昭和28年(1953)7月27日、朝鮮戦争が38度線をもって休戦となります。

昭和29年(1954)1月30日、末永正隆が渡波町教育委員に就任します。



4月、母が石巻小学校に入学します。

小学生時代の母は明るく闊達で男女分け隔て無く顔が広く、所謂お転婆娘だったようです。

ある日、オデキが出来た日などは男子に馬鹿にされて喧嘩となり、担任教師の配慮で学校を休んだり、ランドセルの鍵を閉めなかった為に、靴を取ろうとして屈んだ刹那、中の道具が滝のように落ちて、以後トラウマとなって気を付けるようになった等のエピソードがあります。

クラスで雪合戦をした時のこと。悪質な同級生男子が雪の中に石を詰めて投げるという反則をします。運悪くそれが母の片眼に当たり、視力が落ちてしまいます。

何だか柳生十兵衛三厳のエピソードみたいですが、それ以後、黒板の字を見る際、もう片方で見る癖がついてしまい、結果、酷使されたもう片方も近眼となり、結果、眼鏡をかけることになります。

一方、貞潔な婆ちゃんはお転婆よりも箱入り娘にしたかったようで、そのことで母娘がぶつかり合う場面もあったようです。

当時は蟯虫や回虫といった寄生虫が人体に巣食っていることは日常茶飯事で、母も回虫を体から引き摺りだしては木の枝に掛け晒して、百舌鳥の如くに見世物にしていましたが、婆ちゃんはそういうのが大の苦手で、よく母を叱りつけていたようです。

エディプスコンプレックスではないのでしょうが、母と娘はぶつかり合うことで女を競い、女を磨いていくのでしょうか。結局母は妹に対して親子というよりは女対女で鎬を削っていましたから。

平山時永・みつ夫妻の養女(時永次姉マサヨ次女)と母は、昭和23年(1948)4月13日から昭和24年(1949)12月25日にかけて、石巻市吉野町1丁目の末永貞蔵一家と同居していたと見られる時期からの付き合いで、養女がよちよち歩きの母は本当に可愛いかったと誉めれば、母もまたこの養女に関しては絶世の美女と絶賛せしめる関係にありました。

婆ちゃんとも人生を相談する間柄であり、養女からの相談を受けながら解決してやれず、後悔したこともあったようです。

そんな養女23歳が5月4日、結婚します。昭和30年(1955)に長男、昭和36年(1961)に長女が誕生しますが、養父母時永・みつが金銭的打算で決めたいわゆる政略結婚であり、結局幸福になることは無いまま、昭和49年(1974)7月26日、離婚しています。



昭和30年(1955)1月、牡鹿郡蛇田村が石巻市に合併されます。

3月、牡鹿郡鮎川町と大原村が合併し、牡鹿町が成立します。

4月、牡鹿郡荻浜村が石巻市に飛び地合併されます。

5月、7代石巻市長に山内習が就任します。



この頃、太平洋造船鉄工の主任から課長に昇格していた母方祖父末永貞蔵が、鈴木鉄工所社長鈴木良雄の引き抜きを受け、営業課長の役職に就きます。

太平洋造船鉄工はこの後、合併による社名変更で日魯造船となり、日の出の勢いで業績を挙げた、と婆ちゃんは語ります。

鈴木鉄工所は社長鈴木良雄の元、経営部門と製造部門に分かれ、製造部門は福島県出身で東北大工学部卒の只野氏が部長を務め、経営部門は社長の息子で後継者であった鈴木良一が部長を務めていました。マネジメント畑で市内の造船業界では知られた存在となっていた祖父は、やがて次長に昇進し、次期社長の補佐役を務めます。

118に続きます。

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