ーこの間寄せ来たる敵に死せる者怪我する者数知れず、翌日早朝「元良信濃守(清継)」が「登米(義賢)」、「山内」の軍勢を引き連れ、様々な場所から手練れどもが終結し、こちらは木戸を塞ぎ、井戸にも蓋をしました。ー
山内は桃生郡七尾城主(石巻市中野)山内首藤刑部少輔義通(?~1502)。
山内首藤氏には次弟で、かつ葛西家中で弓の師範をしていたと系図に記される福地左馬助頼通率いる福地水軍と、桃生郡滝浜館主(石巻市)武山三右衛門親長率いる武山水軍が所属していましたので、水陸両方から松崎館を厳重に包囲したようです。
元良郡松崎館の合戦の過程を改めて記すくだりです。
隣接する郡同士の元良清継、登米(登米郡?登米三河守義賢?)、そして山内首藤義通が反義兼一揆に加担し、更にその背後には葛西惣梁こと13代正太守政信が控えている構図です。
一方の葛西屋形こと13代副太守宗清が公方義兼派に属し、ということは日和山城のある牡鹿郡は元良郡、登米郡、桃生郡に対峙する構図だったのでしょう。であれば、末永清春、能登守は薄衣美濃入道と同じ公方義兼派だった可能性が高いです。
ー海上に数千艘の船を並べ、航路を堅く封鎖して宿直(昼及び夜の警備、警戒)も厳重で、耳目を驚かすばかりです。昼夜の鬨の声、波の音や沖の鴎、渚の千鳥、山野の獣が集まって騒ぐ鳴き声もかき消されてしまいます。ー
陸からは小泉備前守、岩月八幡熊谷直泰とその野武士達数千人、加えて登米義賢に、海からは元良清継、山内首藤義通の水軍が数千艘、1艘当たり何人乗船しているのかわかりませんが、少なくとも1万人以上、やっぱり盛ってますな。
ーここに身の毛がみんな逆立つことは偏に、鬼海島(薩摩硫黄島)へ流された「俊官(俊寛)」に異なりません。そもそも城の中にいる者は、海底より山のように浮かび上がった島のようなと申すべきでしょうか、「柏山(伊予守重朝)」は阿修羅と化して万騎を率い、力攻めではなく、日夜矢を雨の如く降らせます。ー
俊寛(1143~79)は真言宗の僧侶で、平氏打倒の謀議、所謂鹿ヶ谷の陰謀が露見して配流された人物。島流しされた鬼界島は薩摩国三島郡、鹿児島県三島村にある薩摩硫黄島のことで、恩赦が下りながらも政治的な理由で赦免されぬまま、孤独に咽び、寂寥に狂いながら生涯を閉じたとされ、その悲惨な様は平家物語、源平盛衰記、能や歌舞伎に芝居立てられて今に膾炙しています。
その俊寛が配流された鬼界島、薩摩硫黄島は絶海に浮かぶ孤島で、大和、熊野、出羽にも見られる三山信仰など、日本の土着宗教(神道、初期仏教、観音信仰、神仏混淆など)の原点が其処に在ると云われます。
そんな鬼界島のように松崎館が周りを全て敵に囲まれて、恰も絶海に浮かぶ孤島の如くなっている様をもって、“俊寛に異ならず”と表現しているのでしょうか。といってもアンタ松崎館にいなかっただろうってね。
ー伝え聞くに、源平合戦(治承寿永の内乱)の時、一の谷(摂津国八部郡、やたべ、兵庫県神戸市兵庫区、中央区、須磨区)の戦いで、「熊谷(直実)」と「平山(季重)」が塩屋口で先陣争いをしたようなものでしょうか。とはいえ、兵糧も水も既に尽き、この上は落ち延びるべきか、無念です。手をこまねいているのは何とも浅ましい次第です。全く悲運の至りです。ー
俊寛繋がりで源平合戦(治承寿永の内乱)における一の谷の合戦での岩月八幡熊谷直泰の遠い先祖熊谷直実(1141~1207)が、平山季重(1140?~1212?)と先陣争いしたことを引き合いに出して、元良軍の猛攻に譬えています。
16に続きます。