伯父が云うカブ坂を道なりに登ると、大街道が鰐山を登って来た所で交差点となります。この交差点を東へ、石巻小学校、八ツ沢方面に行けば、羽黒山の桜坂、見事な桜並木の途中に石巻女子高が立地していました。

この交差点を南に直進すると母方実家末永家に入る路地や法務局、営林署を脇に見ながら石巻高校へ、更に日和山方面に折れれば市立女子高へと続きます。

石巻女子高は後に大街道に移転し、共学化して石巻好文館高校と名を改め、跡地は石巻図書館になります。

この桜坂の名勝だった桜並木は、15代16代市長平塚真治郎政権時代(1984~1992)に道路を拡張するという名目で、周囲の反対を圧し切り、伐採してしまいました。しかも並木道だけを広げた中途半端な工事だったため、結局不便さは解消されませんでした。

この時期は新設の文化センターや大学の立地条件の悪さに加え、人口が停滞した上に、この頃宅地行政に力を入れて県下第3の都市に昇り詰めた泉市に人口で追い越されるなど、ハコモノ行政さえろくすっぽ満足に出来ない失政期でした。石巻市は後に県下第2の都市に返り咲きますが、それは都市として石巻が発展したからではなく、泉市が仙台市に合併して泉区となったからという偶然の賜物だったのですから情けないものです。

さて、昭和33年(1958)5月から昭和47年(1972)11月迄の4期14年という石巻市史上最も長い政権を築いた千葉堅弥市政は、それまで乱闘や警察沙汰になる程の混乱と政争に明け暮れ、経済に成功しても政治に失敗したと言われる石巻市史でも別けても安定し、発展した時代だったようです。



殊に母方祖父末永貞蔵がいた石巻造船業界は大型鉄工船の時代に入っていました。

この頃の石巻の景気の良さを現すエピソードとして、大量の魚を荷台に積んだトラックが曲がる急カーブに、婆ちゃんと母、叔父御らが頃合いを見計らって立つのです。そうすると魚満載のトラックが急カーブを曲がる際に遠心力でぼとぼと魚を落っことして走り去って行きます。

一家はそれを拾って今夜の晩御飯にするというのです。

尤も、こうした類いのエピソードは裕福だった時代の石巻の姿をノスタルジックに修飾したものであることは論を待ちません。そこら辺に落ち零れた食材を拾って飯の種にする話は仙台藩の台所だった時代から言われ続けた話で、それゆえにお零れを貰って働こうとしない遊産階級いや、乞食が多かったという尾鰭も付いて回るわけですから。

末永家はこの頃、増築をします。また、業者の口車に乗って母の部屋の壁紙を黄色から茶色にしてしまいます。

“何!?このマンクソ(馬の糞)色の壁は!?”と母はぶんむくれましたが最早手遅れ。その後、癇癪を起こす度にハサミで壁を傷付け、そこから黄色い色が現れます。

ある拝み屋が、この家の相は主が早死にする相だと鑑定しましたが、迷信を信じない祖父は一切聞く耳を持ちませんでした。

祖父の態度は何等間違ってはいませんが、奇しくもその拝み屋の言う通りになってしまったことは悔恨の至りであったかと、不肖の外孫は邪推するのです。

124に続きます。

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