反太守派が旗印に掲げた葛西信胤。この次男坊は何故伊達稙宗の指嗾を受け入れ、父である15代太守葛西晴胤に対し、弓を引く真似を犯したのでしょうか。
恐らくそれは長男16代太守親信の存在があったものと考えられます。
葛西親信はこの時41歳。病弱で実子にも恵まれません。
そんな人物を長男というだけで家督を継がせようとしたことに信胤は反撥を覚えたのではないでしょうか。
「B類系図・仙台B」には葛西晴胤は男女合わせて12人の子沢山に恵まれた、とあります。
息子だけに限って簡略に挙げれば、長男親信(1513年産まれ)、次男信胤(1520年産まれ)。
3男は親清(1533年産まれ)で、天文17年(1548)春に江刺讃岐守重国の養嗣子となったとありますが、元祖にも本家にもそのような名前も記載もありません。
4男は信茂(1533年産まれ)で、天文19年(1550)11月に大原信光の養嗣子となったとあり、大原氏の系図にも同様のことが記されています。
5男は信清(1534年産まれ)、6男は胤重(生年不明)。
7男は信定(1537年産まれ)で、永禄3年(1560)1月に小友顕定の養嗣子となったとあり、小友氏の系図にも同様のことが記されています。
8男は胤資(生年不明)で、磐井長部氏の養嗣子になったとあり、葛西滅亡時に戦死していますが、詳しい系譜関係は遺されていません。
9男は定胤(生年不明)で、永禄5年(1562)8月に赤荻千葉氏を称しますが、養子に行ったのかなど詳細は不明です。
その他にも信近とか晴近などという名前がぞろぞろ出て来ますが、その辺は面倒臭いので割愛します。
そんな面倒臭い系譜関係を敢えて羅列したのは、晴胤の庶子は全て養子に出されていて、信胤も同様にどこかの家に出されていた可能性があり、それは黒沢氏だったのではないでしょうか。系図では黒沢信久を想わせる葛西信久の実子だとありますが逆で、黒沢氏に預けられていたと。
俺様が黒沢の家督で収まるよりはと、信胤が伊達稙宗、大崎義直の支援を受けて力ずくで葛西太守の座を簒奪しようと狙ったとしても、所詮は傀儡政権、それに対する抵抗も凄まじいだろうし、しかもたがらおんつぁん(性格に問題がある中年男性、石ノ巻弁)と隠居させらぃだずんづ(隠居させられたジジイ、石ノ巻弁)の操り人形だから先が知れてるだろうってね。
出奔した葛西信胤はその後、奇遇にも伊達郡大森館主(福島県福島市)となり、100余町(約100ヘクタール)の領地を宛がわれ、あまつさえ伊達姓を名乗って伊達石見守信胤と改名した云々と記されます。
福島県の大森館は別名を臥牛館といいました。桃生郡の大森館も臥牛館という別名がありましたが、偶然と思えないのはおいらだけでしょうか。
葛西改め伊達信胤はかの地で20年を生き、天寿を全うしますが、まぁ悠々自適の若隠居、VIP待遇だったのでしょう。伊達晴宗が信胤をどのように見ていたのかは不明ですが、葛西氏を弱体化させ、分裂せしめ、我が物としたいのは父稙宗に同じだったでしょうから、粗略にすることは無かったものと思われます。
天文22年(1553)8月21日、長男修理大夫盛氏に16代当主を継がせて隠居の身であった、会津郡会津黒川城主芦名氏15代当主・遠江守盛舜が没します。享年64歳。
15に続きます。
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恐らくそれは長男16代太守親信の存在があったものと考えられます。
葛西親信はこの時41歳。病弱で実子にも恵まれません。
そんな人物を長男というだけで家督を継がせようとしたことに信胤は反撥を覚えたのではないでしょうか。
「B類系図・仙台B」には葛西晴胤は男女合わせて12人の子沢山に恵まれた、とあります。
息子だけに限って簡略に挙げれば、長男親信(1513年産まれ)、次男信胤(1520年産まれ)。
3男は親清(1533年産まれ)で、天文17年(1548)春に江刺讃岐守重国の養嗣子となったとありますが、元祖にも本家にもそのような名前も記載もありません。
4男は信茂(1533年産まれ)で、天文19年(1550)11月に大原信光の養嗣子となったとあり、大原氏の系図にも同様のことが記されています。
5男は信清(1534年産まれ)、6男は胤重(生年不明)。
7男は信定(1537年産まれ)で、永禄3年(1560)1月に小友顕定の養嗣子となったとあり、小友氏の系図にも同様のことが記されています。
8男は胤資(生年不明)で、磐井長部氏の養嗣子になったとあり、葛西滅亡時に戦死していますが、詳しい系譜関係は遺されていません。
9男は定胤(生年不明)で、永禄5年(1562)8月に赤荻千葉氏を称しますが、養子に行ったのかなど詳細は不明です。
その他にも信近とか晴近などという名前がぞろぞろ出て来ますが、その辺は面倒臭いので割愛します。
そんな面倒臭い系譜関係を敢えて羅列したのは、晴胤の庶子は全て養子に出されていて、信胤も同様にどこかの家に出されていた可能性があり、それは黒沢氏だったのではないでしょうか。系図では黒沢信久を想わせる葛西信久の実子だとありますが逆で、黒沢氏に預けられていたと。
俺様が黒沢の家督で収まるよりはと、信胤が伊達稙宗、大崎義直の支援を受けて力ずくで葛西太守の座を簒奪しようと狙ったとしても、所詮は傀儡政権、それに対する抵抗も凄まじいだろうし、しかもたがらおんつぁん(性格に問題がある中年男性、石ノ巻弁)と隠居させらぃだずんづ(隠居させられたジジイ、石ノ巻弁)の操り人形だから先が知れてるだろうってね。
出奔した葛西信胤はその後、奇遇にも伊達郡大森館主(福島県福島市)となり、100余町(約100ヘクタール)の領地を宛がわれ、あまつさえ伊達姓を名乗って伊達石見守信胤と改名した云々と記されます。
福島県の大森館は別名を臥牛館といいました。桃生郡の大森館も臥牛館という別名がありましたが、偶然と思えないのはおいらだけでしょうか。
葛西改め伊達信胤はかの地で20年を生き、天寿を全うしますが、まぁ悠々自適の若隠居、VIP待遇だったのでしょう。伊達晴宗が信胤をどのように見ていたのかは不明ですが、葛西氏を弱体化させ、分裂せしめ、我が物としたいのは父稙宗に同じだったでしょうから、粗略にすることは無かったものと思われます。
天文22年(1553)8月21日、長男修理大夫盛氏に16代当主を継がせて隠居の身であった、会津郡会津黒川城主芦名氏15代当主・遠江守盛舜が没します。享年64歳。
15に続きます。
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