葛西家臣で別けても大勢力を誇る巨族のあるじの身に、意味不明な事件が襲います。天文20年(1551)3月20日、江刺郡三州館主(岩手県奥州市江刺区藤里)本家江刺三河守重胤が突如として磐井郡興田郷(岩手県一関市大東町沖田)に浪人するのです。

この背景には江刺郡岩谷堂館主(岩手県奥州市江刺岩谷堂)元祖江刺三河守信時との対立が原因だった可能性があります。先住の元祖と後発の本家が2系対立、角逐する現象は、薄衣氏、清水氏、奈良坂氏、松川氏等に見られる現象ですが、元祖江刺氏は葛西太守に娘を嫁がせるなど、分裂しても尚盛んに活動してしました。

その当主元祖江刺信時は本家江刺氏が代々名乗っていた三河守の官職名を奪い、実質江刺氏を“統一”しようと画策し、これによって本家江刺重胤が心身共に摩耗し、出奔、隠居したとは考えられないでしょうか。

本家江刺重胤はこの8年後に享年不明で没し、長男治部大輔輝重が本家江刺氏の家督を継いでいますが、三河守の名乗りが復活することはありませんでした。

信時と輝重が別人であることは輝重が先に没した後も信時が存命だったことから見ても明らかです。因みに輝重の輝の字なのですが、偶然そう名乗ったのではなく、13代将軍足利義輝からの偏諱であれば、足利義藤が義輝と改名した天文23年(1554)2月12日以降に名乗った名前となるでしょうか。

春、息子達を殺されたことへの仇討ち挙兵をして鎮圧された新山出亀卦川雲守師兼が、飛び地があった磐井郡濁沼亀ヶ館(岩手県一関市千厩町磐清水)にて再度挙兵をしますが、妻の甥で磐井郡大原山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原飛騨守信光に討伐され、又もや姿を眩ましてしまいます。

蜷川親俊宛て氏家三河守高継書状によれば6月、12代大崎義直の近習らが乱舞の習得(稽古)のため上洛するので宜しく取り計らって欲しいと依頼しています。

7月、安達郡二本松城主(福島県二本松市)二本松尚国(義国)と白川郡(福島県)の白河結城晴綱の仲介により、長らく抗争していた会津郡黒川城主(福島県会津若松市)の芦名修理大夫盛氏と田村郡三春城主(福島県三春町)の田村左衛門佐隆顕の、伊達稙宗の次女と5女を介しての義兄弟が和睦します。

伊達晴宗にとっては義兄にあたる芦名盛氏と義弟である田村隆顕が和睦したと思ったら、今度は伊達父子の諍いが再燃します。
9月、恐らく伊達父子の喧嘩を仲裁した13代将軍義藤の意を受けてのことでしょうが、管領(?)細川晴元、関白近衛稙家、聖護院30代門跡(住職)道増らは医師松井養雲斎を使者に東北に下向せしめています。

京都府京都市左京区聖護院中町の旧天台宗寺門派、現本山修験宗総本山聖護院門跡道増は近衛尚通の4男で、稙家はその長兄。また、妹2人が12代将軍足利義晴と北条氏綱(後妻、子無し)にそれぞれ嫁いでおり、義藤は甥に当たります。

当時、足利義藤らは近江国滋賀郡堅田郷(滋賀県大津市)にあって、細川高国以来の天下人、事実上の国家運営指導者となっていた三好長慶範長の暗殺を狙うも失敗、続いて京都奪還の兵を興しますが、日本史が誇る謀臣松永久秀によって撃退されていました。

松井養雲斎の調停は失敗したらしく、聖護院道増は11月、自ら東北を訪れ、磐城郡大館城主(福島県いわき市)の岩城重隆、晴宗の義父の屋敷に逗留し、12月には行方郡小高城主(福島県南相馬市小高区)の相馬盛胤二世、稙宗の外孫の所へ移動しています。

10に続きます。

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