ボウズになって反省をポーズするパフォーマンスは既に末永能登守が実演済みではありますが。

17に続きます。

8代執権北条時宗が庶兄時輔及び名越流北条氏を討ち滅ぼしたのは、世界史上最大の帝国・蒙古襲来という古今未曾有の国難に際し、国内の統一を図るべく、不穏分子の芽をあらかじめ取り除くゆえの冷酷な蛮行なのだという説があります。

織田信長が自分の長男信忠と、徳川家康の長男松平信康を見比べて隣の芝生が青く見え、自刃を命じたという、信長も案外器が小さいのぅ~と思わせるエピソードは、徳川父子の相剋を誤魔化す為の俗説ですが、家康が豊臣秀頼の器量に脅威を感じた話に対応しているように感じます。

時宗が時輔に対し、家康が秀頼に対して懐いた感情が、山内首藤知貞に対峙した葛西宗清の胸の内にも去来したのではないでしょうか。

無断任官といえば、葛西宗清の後継者親子、壱岐守稙信と越中守稙清が上洛して将軍に謁見し、任官したことで大崎氏と不和を生じたのも、奥州探題大崎義兼に無断だった可能性を前述しました。葛西氏も他所の殿様のことは言えないのです。

山内首藤知貞に逆心がなかったことは、葛西宗清の攻撃を受けた際、何の抵抗も出来ぬまま総崩れになったことを見ても明らかです。戦争の意志があればそれなりの軍備はしているわけで、要するに冤罪だったのです。

登米太郎行賢の讒言がなくとも、葛西宗清は山内首藤氏を滅ぼすつもりだったかもしれません。であれば、これは謀反ですぞーという発言も、葛西宗清と一芝居打った上でのものと考えることが出来ます。

ーこの後、葛西宗清の一族・六郎を七尾城主となし、在駐させた。この時、山内首藤家の太田、飯野(辺見伊顕)、樫崎、福地(頼重)らは、登米行賢の調略により、秘かに葛西氏に内応した。これによって葛西宗清は彼等の本領を安堵したと云われる。ー

原文では末尾を云々で締めています。これで2回目。はっきりしない出来事だったのでしょうか。

進駐軍の司令官となった葛西六郎についてははっきりしません。

葛西宗清の命を受けた登米太郎行賢はまず、山内首藤家臣の内応工作を手掛け、これに一族や重鎮であった筈の辺見摂津守伊顕や福地左馬助頼重までもがこれに内応していました。

こうした下拵えを済ませた上で、登米太郎行賢が自ら先陣を駆って出て、県内屈指の堅城が落ちたのでした。山内首藤知貞は正に、手足をもがれた上で居所を逐われたのです。

永正12年(1515)3月3日、登米太郎こと越前守行賢は出家し、念斎と名乗ります。

鳥畑氏の系図によれば3月、磐井郡松川外館主(岩手県一関市東山町松川)本家松川越中守信胤の3男弾正忠胤持が磐井郡松川字鳥畑(岩手県一関市東山町松川字鳥畑)に100貫の土地を賜り、鳥畑氏として分家します。

16に続きます。

ー永正12年(1515)、17歳になった山内首藤千代若丸は元服し、知貞と諱を改め、刑部丞に任ぜられた。

同年、葛西宗清は自ら大勢の兵を率い、登米太郎行賢を先鋒とし、不意に桃生郡に攻め入った。

山内首藤知貞はもとより戦支度をしていなかったので、領内の各拠点は不利な防戦を余儀無くされ、七尾城も攻め落とされてしまった。知貞は幸いにも命からがら逃げおおせたが、一族や家臣の中には戦死または逃亡し、幾日も経たぬ内に葛西の軍門に陥ちてしまった。

事の発端は、第二次合戦の折、登米太郎行賢は姻戚の間柄で、一旦は千代若丸と江田清通との謀議に与同しながら、危ういと見るや葛西に降伏し、あまつさえ七尾城を攻撃した。以後、外交関係は断絶し、お互い距離をおいていた。ー

いつしか千代若丸も17歳の若武者となり、やや遅めの元服を迎えます。

元服、任官が遅れた背景には、彼の周りに頼もしい庇護者や後見人が居なかったことに起因していたのではないでしょうか。そしてこのことが拠点も人物も裸城となっていた知貞をより一層孤独に仕立て上げたように感じます。

編者首藤頼広が敢えて先祖知貞の一代伝記に無言を貫かせたのは、こうした一人ぼっちを余儀無くされた若武者の、蓋をされた青春を描くためと、推理するのはおいらの勝手な妄想に過ぎるでしょうか。

ー行賢は元より奸雄の士である。知貞が元服任官のおり、葛西氏の許可を得なかったとして、これは謀反ですぞと巧みに讒訴した、と云われる。

葛西宗清はこれを聞いて疑わず、激怒して言うには、かつての戦で宥恕してやったのは間違いだった。こたび速やかに知貞を撃たなければ、後々の禍となるよなあ、と言って登米太郎を先陣に、無防備なところを攻撃し、七尾城を陥落せしめた。ー

このくだりは編者首藤頼広が唯一感情を差し挟んだ部分です。頼広が詰り、罵倒した登米太郎行賢は果して奸雄の士だったか、冷静に見ていきましょう。

厄介なもの(伊達高宗、大崎義兼)が台頭し、怖いもの(江田清通、末永能登守)がいなくなった時、葛西宗清の脳裏に紛然と湧き起こったのは、後々の禍根となる存在はあらかじめ取り除いておく、という極めて冷徹な合理主義、非情な現実主義に基づいた政治判断でした。

15に続きます。

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