葛西宗清の義理の従弟にあたる相馬盛胤に預けられた山内首藤伊勢守知貞は、行方郡鹿島郷(福島県南相馬市鹿島区)に食邑、すなわち捨て扶持のような所領を与えられ、居候として日々を暮らしたようです。
紀伊国伊都郡(和歌山県高野町)高野山真言宗総本山金剛峰寺に独楽庵なる塔中を構えていた父貞通は、お家の滅亡と弟や息子の追放を知っていたでしょうか。逆に、鹿島郷にいた息子知貞は大永2年(1522)に父が亡くなったことを知っていたでしょうか。
山内首藤知貞はその後結婚し、頼嗣、頼貞、貞直の3人の男子に恵まれました。
歴史は編者首藤頼広をして、その先祖山内首藤知貞から一切の言葉を消し去りました。しかしながら山内首藤知貞の人生は登米太郎行賢の理不尽な裏切りに落とされることで既に終焉していたのかも知れません。子孫はそれを強く感じたからこそ、哀れな先祖に敢えて無言を貫かせたのでしょうか。
永正年間に編纂され、天文2年に改めて著述された「天文二年旧記」がどのような経緯を経て大崎市岩出山の曹洞宗諸法山実相寺に遺されたのかは不明ですが、その3年後の天文5年(1536)4月4日、山内首藤知貞はわずか38年の生涯を鹿島の地で閉じます。
山内首藤知貞が肌身離さず携えていた「修善堂記」は、行方郡小高(福島県南相馬市小高区)の曹洞宗小高山同慶寺に保管されました。ひょっとすると菩提寺だったのかもしれません。「天文二年旧記」と「修善堂記」はやがて、山内首藤知貞の子孫首藤太郎左衛門頼広の手に移り、家記編纂の血肉となるのです。
邪魔者を一つ一つ排除していった葛西宗清。しかし、新たな邪魔者が一つ一つ顕れる修羅と地獄の繰り返しを余儀なくされます。
次章・梨郷館の黄昏では、中興の英主の資格を有しながら結局中興の英主たり得なかった宗清のその後と最期を追跡します。乞うご期待下さい。
紀伊国伊都郡(和歌山県高野町)高野山真言宗総本山金剛峰寺に独楽庵なる塔中を構えていた父貞通は、お家の滅亡と弟や息子の追放を知っていたでしょうか。逆に、鹿島郷にいた息子知貞は大永2年(1522)に父が亡くなったことを知っていたでしょうか。
山内首藤知貞はその後結婚し、頼嗣、頼貞、貞直の3人の男子に恵まれました。
歴史は編者首藤頼広をして、その先祖山内首藤知貞から一切の言葉を消し去りました。しかしながら山内首藤知貞の人生は登米太郎行賢の理不尽な裏切りに落とされることで既に終焉していたのかも知れません。子孫はそれを強く感じたからこそ、哀れな先祖に敢えて無言を貫かせたのでしょうか。
永正年間に編纂され、天文2年に改めて著述された「天文二年旧記」がどのような経緯を経て大崎市岩出山の曹洞宗諸法山実相寺に遺されたのかは不明ですが、その3年後の天文5年(1536)4月4日、山内首藤知貞はわずか38年の生涯を鹿島の地で閉じます。
山内首藤知貞が肌身離さず携えていた「修善堂記」は、行方郡小高(福島県南相馬市小高区)の曹洞宗小高山同慶寺に保管されました。ひょっとすると菩提寺だったのかもしれません。「天文二年旧記」と「修善堂記」はやがて、山内首藤知貞の子孫首藤太郎左衛門頼広の手に移り、家記編纂の血肉となるのです。
邪魔者を一つ一つ排除していった葛西宗清。しかし、新たな邪魔者が一つ一つ顕れる修羅と地獄の繰り返しを余儀なくされます。
次章・梨郷館の黄昏では、中興の英主の資格を有しながら結局中興の英主たり得なかった宗清のその後と最期を追跡します。乞うご期待下さい。