カテゴリ: 第十四章・蠢動する萌芽

南部氏の系図によれば文明15年(1483)6月12日、糠部郡三戸城主(青森県三戸町)南部氏19代当主彦次郎通経が没します。享年48歳。実子無く、政盛系は断絶、助政系の従叔父左衛門佐信時(助政長男)が20代当主を継ぎます。

9月、13代太守信勝が上洛し、壱岐守の官職を与えられ、政信と改名します。前8代将軍足利義政からの偏諱でしょうか。

また、日和山葛西満重もまた、この機会に陸奥守の官職を得たものと見られます。

葛西氏庶流のクーデター、成功の秘訣は、その背景たる伊達成宗の奥州探題補任があったのではないでしょうか。

9月、伊達成宗は従四位上奥州探題に補任され、その返礼の為に上洛、10月10日に京都入りし、前8代将軍義政や9代将軍義尚等、所々方々に黄金、太刀、名馬をバラ撒き…いや献上し、12月後半、大和路から奈良を通り、伊勢神宮を見ながら帰郷しています。

名門ではあっても所詮は一介の国人領主でしかない伊達成宗がそんな馬鹿な!?と思われる向きもなきにしもあらずですが、必ずしも有り得ないという話ではありません。何故なら成宗は7代大崎探題教兼の長女婿だからです。

とは言え大崎教兼には息子だけで9人、長男8代政兼が先立ったにせよ、長孫9代義兼もいます。然るに、9代義兼はその若さ幼さゆえに奥州探題の責務には到底耐えられず、年齢、政治力、血筋は多少無理はありますが、伊達成宗に前代未聞の白羽の矢が立った、というより立つように手練手管を尽くして売位売官した結果なのでしょう。

10月11日、北条早雲こと伊勢新九郎盛時が室町幕府9代将軍義尚の申次衆に任命されています。

申次衆は将軍に拝謁や言上、奏上をしに来た人達を将軍に伝え、取り次ぐ役目ですが、ひょっとすると伊達成宗を取り次いで、顔を合わせた可能性があります。

ちなみに9代将軍義尚はこの時19歳で、眉目秀麗で些か女癖の悪い、一応いっぱしの大人の男に成長していました。それゆえに母の日野富子と軋轢を生じています。

「中舘」によればこの年は、元良郡朝日館主(本吉郡南三陸町志津川)西舘彦五郎信輔こと元良信濃守清継の長男大膳大夫信胤こと播磨守春継に長男重胤が誕生します。母は家女房、すなわち館に仕えていた侍女ということになり、余りにも身分が低い為、出自が記されなかったのでしょう。

中館熊谷氏の系図によれば、元良郡中館館主(気仙沼市月立字表松川)中館熊谷肥後守直行の長男仲左衛門直景が父に先立ち早世します。享年41歳。

六日入鈴木氏の系図によれば、和賀郡鬼柳郷(岩手県北上市鬼柳町)住人で和賀氏家臣・鈴木主馬助重僚(しげあきら?)が没します。享年不明。母は林崎壱岐守永久の娘(詳細不明)と記され、長男伊賀守重之が跡を継ぎます。

千田氏の系図によれば、磐井郡砂子田御貝館主(岩手県一関市藤沢町砂子田)千田兵庫助重篤に長男重政が誕生します。母は黄海豊前守高明の娘。
黄海高明とは磐井郡黄海館主(岩手県一関市藤沢町黄海)黄海大蔵重範、大蔵重行の一族と見られますが、詳細は不明です。

元祖松川氏の系図によれば、磐井郡松川館主(岩手県一関市東山町松川)松川筑後守胤滋が没します。享年51歳。家婢(侍女)との間に娘しかもうけられず、磐井郡奥玉立花館主(岩手県一関市千厩町奥玉)奥玉左近胤永の次男で婿養子の五郎右衛門利胤が尾張守滋吉と改名して跡を継ぎます。

一方の本家松川氏、薄衣氏、鳥畑氏の系図によれば、磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町薄衣)薄衣美濃守清胤の次男越中守信胤に3男胤持が誕生します。母は磐井郡大原山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原飛騨守信広の娘ですが、再三述べた通り、大原氏の系図には記載がありません。



またこの年は、末永清春に初孫、長孫が誕生しています。



葛西氏庶流のクーデターには伊達成宗の次男で日和山葛西満重の婿養子となった男が深く関わっていたものと見られます。やがてここからの葛西氏史はこの男を台風の目にして動いていき、末永能登守の乱を迎えます。

次章、第十五章・葛西宗清という男では、葛西氏史上最も闇に包まれ、最も謎めいた時代に覇権を奮った梟雄について論じていきます。乞うご期待下さい!

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文明15年(1483)4月、日和山葛西満重が山内首藤氏のお膝元、七尾城の東、桃生郡中野郷(石巻市)牧の巣山の北麓にあった天台宗平沢山龍源寺を再興します。

桃生郡中野の龍源寺は元々登米郡寺池郷(登米市登米町)の天台宗桁渕山柳源寺、正確には9代太守満信の戒名の由来で菩提寺でもあった龍源寺が、所の領主登米氏の本家山内首藤氏の領地桃生郡に血縁を通じ、“分家”したものであると見られ、時の移ろいと共に廃れてしまっていたようです。

日和山葛西満重が龍源寺を再興しようとした背景には、9代太守満信へのオマージュ(尊崇)があったのではないでしょうか。

9代太守満信の戒名・龍源寺殿とは寺池の柳源寺(龍源寺)を菩提寺としたからに他なりません。後に日和山葛西満重は龍源寺殿を戒名にします。満信をわざわざパクったような満重という俗名も、後に日和山葛西満重が9代太守満信に同じ陸奥守を官職名にしたのも、弓馬の達人との誉れ高い名君9代太守満信に肖ろうとした結果なのではないかと詮ずるのです。

しかし、その一方で、日和山流葛西家こそ葛西氏本宗家たらん、との野心を表明したものとも解釈することが出来ます。

中里熊谷氏の系図によれば5月4日、大崎家臣志田郡新堀館主(大崎市古川)中里熊谷宮内康直が没します。享年71歳。次弟志田郡伊賀領主(大崎市三本木)修理季直の長男で養嗣子長門守興直が跡を継ぎます。



葛西氏の歴史において驚天動地の大事件が勃発します。

6月7日、12代太守葛西兵庫頭尚信頓死。享年33歳。

この早過ぎる死には、謀反による死であるとか、平守寛が元禄7年(1694)に編纂した「内史略」によれば、ズバリ、叔父四郎信勝による毒殺であると、記しています。

図らずも治世僅か3年間、享年齢ともども葛西氏歴代の中では最も短命な境涯となりました。祖母を南部氏に、母を大崎氏にもつ抜群のサラブレッドは、それ故に嫌忌されたのか、それとも…?

戒名は「A類」では存在が否定されているため存在せず、「B類」では真楽院殿歓山蓮喜大居士。旧志津川町の郷土史家・佐藤正助氏によれば、“楽歓喜の羅列は奇異で、寧ろ皮肉さを感じる”と記しておられます。

妻は不明ですが、一人娘があり、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世の3男で、黄海古堂館主(岩手県一関市藤沢町黄海)黄海岩渕大和守高国の妻となっています。

33歳で娘一人というのは、当時は寧ろ少ない方でしたので、存外病弱な人物だった可能性も否定出来ません。

叔父の四郎信勝こと壱岐守政信が13代太守を継ぎます。



12代太守尚信毒殺は正に、叔父政信の謀反、クーデターでもありました。

この反逆劇に庶流最後の大物・日和山葛西氏が一枚も二枚も噛んでいた可能性があります。

何故なら、葛西政信と日和山葛西氏に寄食している末永清春とは父方(持信と清連の兄弟)、母方(中津山葛西信貞の娘姉妹)共に従兄弟に相当するのです。

日和山葛西満重が養子の実家伊達氏を背景に、居候の末永清春を走狗に、庶子政信を唆し、庶流のクーデターを起こした、と考えるのは早計に過ぎるでしょうか。

20に続きます。

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文明14年(1482)4月、李氏朝鮮国王成宗の元に夷千島王遐叉(カイウ)なる人物の使者宮内卿が訪れ、大蔵経を求めています。

遐叉の正体につけては、アイヌ人の族長説や、下国桧山流安東政季説など諸説ない交ぜですが、国王でないと大蔵経は貰えないため、安東政季がアイヌ人族長と称して使者を出したと見られるのですが、李氏朝鮮国王でなければならなかった理由が判然としません。



「門崎布佐」によれば5月2日、末永清春に相当する末永右衛門晴住が享年60歳で没したと記します。3たび書きますが、末永清春はもっと後に没したらしく、この年月日は何等かの暗号かも知れないくらいに見てよいかと思います。



大原氏の系図によれば5月15日、磐井郡大原山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原肥前守広忠が没します。享年72歳。長男飛騨守(「薄衣状」では肥前守)信広が跡を継ぎます。

千田氏の系図によれば6月、千田兵庫助重篤が、桃生郡太田館山館(石巻市桃生町太田)500貫から磐井郡砂子田御貝館(岩手県一関市藤沢町)300貫に減封の上、遷されています。

減封移封とは穏やかではありませんが、何等かの失態をやらかしてのことかと思われます。

移動を命令したのは13代太守政信とありますが、12代太守尚信の間違いと思われます。

桃生郡深谷荘小野(東松島市)で長江景澄と12代太守葛西尚信が合戦します。7月23日、登米郡米谷館主(登米市東和町米谷)米谷亀卦川常直の次弟で、栗原郡三迫福岡領主(栗原市若柳福岡)亀卦川刑部政常が戦死を遂げます。享年43歳。13代太守葛西政信から一字拝領されたと記されますが、太守は尚信であり、政信はこの当時信勝と名乗っていましたから誤伝と思われます。

8月15日、伊達成宗が「家伝秘書」1巻を著します。

末文に、当家一人秘相伝、子孫の為に書写するとかなんちゃらかんちゃら記されたこの兵法書は、後述しますが、色んな事情があって3男出羽守守基に伝承され、その後伊達守基は近江国(滋賀県)南部の六角氏の寓客(まぁ居候みたいなもの)となり、やがて家臣となるわけなのですが、その子孫が名字を木村と改めて六角氏家臣として京都に在住していました。

伊達氏ではこの成宗「家伝秘書」の行方を探索していたらしく、「伊達正統世次考・成宗条」によれば延宝7年(1679)春、4代仙台藩主伊達綱村の家臣が木村子孫を探し当て、若干の黄金と引き換えに入手しています。

平成30年(2018)、東北歴史博物館にて伊達綱村の企画展が催され、実に素晴らしいことにこの貴重な「家伝秘書」を拝観することが図らずも叶い、感動しました。

11月27日、古河公方成氏と堀越公方政知が和睦します。いわゆる都鄙の合体です。しかし、堀越公方の支配領域が伊豆国(静岡県)のみに限定され、事実上の敗北となったことに足利政知自身は不満を覚えます。確かに政知にしてみれば、こんなことなら何のために還俗して伊豆くんだりまで下って戦ったんだか、という忸怩たる思いに駆られたことでしょう。
元祖奈良坂氏、黒沢氏の系図によれば、磐井郡高森白鷹館主(岩手県一関市花泉町花泉)奈良坂丹後守重光が没します。享年59歳。実子無く、磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢越中守(奈良坂系図には伯耆守)信忠の4男修理亮重朝が養嗣子となって跡を継ぎます。

これによって元祖奈良坂氏の血統は葛西太守の血筋に改めて塗り替えられたことになります。しかも清水だか奈良坂だかの信貞が出家した翌年の出来事。やっぱり陰謀の臭いを嗅ぎ取るのは穿ち過ぎでしょうか。

岩渕氏の系図によれば、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世に3男高国が誕生します。母は高梨日向守教定の娘。

鱒渕及川氏の系図によれば、磐井郡鳥海館主(岩手県一関市大東町沖田)及川豊前守重村の3男で後に鱒渕及川氏の祖となる隼人重国に長男重家が誕生します。母は不明。

熊谷氏の系図によれば、元良郡赤岩館主(気仙沼市赤岩)熊谷備中守直定に次男直光が誕生します。母は従妹の熊谷右兵衛直明の娘。

磐井郡流荘金沢北館主(岩手県一関市花泉町金沢)金沢熊谷駿河守直時にも長男晴実が誕生します。母は岩渕民部経定の娘とありますが、涌津岩渕氏の系図によれば、磐井郡涌津館主(岩手県一関市花泉町涌津)涌津岩渕民部こと三河守経定はこの時14歳で、到底おじいちゃんになれる歳なんかじゃありません。その父対馬守真経ではないかと思われます。

田茂山佐々木氏の系図によれば、桃生郡大窪樋ノ口館主(東松島市大塩)大窪佐々木信濃守泰綱に4男基綱が誕生します。母は千葉宮内少輔胤長の娘。千田重篤の祖父加賀守重賢(1415~66)の妻が千葉主馬助胤長の娘とありますが時代が合わず、不明。

新井田千葉氏の系図によれば、旧新田郡新井田館主(登米市中田町宝江新井田)新井田千葉長門守祐胤の長兄修理之進政胤の長男右兵衛俊胤に長男弘胤が誕生します。

またこの年は、芦名13代当主盛高に長男盛滋が誕生します。

更にこの年は、北条早雲こと伊勢新九郎盛時が前年の借金を返済せよと、細川京兆家内衆・庄元資の家臣・渡辺帯刀丞に訴えられています。

19に続きます。
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文明13年(1481)6月20日、11代太守朝信に近仕し、旗将となったと系図に記される磐井郡津谷川館主(岩手県一関市室根町)津谷川菅原対馬守朝房と、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世が合戦し、朝房が負傷します。

6月23日、津谷川菅原朝房が戦傷癒えぬまま戦死を遂げます。享年51歳。長男遠江守朝道が跡を継ぎます。

合戦の原因は不明ですが、“藤沢の甥っ子”岩渕経世という人物、中々血気盛んな性格だったようです。

「京都住心院文書」によれば6月24日、奥州探題一族被官人達の熊野参詣における先達職について、色々様々な経緯を履歴して、現在は本山修験宗円学山住心院が担当しているが、六角上野僧都の弟子達が先達職を買い取りたいと願っている、とあります。

六角上野の僧官位は文明8年(1476)7月23日の時点で律師でしたが、ここ数年の内に1階級上の僧都に昇格したのでしょう。僧都の上が僧正になります。

恐らく六角上野僧都は故人となり、大崎探題一族の先達の権利は住心院に移っていたものが、弟子の坊主どもらがその権利が欲しいと要求して来たのでしょう。

その後どうなったのかは文書が無いためわかりませんが、この後、大崎氏最高の名君と評価される7代探題左衛門佐教兼が没したと見られます。戒名は竜谷寺殿とのみ伝わっています。

長男8代陸奥守政兼は早世のため、長孫左京大夫義兼が9代探題を継ぎます。但し、本当に探題だったかどうかについては後述します。

8月1日、磐井郡高森白鷹館主(岩手県一関市花泉町花泉)本家清水摂津守信貞が出家します。

信貞の出家に際し、信貞の長男で磐井郡和泉小山館主(岩手県一関市花泉町花泉字築館前)奈良坂和泉守信里と、磐井郡清水二桜館主(岩手県一関市花泉町花泉字清水)元祖清水式部信国が、高森白鷹館内にある天台宗薬王山瑠璃光寺(現曹洞宗薬王山養寿寺)薬師堂に懸仏を寄進しています。

信貞の出家によって、元祖と本家が両立していた清水氏は、元祖信国で一本化されました。だからこそ元祖清水信国は奈良坂信里と共に本家信貞の為に懸仏を寄進したのです。

このことは、本家奈良坂一族が元祖奈良坂氏とガップリ四つで対決することを意味していました。

この年は、12代太守葛西尚信が桃生郡深谷荘小野城主(東松島市小野)長江景澄と合戦しています。

長江景澄は11代太守朝信時代に争った景隆の後継者と見られます。

更にこの年は、牡鹿郡門脇日和山城主(石巻市日和が丘)日和山葛西満重に男子が誕生しています。しかし、婿養子を憚ってか、この息子は後に出家しています。その辺は応仁文明の大乱の原因を反面教師にしたということでしょうか。

またこの年は、宮城郡南部国分氏分家・五郎大夫広政に長男盛光が誕生しています。後に国分氏に易姓革命をもたらす国分能登守宗政その人です。

この年は北条早雲こと伊勢新九郎盛時が、備中国人(岡山県)で細川京兆家(政元)内衆・庄元資の家臣・渡辺帯刀丞から借金をしています。

18に続きます。

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「B類系図」によれば文明12年(1480)8月19日、11代太守葛西壱岐守朝信が没します。享年54歳。戒名は「A類」では存在が否定されているため記載無く、「B類」には池鏡寺殿智山蓮仏大居士。

官職は従五位壱岐守。また、陸奥守を名乗っていた可能性があります。

正室6代大崎探題持兼の娘との間に長男兵庫頭尚信、次男治部大輔時信、長女高舘敏長の妻の2男1女を数えるのみ。

「中舘」が10代持信迄しか記さなかった故か、朝信に関する記述は極めて少なく、偏諱のこともあり、寧ろ凡庸な印象さえする程です。

改めて考えると、末永清連の乱はこの凡庸な人物にとって将来の禍根となる存在を予め除こうとして勃発した陰謀事件だったのではないかと穿ちたくなります。

しかし、その結果は、婚姻関係を結んだ筈の大崎探題との軋轢を惹き起こし、内部には日和山葛西満重の台頭、外部からは伊達成宗の圧力を許し、やがては寺池嫡流の没落と断絶を招くわけですから、下らない策略を構えた奴輩の責任は重大かも知れません。

長男兵庫頭尚信が12代太守を継ぎます。



中村氏の系図によれば9月13日、磐井郡流荘中村須崎館主(岩手県一関市花泉町花泉)中村相模守信定が没します。享年58歳。娘婿で西舘和泉守重信の3男、12代太守尚信にとっては従叔父にあたる淡路守信清が跡を継ぎます。

武山氏の系図によれば12月11日、山内首藤義通家臣で桃生郡滝浜館主(石巻市尾崎)武山刑部親光が没します。享年不明。長男三右衛門親長が跡を継ぎます。

武山親長の母は石巻武山清平の娘とあり、牡鹿郡内の、恐らく日和山葛西氏家臣としての武山氏が存在していたと見られます。

大泉石川氏の系図によればこの年は、登米郡大泉館主(登米市中田町上沼字大泉)石川日向守光長の長男但馬守光兼長男光清が誕生します。母は上田兵庫元房の娘。上田元房については不明です。

岩渕氏の系図によれば、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世に長男経平が誕生します。母は高梨日向守教定の娘で、高梨教定については不明。

熊谷氏の系図によれば、元良郡赤岩館主(気仙沼市)熊谷弾正信茂の次男備中守直定に長男直景が誕生します。母は信茂次弟で登米郡石森邑(登米市中田町)に分家した熊谷右兵衛直明の娘。

浜田氏の系図によれば、気仙郡高田館主(岩手県陸前高田市米崎町松峰)浜田大膳大夫長継が没します。享年76歳。長男遠江守信継が跡を継ぎます。

本家松川氏、薄衣氏の系図によれば、薄衣美濃守清胤の次男越中守信胤に次男信政が誕生します。母は磐井郡山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原肥後守信広の娘ですが、前述しましたが、大原氏の系図には記載がありません。

また、堀越公方足利政知に次男が誕生します。母は後妻・武者小路隆光の娘円満院。

先妻との間に長男茶々丸がいたため、後に出家し、清晃と名乗ります。

新館千葉氏の系図によれば文明13年(1481)1月27日、元良郡新館館主(気仙沼市本吉町)新館千葉武蔵守重高が没します。享年不明。長男右京大夫貞重に家督を譲って2年後の死でした。

17に続きます。

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