2020年05月

伊達氏明応の内乱の返す刀でしょうか。明応3年(1494)8月、伊達尚宗と合戦していた出羽国置賜郡鮎貝郷(山形県白鷹町)の鮎貝直致が敗北し、伊達氏の軍門に降ります。以後、鮎貝氏は伊達家臣として江戸幕末まで仕えることとなります。

伊達氏明応の内乱が芦名氏内部に微妙な不協和音を招いたのか、11月19日夜半、芦名四天の宿老筆頭・松本備前守輔豊(対馬守輔政、藤右衛門輔忠の次兄)と、松本輔忠らの反乱で芦名刑部丞盛高を保護した伊藤民部ら33人が、下野国(栃木県)の宇都宮下野守成綱を頼り出奔しようとしますがその途次、会津郡糸沢郷(福島県南会津町)で、南山長沼鴫山城主(福島県南会津町田島)長沼出羽守政義によって討ち取られてしまいます。

12月27日、足利義高が将軍宣下を受け、11代将軍に就任します。しかし、その治世は通じて実権の無いものでした。

両親も既に亡く、残った親戚は頼り無いか寧ろ敵、周囲にお飾りとして祭り上げられた権力無き孤独な権力者が実権を得るためにした手段、それは姑息で卑怯、残忍とも言える陰謀でした。それは既に家族の敵討ちと称して早雲庵伊勢宗瑞に密命を下した時点でスタートしていました。

新山亀卦川氏の系図によればこの年は、磐井郡新山鳥崎館主(岩手県一関市大東町大原)新山亀卦川持俊が没します。享年118歳ってマジか?

この記述が本当ならば新山持俊は葛西史上最高齢で家督を継ぎ、史上最高齢で没したことになります。因みに100歳超えはもう1人いて、磐井郡流荘石畑館主(岩手県一関市花泉町日形)石畑小野寺四郎兵衛通教の113歳。ですがこちらの享年は83歳くらいではないかという考証を第十三章77で既述しました。

持俊の大甥で前当主賢胤、100歳超える大叔父に家督を譲るというのも狂気の沙汰ですが、その婿養子重賢がようやっと跡を継ぎます。

小梨西城氏の系図によれば、磐井郡小梨館主(岩手県一関市千厩町小梨)小梨西城遠江守広綱に次男吉重が誕生します。母は後妻で西城氏家臣の浅山玄蕃允知清の娘。葛西重信の近臣となり、登米郡吉田郷(登米市米山町)に70余町(約70ヘクタール)の領地を賜ったと記されます。
この葛西重信は西城吉重が5歳の時に没した西舘重信ではなくて、薄衣重信こと14代太守葛西晴重と考えられます。吉田郷拝領については後述します。

又この年は、石川郡三芦城主(福島県石川町)石川尚光に長男稙光が誕生します。

明応4年(1495)5月22日付宮沢又六宛伊達尚宗采地証判によれば、伊達尚宗が、伊具郡宮沢邑領主(角田市藤田)宮沢又六実家に、父掃部助祐実の忠節に対する恩賞として、名取郡飯野坂郷(名取市)、宮城郡竹城保根崎郷(松島町高城)を与えています。

「世次考・尚宗条・按文」によれば、この恩賞は“伊達氏明応の内乱”の際に、尚宗の側に立って戦ってくれたことによるものではないかと考証しています。

宮沢氏は藤原氏を自称し、その先祖飯田太郎吉実が伊達氏初代念西入道時長の家人として仕え、伊具郡宮沢邑か、伊達郡宮沢郷(福島県桑折町南半田)を所領に与えられ、地名を名字とした一族。

宮沢という地名は神社の側に川が流れる所に割りとよくある地名なのですが、伊達郡宮沢のほうは現在でも人っ気のない山の中の湖の傍らにあり、一方の伊具郡の方は藤原氏の氏神でもある春日神社があり、傍らに沢が流れる正にドンピシャな土地柄。かつてはもっと広い地域を指す地名だったことが地図上からも窺えますので、伊具郡が正しいでしょう。

伊達尚宗から所領を賜った当主は、飯田こと宮沢吉実の玄孫掃部助時実(実家の祖父)とも記されますが、それでは世代が合わないので、実家で良いと思われます。

宮沢実家の宮城郡配置は、この年に伊達尚宗の次男景宗が留守氏に養子に入るので、その絡みとも考えられるのですが、後述します。

息子尚宗と対立した成宗に、どうやら命旦夕が迫っていたようです。

「薄衣状」でそんな伊達成宗を頼みにしていた薄衣美濃入道。しばらくはあちこちに策略を張り巡らしていましたが、成宗の威光に翳りが見えるや、足元に抱えていたとんでもない火種が爆発します。

6月、薄衣甲斐守常盛は実弟の本家江刺三河守重親とタッグを組み、義兄薄衣美濃入道と元祖江刺弾正大弼(美濃守)隆見と御家の主導権を巡り、闘争します。元良信濃守清継と柏山伊予守重朝が、恐らく常盛と重親の味方として派遣されます。

これに連動した動きでしょうか、この年、本家江刺重親の長男彦太郎重任と3男重信兄弟が上洛し、11代将軍足利義高に謁見しています。

8月3日付大町三河守宛伊達尚宗書状によれば、大町三河守の戦功により、尚宗から置賜郡上長井荘笹野郷(山形県米沢市)、刈田郡三沢郷(白石市大鷹沢)の地を賜っています。

刈田郡三沢郷の隣村が大町郷なのですが、大町三河守にちなむ名字の地なのでしょうか。また、戦功とは伊達氏明応の内乱の際に尚宗に味方したことへの褒賞と見られます。

29に続きます。
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水沢佐々木氏の系図によれば明応2年(1493)8月3日、胆沢郡水沢館主(岩手県奥州市水沢大手町)水沢佐々木豊前守信綱に長男信義が誕生します。母は江刺三郎常治の娘。

江刺常治は江刺郡岩谷堂館主(岩手県奥州市江刺岩谷堂)元祖江刺隆見かその先代の名前なのか、若しくは江刺郡三州館主(岩手県奥州市江刺藤里)本家江刺重親のことなのか、はっきりしたことは不明です。

「佐久間本平姓国分系図」によれば12月8日、宮城郡千代城主(仙台市青葉区川内)国分氏11代当主修理亮盛行が没します。享年73歳。
国分氏の最盛期を築いた名君と入れ替わるように、国分氏を変質させた人物が誕生したことは如何なる天の配剤でしょう。
長男美濃守盛綱が12代当主を継ぎます。

「C類系図」、小梨氏の系図によればこの年は、葛西内膳正春重こと13代副太守葛西屋形宗清に3男清胤が誕生しています。

「B類系図」によれば、葛西守信が誕生します。
守信の父は江刺重信(重清)で、母は黒川郡の黒川氏直の次女で長男。父重信は薄衣氏からの養子・本家江刺重親の3男。

薄衣氏の系図によれば、磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町薄衣)薄衣甲斐守常盛の長男下総守常晴が父に先立ち早世します。享年不明。長男若狭守常憲が後継者となります。

中館熊谷氏の系図によれば、元良郡中館館主(気仙沼市月立)中館熊谷上総介直胤に長男直豊が誕生します。母は嵯峨立資弘の娘。

嵯峨立資弘は登米郡嵯峨立館主(登米市東和町錦織)と見られます。その息子と思われる筑前守信明に実子無く、磐井郡黄海古堂館主(岩手県一関市藤沢町黄海)黄海大和守高国の次男筑前守信国を養嗣子にしています。

狼河原金氏の系図によれば、登米郡狼河原領主(登米市東和町米川)狼河原金野右近俊真に長男信俊が誕生します。

南部氏の系図によれば、糠部郡三戸城主(青森県三戸郡三戸町)南部氏20代当主左衛門佐信時の長男右馬頭政康に長男安信が誕生します。

「伊達正統世次考・巻7・尚宗条」によれば明応3年(1494)4月下旬、「塔寺八幡宮長帖」は更に詳しく4月12日、家臣の奸謀により、伊達大膳大夫尚宗が耶麻郡猪苗代郷(福島県猪苗代町)に出奔し、その後復帰した、とあります。

「世次考」は末尾に云々と誤魔化したような、はぐらかしたような、それでいて奥歯に物の挟まったような表現で濁していますが、実はこの事件は伊達氏史上かなりヤバい事件だったのです。
悪い家臣に造反され、義理の叔父・芦名刑部丞盛高を頼ってすたこらさっさとトンズラこく。何だか大崎公方義兼を想起させるこの事件、奇しくも従兄弟同士が同じ目に遭っちゃったわけですが、実は伊達尚宗に対し、クーデターを起こした反逆者の正体は家臣なんかではなく、臨時探題伊達兵部少輔成宗。何と尚宗の実父だったのです。

古今よりムカつく長男、かわいい末っ子で家族対立する例は、88代後嵯峨天皇、斎藤道三、金日成・正日と、掃けば捨てる程で、伊達成宗は3男出羽守守基を可愛がった揚げ句、家督を継がせてやりたいと父子相剋を起こしたのが真相です。

尚宗の出奔に合わせるかのように、会津地方は日照り旱魃に悩まされます。

「世次考」は5月、「塔寺」は5月10日、芦名盛高は芦名四天の宿老筆頭・松本対馬守輔政(討たれた藤右衛門輔忠の3兄)に命じ、出羽国置賜郡竹森館(山形県高畠町)を陥落させます。

芦名盛高自身も5月15日、3000の兵を率い、長井荘(山形県長井市)に出撃、伊達成宗・守基父子を追討します。

6月5日、伊達尚宗が帰還を果たしますが、父子対立が解消されたわけではなく、その後も内乱は続きます。

この時次弟の葛西宗清は恐らく長兄尚宗に加担したものと見られます。この兄弟を見比べてみると、尚宗よりも宗清の方が出来が良いように感じます。ともあれ宗清は生涯この長兄と友好関係を保ち続けたようです。宗清の母は不明なのですが、大崎教兼長女・尚宗の同母弟、と推理するのは、仲良し愚兄賢弟であったが故です。

6月7日、コロンブスの新大陸発見を受けて後援者のスペイン王国とポルトガル王国は、トルデシリャス条約を締結します。この条約は地球を真っ二つに割ってアメリカ大陸の殆どがスペインの刈取り自由となり、反対側のアフリカなどがポルトガルの草刈り場となることを誰彼の許し無く勝手に取り決めた世界史上最も噴飯な条約です。

7月14日、出羽国最上郡山形城主(山形県山形市)7代羽州探題最上治部大輔満氏が没します。享年49歳くらい。長男左衛門佐義淳が8代羽州探題を継ぎます。

石畑小野寺氏の系図によれば7月25日、磐井郡流荘石畑館主(岩手県一関市花泉町日形)石畑小野寺四郎兵衛幸通が没します。享年49歳。長男肥後守充興が跡を継ぎます。

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伊達氏の系図によれば延徳4年(1492)は、伊達郡梁川城主(福島県伊達市)伊達大膳大夫尚宗に次男景宗が誕生します。母は越後上杉房定の娘。後に留守氏家督となります。

7月19日、元号は明応と改元されます。

7月23日、和賀郡鬼柳郷(岩手県北上市鬼柳町)の和賀氏分家鬼柳右京進義継が伊賀守に補任されます。

地球が球体であることは実は紀元前の昔より唱えられていましたが、キリスト教勢力が地球は真っ平らだと主張するとその事実は忘れ去られてしまいますが、イタリアを中心として湧き起こったルネサンスによって再発見されます。

ヴェネツィア共和国(イタリア)のマルコ=ポーロは晩年、ジェノヴァ共和国(イタリア)との戦争に参戦していますが、皮肉にもその対戦国出身のユダヤ人・クリストーフォロ=コロンボ、通称クリストファー=コロンブス(1451?〜1506)によって、中尊寺金色堂と思しき「東方見聞録」の黄金の国ジパングと地球球体説が結び付き、大西洋を西に廻ればジパングに到達出来る!と主張し、支援を募ります。


やがてスペイン王国の支援を取り付けたコロンブスは8月3日、西廻り航路で黄金の国ジパングを目指し出航します。

10月11日、コロンブスは、正確に言うと沖合を見張っていた水夫は、”西の果ての未知なる大地“を発見。かくしてグアナハニ島(バハマ共和国サン・サルバドル島)に上陸し、この地こそインドだ!と確信もて誤認します。

ちなみに第一発見者である水夫は、第一発見者の座を狙う強欲コロンブスによってその事実を抹消され、報償金をケチられています。

コロンブスは”西の果ての未知なる大地“を終生インドだと信じて疑わなかったとされますが、薄々は勘付いていたようです。目先の褒美欲しさに黙っていたようですが、これによってその巨大大陸名がコロンボではなく、アメリカとなってしまったことはまぁ自業自得でしょうな。

コロンブスは探検家、航海士、侵略者、そして奴隷商人が同一に貫かれることを新大陸もて体現した人物でした。本当の発見者であるアメリカ大陸先住民族達はインド人だという意味のインディアンと蔑称され、この発見は地理上の発見、そこからは大航海時代と持て囃されますが、黄金の国ジパングなどという他愛も無い噂によって世界の各地で恐るべき植民地争奪戦が始まることを意味していました。

12月、行方郡小高城主(福島県相馬市)相馬氏13代当主大膳大夫盛胤一世が標葉郡(福島県双葉郡)の標葉清隆を滅ぼします。

この時滅亡した標葉氏のルーツは、遡れば日本創世神話時代にまで達し、スサノオとアマテラスの姉弟結婚によって誕生した3男天津彦根命の14代の末裔で、石城国造の祖となった建許呂命(たけころのみこと)の子孫が、平氏を仮冒した海道平氏を名乗り、出羽清原真衡の養子となった海道小太郎成衡の4男隆行(隆義)の子孫を称するという、偲べば懐かしい古さと含蓄を湛えた家系図となっています。

薄衣氏の系図によればこの年は、磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町)薄衣美濃入道の長男上総介清貞に長男清宗が誕生します。

父である大御所足利義視の死や、父方母方両方の伯母である日野富子、管領細川政元との対立などにより、改元とその際の「明」字の使用、前将軍義尚が成し得なかった六角行高の近江国(滋賀県)追放など、強権政治を志す10代将軍足利義材の背後関係が希薄となり、権力基盤が脆弱なものとなります。

明応2年(1493)閏4月25日、細川政元は10代将軍義材と畠山政長が、対立する河内国(大阪府)の畠山義豊(義就長男)を追い詰めていた背後を突き、応仁の乱の当事者であった政長を自害せしめます。享年52歳。

10代将軍義材は投降の後幽閉され、日野富子の差し金により毒殺されかかりますが、一命は取り留め、畠山政長の長男尚順(ひさより)の領国・越中国射水郡放生津郷(富山県射水市)に落去し、ささやかながら幕府を営み、再起を賭けます。室町将軍が政治的、軍事的背景を喪って、流亡するようになる最初の事例となります。
細川半将軍政元は堀越公方足利政知の次男清晃を擁立し、義遐(よしとお)と改名させます。所謂明応の政変です。

6月19日、足利義遐は義高と改名します。

将軍後継者に担ぎ上げられた義高がまずしたことは、母と3弟の敵討ちでした。

夏から秋にかけ、今川氏親の客将となっていた室町幕府奉公衆にその密命が下ります。伊勢新九郎盛時、この時出家したらしく、早雲庵伊勢宗瑞と名乗っていましたが、足利茶々丸の乱で殺害された義高の母と弟を弔うためとも、伊豆討入りに際して室町幕府奉公衆を退任したことによる出家と言われます。

「塔寺八幡宮長帖」によれば6月26日、大地震が発生。また、大雨で山崩れが発生し、耕作地が流失していますが、この年の会津地方は豊作だったと記します。また、9月26日には八幡宮の鳥居から血が流れたという何とも不思議な怪奇現象(朱塗りが溶けたか剥げ落ちただけでは?)が発生し、明応の政変のせいじゃないかと書いていますが、関係無いでしょう。

27に続きます。

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延徳3年(1491)1月7日、10代将軍足利義材の実父ゆえ、大御所と呼ばれた足利義視が没します。享年53歳。奇しくもこの日は、兄である8代将軍義政が没して丁度1年後の祥月命日に当たります。

4月3日、堀越公方政知が没します。享年57歳。次男清晃を将軍に、3男潤童子を堀越公方にすべく運動していた最中の死でした。

足利政知の長男は茶々丸という、なんだかファミコンの忍者みてぇな名前(それはじゃじゃ丸)ですが、素行不良とも、後妻の讒言とも言われる理由で元服もなされず、土牢に幽閉されていましたが、7月1日、脱獄に成功した茶々丸は継母とその子潤童子を殺害し、力ずくで堀越公方の座を奪い取ります。

8月、「薄衣状」に藤沢の甥と記された磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世が、家督上のイザコザで磐井郡黄海館主(岩手県一関市藤沢町黄海)黄海大蔵高行と合戦しますが、11月、岩渕経世は戦傷死してしまいます。享年43歳。長男近江守経平が跡を継ぎます。

家督上のイザコザとはどういう経緯なのかは不明ですが、13代正太守葛西惣梁政信は、薄衣美濃入道に命じて、岩渕経世の3男大和守高国を黄海高行の養子とすることで両者を和睦せしめています。

ここでも葛西政信が薄衣美濃入道に命じる、というパターンになるわけですが、葛西政信と薄衣美濃入道が和解したのか、はたまた政信は宗清の間違いなのか、はっきりしたことはわかりません。しかし、薄衣美濃入道にとって、同じ公方義兼派の同志であった藤沢の甥こと岩渕経世の良いように計らうことは当然の策動であり、薄衣にとっては南隣、藤沢岩渕にとっては西南の黄海が勢力範囲下になったことになります。

新山亀卦川氏の系図によればこの年は、磐井郡新山鳥崎館主(岩手県一関市大東町大原)新山亀卦川下総守師暉に長男師兼が誕生します。母は仏坂信濃守信頼の娘浜子。仏坂信頼については磐井郡仏坂館主(岩手県一関市千厩町磐清水)で亀卦川氏の分家と見られますが、詳細は不明。

日形峠千葉氏の系図によれば、磐井郡日形苅明館主(岩手県一関市花泉町)日形千葉左馬助秀胤に長男胤吉が誕生します。母は中里日向守定村の娘。
中里定村は磐井郡中里(岩手県一関市)の領主と見られますが、詳細は不明です。

沼倉氏の系図によれば、大崎家臣で栗原郡三迫白岩館主(栗原市栗駒沼倉)沼倉刑部家隆二世に3男家紀が誕生します。

「佐久間本平姓国分系図」によれば、国分盛光が誕生します。後に能登守宗政と名乗って14代当主を継ぐ人物ですが、実は「古内本平姓国分系図」によれば、分家の五郎大夫広政(常政)の長男で、本家12代当主美濃守胤実の婿嗣子となって家督を継いだらしいことが暗に記されています。

延徳4年(1492)、会津郡黒川城主(福島県会津若松市)の芦名刑部丞盛高の一族猪苗代伊賀守、芦名四天の宿老筆頭・松本藤右衛門輔忠と新右衛門(不明)、同じく芦名四天の宿老・富田淡路守頼祐父子3人らが主君盛高に反逆します。芦名盛高は一時、家臣伊藤民部の館に逃れますが、やがて体勢を立て直し、3月3日に猪苗代伊賀守を、4月11日に松本輔忠を、4月12日には松本新右衛門と富田頼祐父子3人を討ち取ります。

後の葛西御一家四天の家老を彷彿とさせる芦名四天の宿老は、松本氏、富田氏、佐瀬氏、平田氏の4氏が任ぜられていましたが、筆頭たる松本氏は元来信濃国諏訪郡(長野県)から移住し、芦名家臣となった家系で、やがて勢力が大きくなり過ぎたゆえか、この頃から芦名当主に頻りに反逆し、謀反し、そして討伐を受けるようにはなり、血筋の殆どを粛清によって喪うという、血飛沫が散乱する家系図となっています。

5月26日、三堰三郎左衛門尉清泰が四国33ヶ所巡礼札を岩手県西磐井郡平泉町の天台宗山門派関山中尊寺に納めています。

三堰清泰なる人物は、文明16年(1484)3月16日にも全く同じことをしています(第十五章3)。

6月11日、行方郡、宇多郡(福島県)の相馬氏12代当主治部少輔高胤が、年来の宿願であった標葉郡(福島県)の標葉清隆征伐に出陣しますが、合戦の最中、重病に罹ります。高胤は標葉氏征服を、土佐国(高知県)の長曽我部国親の本山氏征服よろしく、長男大膳大夫盛胤一世に託し、没します。享年69歳。

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元祖松川氏の系図によれば、9代将軍足利義熙早世の3日後、長享3年(1489)3月29日、磐井郡松川館主(岩手県一関市東山町)松川尾張守滋吉が早世します。享年35歳。長男太郎三郎胤広がわずか4歳で跡を継ぎます。

4月19日、伊達尚宗の現存する政治活動の初めとして、角田市神次郎の日蓮宗身延派法光山妙立寺住職・海善坊の領地である伊具郡伊具荘西根神次郎郷(角田市)からの棟役(家屋の棟単位で課税される租税)ほか公事(工事の手伝いや戦争における兵の徴収など)の免除の書状を発給しています。

海善坊の所領神次郎郷は文明9年(1477)2月13日、平岡六郎なる人物から買い取った土地で、その際、尚宗の父成宗が所領安堵しています(第十四章13)。

成宗から尚宗への代替わりが伊達家中で着々と進んでいるようです。

古河公方家でも代替わりがあります。初代成氏が隠居し、長男政氏が前8代将軍義政の偏諱を受け、2代公方を継ぎます。

2代古河公方政氏が就任した当時の関東は、扇谷上杉定正が太田道灌を粛清したことに起因する関東管領山内上杉顕定との激戦の真っ直中にありましたが、2代公方政氏は扇谷上杉定正を支持し、関東管領と合戦しています。

4月、9代将軍義熙の早世を受けて、美濃国(岐阜県)に滞在していた足利義視、義材父子が上洛し、義視は出家し、義材は将軍後継者に指名されます。

兄のワガママで還俗させられながら、結局将軍にはなれずじまいでしたが、不思議な巡り合わせで長男が将軍となったわけです。

7月25日、元号は延徳と改元されます。

この年は、出羽国置賜郡鮎貝郷(山形県白鷹町)の鮎貝直致が長井荘に侵撃します。伊達尚宗家臣桜田宗親が防戦します。

またこの年は、常陸国(茨城県)の佐竹義治と対立する山入佐竹義藤の誘いを受け、伊達尚宗、芦名盛高、白河結城政朝らが常陸国に侵入しますが佐竹本家が苦戦の末、撃退しています。

中館熊谷氏の系図によれば、元良郡中館館主(気仙沼市月立字表松川)中館熊谷肥後守直行が没します。享年71歳。長男仲左衛門直景は父に先立ち早世したため、その長男上総介直胤が跡を継ぎます。

狼河原金氏の系図によれば、登米郡狼河原領主(登米市東和町米川)狼河原金野兵庫俊冬が没します。享年61歳。長男右近俊真が跡を継ぎます。

浜田氏の系図によれば、気仙郡高田館主(岩手県陸前高田市米崎町松峰)浜田安芸守基継に長男時胤(胤継)が誕生します。

沼倉氏の系図によれば、大崎家臣で栗原郡三迫白岩館主(栗原市栗駒沼倉)沼倉刑部家隆二世に次男家頼が誕生します。母は師山弾正仲久の娘。師山仲久は志田郡師山郷(大崎市古川師山)の領主でしょうか。

延徳2年(1490)1月7日、8代将軍足利義政が没します。享年55歳。

松川滋吉の早世で家督を継いだ胤広ですが、わずか4、5歳の幼児に過ぎません。

本家松川氏の系図によれば1月、13代正太守葛西惣梁政信は、薄衣美濃入道の次男隆信を越中守信胤と名乗らせて、大原信広の娘と夫婦養子で新たなる松川氏当主に据えています。

しかし、反義兼一揆の政信が同志の松川氏に、対抗勢力である公方義兼派の薄衣美濃入道の次男と大原信広の娘を夫婦養子に出させるというのは考えられません。

恐らく、松川氏への報復を狙う薄衣美濃入道自身が策動し、僅か5歳の胤広が成人する迄の後見人ないし、臨時家督とでも触れ込んで捩じ込んだのが真相ではないでしょうか。

結果的に松川氏は奈良坂氏や清水氏、江刺氏の如く、磐井郡松川内館主(岩手県一関市東山町松川)の元祖と磐井郡松川外館主(岩手県一関市東山町松川)の本家、2つの系統に分裂してしまいます。薄衣美濃入道がボロ負けしても只では起きない策士曲者ぶりが見事に発揮されます。

また、その元祖松川氏の領土であった磐井郡門崎郷(岩手県一関市川崎町門崎)に、大崎家臣で遠田郡不動堂郷領主(美里町)千葉下総守良親が来住し、千葉尾張守利胤(松川滋吉)の故地に磐井郡長谷市館(岩手県一関市川崎町門崎字波瀬市)を築いて住むと波瀬市千葉氏の系図は記します。

更に波瀬市千葉良親に長男良時が誕生します。母は大崎家臣で栗原郡高清水館主(栗原市高清水)石川越前守の妹。

葛西一族と称する千葉良親の移住の背景に、薄衣美濃入道の策謀が見え隠れします。

7月5日、足利義材が10代将軍に就任します。

この年は、第10次葛西大崎合戦が勃発し、大崎公方義兼と薄衣美濃入道が旧新田郡佐沼城の惣梁政信を攻撃しています。

大崎家臣米田氏が義兼に反逆してよりは、佐沼城主の座が13代正太守政信に移ったようですが、米田氏の行く末については不明です。

この事からも葛西政信が薄衣美濃入道に養子縁組を斡旋するなど有り得ないことがわかります。

更にこの年は、会津郡(福島県)の芦名盛高に次男盛舜が誕生しています。

25に続きます。

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