昭和34年(1959)1月、石巻高校が再び火災に遭います。近所に住む教師や生徒らが火の手が上がったことを発見するや、すぐさま駆け付けて鎮火に努めます。その際、図書館(学生用校内図書館としては全国初といわれる)内に安置されていた高橋英吉(1911~42)作の観音像の一部が欠けてしまいます。2度の火災の原因は結局不明。

母方祖父末永貞蔵の次兄で産まれてすぐ早世した恵治郎と同い年で、同じ石巻市湊に誕生した高橋英吉の彫刻を叔父御や母方従弟と共に間近に見る機会がありましたが、本当に生き生きしていて、今にも動き出すんじゃないかと思うほどでした。その持ち物は鉛筆ほどの太さの木の棒に小さな刃を付けただけの簡素な彫刻刀で、それで色んなものを彫ったんだそうです。

4月、牡鹿郡稲井村が町制施行します。

5月、牡鹿郡渡波町が石巻市に合併されます。このことで牡鹿郡の浜方が北上川東岸から長浜、万石浦を経て田代島まで石巻で一枚に続きます。この年、渡波町役場の出張所長に宇田川町の末永英吉なる人物が就任しています。就任わずかながら合併によって退任したものでしょうか。

7月25日、渡波塩田の廃止が決まります。



昭和35年(1960)4月、石巻中学校を卒業した伯父が石巻高校に入学します。また、石巻小学校を卒業した母が石巻中学校に入学します。

中学校時代の母はソフトボール部に所属していましたが、顧問の女性教師の指導がきつく、途中退部しています。

この女性教師は旧河南町出身で、母とその同級生達をして“電気ババア”と渾名され、婆ちゃんも、“随分どきがねぇおなごの先生でがすごど(随分と気の強い女性教師ですこと)”と呆れる程でした。石巻高校で倫理を教え、ウェイトリフティング部の顧問をし、“教祖”と渾名された教師と職場結婚していましたが、病気で早くに没しています。ちなみに母は“教祖”先生については、“何だかオンナ癖の悪い男”と酷評しています。

祖父貞蔵も野球好きだったこともあって父娘は部活の話で盛り上がることもありましたが、なかなかボールをバットに当てられない娘に祖父は、“何だっけや、馬のふぐりよりでっけな玉当でらぃねってがゃ?(何だ、馬のふぐりより大きなボールなのに当てられないのかぃ?)”とからかいます。

そんな祖父の発言に母はさほども動揺することなく、“え?馬のふぐりってそんなでっけぇのすか?(え?馬のふぐりってそんなに大きいの?)”と聞き返すのですが、そんなやり取りを聞いた伯父に祖父ごと叱られるんだとか。

当時の石巻中学校は学区内がそれなりに裕福な家庭が多く、基本的には坊っちゃん嬢ちゃん学校であり、くしゃみを我慢したら放屁した変わり者がクラス内で笑い者になったり、“努”の字の覚え方を、“女のまたに力”と国語教師が教えて、テストの際男子は皆正解したとか、そんな爆笑エピソードの中で母は日々を過ごしたそうです。

この国語教師はその後石巻高校に転任し、おいらの恩師の一人となります。前述の前谷地分校云々の人物で、石巻高校に留まり続け、定年まで務めています。

また、歴史の授業の際にはソビエト軍の日本人に対する鬼畜の如き所業を教えられ、落涙し、それから大のソビエト嫌い、ロシア侮蔑となっています。

そういう学校環境でしたから、不良はさほどもいなかったようで、近隣の門脇中学校や山下中学校は収入の低い家庭や職人の家庭が多かったこともあり、ヤンキー率は高かったんだとか。

一応お嬢様育ちだった母はそんな不良化する同級生が理解出来なかったらしく、何をそんなにグレるのかしらねー、と超絶特権階級目線で疑念を呈しています。

さて、末永貞蔵の経営者としての素顔について、伝わるものは僅かです。婆ちゃんや母の兄弟にその理念、哲学を伝えたり、学んだりする場面が余りにも少な過ぎたし、貞蔵自身にそうした時間が与えられなかった故です。

121に続きます。

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