本日令和2年(2020)11月3日は、遠祖末永能登守宗春公の507回忌の祥月命日、また、翌11月4日は遠祖末永安芸守清連公享年57歳とその長男末永孫七郎清元公享年32歳、次男末永孫八郎清久公享年29歳、清元公の長男末永孫二郎清次公が、清連公の兄で主君の葛西11代太守伯耆守持信公に叛逆するも、事既に露見の故にその待ち伏せを受けて討死を遂げてより554回忌の祥月命日に相当いたします。

よってここに謀反人の末裔はささやかながら、記念の更新を致します。



IMG_20201103_133329
森館跡(気仙沼市長磯字森)


小高い丘を利用して立地。東に向かってすぐに太平洋が拡がる絶景の勝地。それゆえに東日本超巨大地震に於いては甚大な津浪に見舞われたことと想像する。既に堤防が築かれているが、他と比べると気仙沼市はまだまだ震災の爪痕が随所に残っている。

館主は末永修理または和泉守なる人物。末永氏の一族に任せたと見られるが、修理、和泉守がどのような血縁関係で繋がるのかはわからない。



IMG_20201103_133616
末永西風館跡(気仙沼市最知字南最知)
東南端からの風景


謀叛に敗れた初代末永能登守宗春の隠棲の地にして終の住処。都合3人の能登守、宗春、清勝、師清の本拠地となり、果たして3万石の大名主となったと系図は誇るが、江戸時代に編纂された系図は所詮、先祖の事績を明らかにする歴史書ではなく、就職活動を有利に運ぶ為の謂わば履歴書、流石に誇張と思うが、一度ならず二度までも太守に叛逆したやんちゃ者の家系がそこまでのお大尽に立身出世(リベンジ)するのだから半端無い事である。



IMG_20201103_133737
末永西風館跡
東端からの風景

末永氏は、わけても有力な一族である最知玄蕃晴村(清村?)なる人物に周辺の城館の造作管理を担当させたようだ。
末永西風館、最知中館、塚館に森館を加えて国道45号線、東浜街道を扼する連城の体を成しているようだし、まず北に猿喰東館、猿喰西館を築いて自領最知の北端を押さえ、最知南館で本格的な城館を築いていて、実は末永西風館は規模から言ってもそんなに大した城廓では無さそうである。

IMG_20201103_133843
末永西風館跡
東端からの風景


カラオケボックスみたいな構えのパチンコ屋は震災前は本屋か何かだったと記憶している。末永西風館は東側を大分削られたことが、故・紫桃正隆氏の著書「史料・仙台領内古城館」所収の地図、現在の地図を見比べるとよく判る。そのパチンコ屋の辺りに本丸があったようだ。
IMG_20201103_133958
末永西風館跡
北東端からの風景

IMG_20201103_134106
末永西風館跡
北東端からの風景

思うに下のアスファルトの境目から上のガードレールのある辺り迄は嘗て土だったのではないだろうか。この館の西面に鍬を入れてはならない、金属がボロボロになるから、という恐らく何かが埋蔵されているのではないかと思わせる伝説が残るそうだが、東面はどうだったのだろうか。館そのものを崩してはならない、という禁忌を作っておけば削られることも無かっただろうかと、不肖の子孫は口惜しく偲ぶんである。


にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]