天文23年(1554)は「留守氏分限帳」が成立します。それによると、執事佐藤氏は259貫と家臣第一位、宮城郡八幡邑領主(多賀城市八幡)八幡氏は15.9貫と記されます。
その宮城郡岩切高森城主(仙台市宮城野区岩切)留守氏16代当主安房守景宗が没します。享年63歳。長男安房守顕宗が17代当主を継ぎます。
次男太郎左衛門景高は留守氏執事佐藤氏に養子入りし、3男高森八郎宗安は大条伊達氏の養嗣子となって宗家と名乗り、子孫は仙台藩で奉行(家老)を務め、その分家の子孫が芸人さんをしています。
東永井及川氏の系図によれば、磐井郡流荘永井青葉山館主(岩手県一関市花泉町永井)永井及川美濃守重氏が没します。享年77歳。長男因幡守重安が跡を継ぎます。
千厩金氏の系図によれば、磐井郡千厩茶臼館主(岩手県一関市千厩町千厩)金野主馬重鹿が没します。享年60歳。長男右馬允重安は早世したか、跡を継がず、次男豊後守持鹿が跡を継ぎます。
熊谷氏の系図によれば、元良郡赤岩館主(気仙沼市)赤岩熊谷主計直脩が没します。享年64歳。長男能登守直秋が跡を継ぎます。
小梨西城氏の系図によれば、磐井郡小梨館主(岩手県一関市千厩町小梨)西城兵庫助行綱こと信綱が没します。享年67歳。年下の叔父主馬助吉重の娘とかなり年の差が開いた従兄妹結婚しますが実子無く、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世の次男右京亮信平の3男兵庫助秀綱が養嗣子となって跡を継ぎます。
本家小山奈良坂氏の系図によれば天文24年(1555)1月7日、磐井郡流荘小山和泉館主(岩手県一関市花泉町花泉)本家小山奈良坂播磨守正信の大甥で養嗣子の兵庫助信起に長男信持が誕生します。母は磐井郡流荘金沢北館主(岩手県一関市花泉町金沢)金沢北熊谷駿河守晴実の娘。
3月19日、伊達次郎晴宗は左京大夫に任官、次男は将軍の一字に伊達氏の通字をつける持宗以来の伝統により、輝宗と命名されます。
曽祖父成宗の奥州探題、父稙宗の陸奥国守護職といった奮発した官職ではなく、比較的無難なものに取り敢えずは任官したようです。15代太守葛西晴胤は「A類」では左京大夫、「B類」では右京大夫、大崎義直も左京大夫ですが、一応同じ官職ということで、権威の部分においては鼎雄肩を並べたことになります。
脇道噺ながら足利義輝は、細川藤孝、最上義光、島津義久、朝倉義景、大内義長、尼子義久、二階堂輝行、稗貫輝忠、上杉輝虎謙信、毛利輝元といった大名はもとより、尼子氏の家臣でしかない太田垣輝延など、その数60人以上に対し、偏諱を諸大名に与えて、というより押し付けては謝礼をせしめていて、これについて「信長の野望」の攻略本は、“悪徳商法まがい”と皮肉混じりに斬り捨てていましたが、偏諱を与えて代金を受け取ることによって室町幕府の権威を再構築し、財源を確保する手法は、既に父である12代将軍足利義晴が先駆していて、14代太守葛西晴重、伊達氏からの養子葛西晴清、15代太守晴胤、そして13代副太守(惣梁)葛西宗清の次男稗貫晴家(輝忠の父)等約80人がその例に連なっています。
「輝」字の偏諱に際し、伊達氏が支払い、もとい献上した代金は、「世次考」によれば黄金30両。1両が16.8グラム、現在の金の価値が1グラム6700円ほどなので、約340万円。「義」の字は更にお高くついていましたから、13代将軍義輝は偏諱だけで少なく見積もっても2億円以上の収益を得ていた計算になります。
「義」字の方が値段が高いのは、偏諱は通例として主君の下の字を自身の上の字にするのが礼儀作法だからなのですが、世の中にはそういう慣習を破って殿様の上の字をちゃっかり戴いちゃう、良く言えば破天荒、悪く言えば大逆無道な男がいました。
18に続きます。
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その宮城郡岩切高森城主(仙台市宮城野区岩切)留守氏16代当主安房守景宗が没します。享年63歳。長男安房守顕宗が17代当主を継ぎます。
次男太郎左衛門景高は留守氏執事佐藤氏に養子入りし、3男高森八郎宗安は大条伊達氏の養嗣子となって宗家と名乗り、子孫は仙台藩で奉行(家老)を務め、その分家の子孫が芸人さんをしています。
東永井及川氏の系図によれば、磐井郡流荘永井青葉山館主(岩手県一関市花泉町永井)永井及川美濃守重氏が没します。享年77歳。長男因幡守重安が跡を継ぎます。
千厩金氏の系図によれば、磐井郡千厩茶臼館主(岩手県一関市千厩町千厩)金野主馬重鹿が没します。享年60歳。長男右馬允重安は早世したか、跡を継がず、次男豊後守持鹿が跡を継ぎます。
熊谷氏の系図によれば、元良郡赤岩館主(気仙沼市)赤岩熊谷主計直脩が没します。享年64歳。長男能登守直秋が跡を継ぎます。
小梨西城氏の系図によれば、磐井郡小梨館主(岩手県一関市千厩町小梨)西城兵庫助行綱こと信綱が没します。享年67歳。年下の叔父主馬助吉重の娘とかなり年の差が開いた従兄妹結婚しますが実子無く、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世の次男右京亮信平の3男兵庫助秀綱が養嗣子となって跡を継ぎます。
本家小山奈良坂氏の系図によれば天文24年(1555)1月7日、磐井郡流荘小山和泉館主(岩手県一関市花泉町花泉)本家小山奈良坂播磨守正信の大甥で養嗣子の兵庫助信起に長男信持が誕生します。母は磐井郡流荘金沢北館主(岩手県一関市花泉町金沢)金沢北熊谷駿河守晴実の娘。
3月19日、伊達次郎晴宗は左京大夫に任官、次男は将軍の一字に伊達氏の通字をつける持宗以来の伝統により、輝宗と命名されます。
曽祖父成宗の奥州探題、父稙宗の陸奥国守護職といった奮発した官職ではなく、比較的無難なものに取り敢えずは任官したようです。15代太守葛西晴胤は「A類」では左京大夫、「B類」では右京大夫、大崎義直も左京大夫ですが、一応同じ官職ということで、権威の部分においては鼎雄肩を並べたことになります。
脇道噺ながら足利義輝は、細川藤孝、最上義光、島津義久、朝倉義景、大内義長、尼子義久、二階堂輝行、稗貫輝忠、上杉輝虎謙信、毛利輝元といった大名はもとより、尼子氏の家臣でしかない太田垣輝延など、その数60人以上に対し、偏諱を諸大名に与えて、というより押し付けては謝礼をせしめていて、これについて「信長の野望」の攻略本は、“悪徳商法まがい”と皮肉混じりに斬り捨てていましたが、偏諱を与えて代金を受け取ることによって室町幕府の権威を再構築し、財源を確保する手法は、既に父である12代将軍足利義晴が先駆していて、14代太守葛西晴重、伊達氏からの養子葛西晴清、15代太守晴胤、そして13代副太守(惣梁)葛西宗清の次男稗貫晴家(輝忠の父)等約80人がその例に連なっています。
「輝」字の偏諱に際し、伊達氏が支払い、もとい献上した代金は、「世次考」によれば黄金30両。1両が16.8グラム、現在の金の価値が1グラム6700円ほどなので、約340万円。「義」の字は更にお高くついていましたから、13代将軍義輝は偏諱だけで少なく見積もっても2億円以上の収益を得ていた計算になります。
「義」字の方が値段が高いのは、偏諱は通例として主君の下の字を自身の上の字にするのが礼儀作法だからなのですが、世の中にはそういう慣習を破って殿様の上の字をちゃっかり戴いちゃう、良く言えば破天荒、悪く言えば大逆無道な男がいました。
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