2020年11月

天文23年(1554)は「留守氏分限帳」が成立します。それによると、執事佐藤氏は259貫と家臣第一位、宮城郡八幡邑領主(多賀城市八幡)八幡氏は15.9貫と記されます。

その宮城郡岩切高森城主(仙台市宮城野区岩切)留守氏16代当主安房守景宗が没します。享年63歳。長男安房守顕宗が17代当主を継ぎます。

次男太郎左衛門景高は留守氏執事佐藤氏に養子入りし、3男高森八郎宗安は大条伊達氏の養嗣子となって宗家と名乗り、子孫は仙台藩で奉行(家老)を務め、その分家の子孫が芸人さんをしています。

東永井及川氏の系図によれば、磐井郡流荘永井青葉山館主(岩手県一関市花泉町永井)永井及川美濃守重氏が没します。享年77歳。長男因幡守重安が跡を継ぎます。

千厩金氏の系図によれば、磐井郡千厩茶臼館主(岩手県一関市千厩町千厩)金野主馬重鹿が没します。享年60歳。長男右馬允重安は早世したか、跡を継がず、次男豊後守持鹿が跡を継ぎます。

熊谷氏の系図によれば、元良郡赤岩館主(気仙沼市)赤岩熊谷主計直脩が没します。享年64歳。長男能登守直秋が跡を継ぎます。

小梨西城氏の系図によれば、磐井郡小梨館主(岩手県一関市千厩町小梨)西城兵庫助行綱こと信綱が没します。享年67歳。年下の叔父主馬助吉重の娘とかなり年の差が開いた従兄妹結婚しますが実子無く、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世の次男右京亮信平の3男兵庫助秀綱が養嗣子となって跡を継ぎます。

本家小山奈良坂氏の系図によれば天文24年(1555)1月7日、磐井郡流荘小山和泉館主(岩手県一関市花泉町花泉)本家小山奈良坂播磨守正信の大甥で養嗣子の兵庫助信起に長男信持が誕生します。母は磐井郡流荘金沢北館主(岩手県一関市花泉町金沢)金沢北熊谷駿河守晴実の娘。

3月19日、伊達次郎晴宗は左京大夫に任官、次男は将軍の一字に伊達氏の通字をつける持宗以来の伝統により、輝宗と命名されます。

曽祖父成宗の奥州探題、父稙宗の陸奥国守護職といった奮発した官職ではなく、比較的無難なものに取り敢えずは任官したようです。15代太守葛西晴胤は「A類」では左京大夫、「B類」では右京大夫、大崎義直も左京大夫ですが、一応同じ官職ということで、権威の部分においては鼎雄肩を並べたことになります。

脇道噺ながら足利義輝は、細川藤孝、最上義光、島津義久、朝倉義景、大内義長、尼子義久、二階堂輝行、稗貫輝忠、上杉輝虎謙信、毛利輝元といった大名はもとより、尼子氏の家臣でしかない太田垣輝延など、その数60人以上に対し、偏諱を諸大名に与えて、というより押し付けては謝礼をせしめていて、これについて「信長の野望」の攻略本は、“悪徳商法まがい”と皮肉混じりに斬り捨てていましたが、偏諱を与えて代金を受け取ることによって室町幕府の権威を再構築し、財源を確保する手法は、既に父である12代将軍足利義晴が先駆していて、14代太守葛西晴重、伊達氏からの養子葛西晴清、15代太守晴胤、そして13代副太守(惣梁)葛西宗清の次男稗貫晴家(輝忠の父)等約80人がその例に連なっています。

「輝」字の偏諱に際し、伊達氏が支払い、もとい献上した代金は、「世次考」によれば黄金30両。1両が16.8グラム、現在の金の価値が1グラム6700円ほどなので、約340万円。「義」の字は更にお高くついていましたから、13代将軍義輝は偏諱だけで少なく見積もっても2億円以上の収益を得ていた計算になります。

「義」字の方が値段が高いのは、偏諱は通例として主君の下の字を自身の上の字にするのが礼儀作法だからなのですが、世の中にはそういう慣習を破って殿様の上の字をちゃっかり戴いちゃう、良く言えば破天荒、悪く言えば大逆無道な男がいました。

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浅野氏の系図によれば天文22年(1553)、元良郡山田要害館主(気仙沼市本吉町山田)浅野小三郎定時の長男長三郎時光が、15代太守葛西晴胤に仕官し、牡鹿郡根岸端郷渡波(石巻市)に居住します。父の隠居に伴い太守に出仕し、新たに所領を与えられたものと解釈出来ます。

男沢及川氏の系図によれば、15代太守晴胤に近侍し、老臣であったと記される磐井郡流荘男沢鷹取館主(岩手県一関市花泉町老松)男沢及川大炊助重兼が没します。享年68歳。長男豊後守重俊が跡を継ぎます。

八幡館熊谷氏の系図によれば、元良郡岩月八幡館主(気仙沼市岩月字千岩田)八幡館熊谷玄蕃直昌が没します。享年54歳。長男式部直則が跡を継ぎます。

南境三浦氏の系図によれば、牡鹿郡南境(石巻市)領主にして登米郡寺池城下(登米市登米町寺池)在住の三浦内蔵助義村が没します。享年不明。登米郡内の八幡神社の建設に貢献したと記します。長男掃部介義忠が跡を継ぎます。

横沢氏の系図によれば、磐井郡浜横沢館主(岩手県一関市室根町)横沢隼人胤広、天文22年存世と記されます。天文22年に生きていた、という意味なのか、この年に没したという意味なのかは判然としません。享年不明。妻は薄衣甲斐守の娘。長男民部介政胤が跡を継ぎます。

薄衣甲斐守は磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町薄衣)元祖薄衣甲斐守常盛と考えられます。

伊達氏の系図によれば、伊達晴宗に5男政重が誕生します。母は岩城久保姫。

天文23年(1554)2月12日、近江国高島郡朽木郷(滋賀県高島市)に在住していた13代将軍足利義藤が義輝と改名します。

伊達家の次郎さんでしかない伊達晴宗は、自身の任官と11歳になる次男(嫡男)の偏諱を考えるようになります。春、家臣で出羽国置賜郡黒藤館主(山形県白鷹町畔藤・くろふじ)松岡紀伊守が使者となり、富松与一を通じて室町幕府管領扱いの細川京兆家当主右京大夫氏綱から足利義輝に奏上され、認可を受けます。

富松与一は室町幕府政所執事伊勢貞孝の代理人にして修験道本山派の信徒・坂東屋富松氏久の一族と見られますが、与一自身は足利義輝の代理人であって伊勢貞孝の代理人では無さそうです。

米谷亀卦川氏の系図によれば6月25日、登米郡米谷館主(登米市東和町米谷)米谷亀卦川豊前守常顕が没します。享年68歳。15代太守晴胤の老臣として、武略に通じ、騎射に達すると記されます。長男豊前守常時が跡を継ぎます。

また、次男右馬助常輔は末永清連の故地である登米郡吉田邑に移住したとあります。

7月22日、大崎義直家臣で執事、監司という氏家三河守直継が朽木郷の13代将軍義輝に謁見、太刀、馬を献上します。

伊達晴宗任官と嫡男偏諱問題は、宿老中野常陸介宗時と牧野弾正忠久仲の父子、松岡紀伊守と、富松与一、しんえもんさんの5代子孫で政所執事代の蜷川新右衛門尉親長との家臣級会談で具体的な段取りが組まれ、それについて伊勢貞孝は8月20日と10月12日、伊達晴宗に書状を送っています。

書状からは何となく伊勢貞孝が他人事のように振る舞っているのが透けて見えるのですが、それもその筈で、足利義輝と伊勢貞孝の関係はこの当時険悪の一語に尽き、伊勢貞孝が政敵三好長慶範長に与した為、義輝は貞孝の所領没収を宣言するも、三好長慶のプロテクトにより実行されずにいるという緊張した情勢にあったのです。

11月、最後の古河公方(5代)足利義氏が下総国葛飾郡葛西館(東京都葛飾区青戸・館主は北条氏康の家臣遠山綱景)にて、母方伯父北条氏康の加冠、13代将軍義輝の「義」と関東公方足利家の通字「氏」を以て元服します。5代公方義氏は後に北条氏康5女浄光院を正室に迎えています。

狼河原亀卦川氏の系図によれば12月、登米郡狼河原館主(登米市東和町米川)狼河原亀卦川周防守信資が没します。享年54歳。長男平四郎信忠は早世し、次弟平左衛門信隆も戦死したため、米谷亀卦川常時の3男和泉守常忠(常隆)を信忠の養子、信資にとっては養孫として跡を継ぎます。

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天文22年(1553)9月3日、登米郡佐沼鹿ヶ城主(登米市迫町佐沼)佐沼右衛門佐直信が没します。享年55歳。実子は磐井郡黄海古堂館主(岩手県一関市藤沢町黄海)黄海出羽守高衡の妻となった長女、黒川郡鶴楯城主(大和町鶴巣下草)黒川安芸守晴氏の妻となった次女が知られるのみです。

さて、大原氏の系図によれば、葛西晴胤の3男で磐井郡大原山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原薩摩守信光の養嗣子となった飛騨守信茂に長男茂光が誕生しています。

母は黄海高衡の娘、すなわち佐沼直信の孫娘にあたるのですが、50代で曾孫の誕生は流石に有り得ません。
黄海氏の系図には高衡ではなく、その父高量の娘と記していますので、こちらが正しいと思われます。

15代太守葛西晴胤の3弟直信の死は時期的に見て甥葛西信胤の乱に関連したものでしょうか。

波瀬市千葉氏の系図によれば、磐井郡長谷市館主(岩手県一関市川崎町門崎字波瀬市)波瀬市千葉肥後守良時が没します。享年64歳。長男帯刀良清が跡を継ぎます。

次男刑部少輔胤国は磐井郡松川郷(岩手県一関市東山町)の一部を領し、元祖松川氏の一族と見られる松川氏の養子となって蔵人胤国と名乗っています。

胤国の従姉妹はこの元祖松川氏の一族と見られる松川民部少輔の後妻となって3男内膳清胤を産み、胤国は清胤を養嗣子にしています。

さて、この波瀬市千葉良時の遺領を巡って、磐井郡門崎館主(岩手県一関市川崎町)門崎安芸守と、松川清胤の異母次兄藤四郎が合戦となります。

門崎安芸守とは系図から、盛常であると見られます。妻は磐井郡仏坂愛宕館主(岩手県一関市千厩町磐清水)仏坂氏で、恐らく波瀬市千葉良時の妹が仏坂千葉内膳に嫁いで産まれた娘でしょう。
その長男安芸守胤盛は松川氏の娘と結婚しています。胤国か民部少輔の娘でしょうか。

9月13日、松川清胤が門崎盛常の居館を陥落させ、門崎氏は松川藤四郎兄弟に全面降伏。盛常は南部氏領を経て山本郡(秋田県)へと落去したと伝えますが、門崎氏の系図には一筆もありません。というのも、門崎胤盛の長男盛経は藤四郎を名乗っていて、もしや盛経は門崎館を奪取して門崎氏を名乗った松川藤四郎かその息子なのかもしれません。祖父とモリツネで読みが一致するのも何だか作為めいています。

一方、3弟清胤は血統が絶えた母方実家波瀬市千葉氏を継承し、下総守を名乗り、磐井郡門崎村の他、磐井郡相川村(岩手県一関市舞川)1万8千苅(約18ヘクタール)、江刺郡餅田村(岩手県奥州市江刺区岩谷堂)6千苅(約6ヘクタール)、桃生郡相野谷村(石巻市)6千苅、合計3万苅(約30ヘクタール)を相続します。

この年は元良郡朝日館主(本吉郡南三陸町志津川)元良大膳亮重隆が反乱したと伝わりますが、原因や過程など、具体的な詳細は不明です。

松山佐々木氏の系図によれば、磐井郡流荘清水二桜館主(岩手県一関市花泉町花泉)元祖清水兵部信重の家臣佐々木掃部介綱盛が、どういう理由か知りませんが、故有ってと称して主従の縁を切り、大崎義直に仕官するというおよそ穏やかではない挙に出ます。

この佐々木綱盛という人物は赤井備中守とは親戚なのでしょうか?であれば伊達稙宗、大崎義直は赤井を橋頭堡に、一族の佐々木氏や太守の次男など、かなりの切り崩し工作を葛西家中で秘かに展開していたことになります。

佐々木綱盛は志田郡松山郷(大崎市松山)に移住し、松山佐々木氏の初代となります。

16に続きます。

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本日令和2年(2020)11月3日は、遠祖末永能登守宗春公の507回忌の祥月命日、また、翌11月4日は遠祖末永安芸守清連公享年57歳とその長男末永孫七郎清元公享年32歳、次男末永孫八郎清久公享年29歳、清元公の長男末永孫二郎清次公が、清連公の兄で主君の葛西11代太守伯耆守持信公に叛逆するも、事既に露見の故にその待ち伏せを受けて討死を遂げてより554回忌の祥月命日に相当いたします。

よってここに謀反人の末裔はささやかながら、記念の更新を致します。



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森館跡(気仙沼市長磯字森)


小高い丘を利用して立地。東に向かってすぐに太平洋が拡がる絶景の勝地。それゆえに東日本超巨大地震に於いては甚大な津浪に見舞われたことと想像する。既に堤防が築かれているが、他と比べると気仙沼市はまだまだ震災の爪痕が随所に残っている。

館主は末永修理または和泉守なる人物。末永氏の一族に任せたと見られるが、修理、和泉守がどのような血縁関係で繋がるのかはわからない。



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末永西風館跡(気仙沼市最知字南最知)
東南端からの風景


謀叛に敗れた初代末永能登守宗春の隠棲の地にして終の住処。都合3人の能登守、宗春、清勝、師清の本拠地となり、果たして3万石の大名主となったと系図は誇るが、江戸時代に編纂された系図は所詮、先祖の事績を明らかにする歴史書ではなく、就職活動を有利に運ぶ為の謂わば履歴書、流石に誇張と思うが、一度ならず二度までも太守に叛逆したやんちゃ者の家系がそこまでのお大尽に立身出世(リベンジ)するのだから半端無い事である。



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末永西風館跡
東端からの風景

末永氏は、わけても有力な一族である最知玄蕃晴村(清村?)なる人物に周辺の城館の造作管理を担当させたようだ。
末永西風館、最知中館、塚館に森館を加えて国道45号線、東浜街道を扼する連城の体を成しているようだし、まず北に猿喰東館、猿喰西館を築いて自領最知の北端を押さえ、最知南館で本格的な城館を築いていて、実は末永西風館は規模から言ってもそんなに大した城廓では無さそうである。

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末永西風館跡
東端からの風景


カラオケボックスみたいな構えのパチンコ屋は震災前は本屋か何かだったと記憶している。末永西風館は東側を大分削られたことが、故・紫桃正隆氏の著書「史料・仙台領内古城館」所収の地図、現在の地図を見比べるとよく判る。そのパチンコ屋の辺りに本丸があったようだ。
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末永西風館跡
北東端からの風景

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末永西風館跡
北東端からの風景

思うに下のアスファルトの境目から上のガードレールのある辺り迄は嘗て土だったのではないだろうか。この館の西面に鍬を入れてはならない、金属がボロボロになるから、という恐らく何かが埋蔵されているのではないかと思わせる伝説が残るそうだが、東面はどうだったのだろうか。館そのものを崩してはならない、という禁忌を作っておけば削られることも無かっただろうかと、不肖の子孫は口惜しく偲ぶんである。


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