2020年03月

ーこの間寄せ来たる敵に死せる者怪我する者数知れず、翌日早朝「元良信濃守(清継)」が「登米(義賢)」、「山内」の軍勢を引き連れ、様々な場所から手練れどもが終結し、こちらは木戸を塞ぎ、井戸にも蓋をしました。ー

山内は桃生郡七尾城主(石巻市中野)山内首藤刑部少輔義通(?~1502)。
山内首藤氏には次弟で、かつ葛西家中で弓の師範をしていたと系図に記される福地左馬助頼通率いる福地水軍と、桃生郡滝浜館主(石巻市)武山三右衛門親長率いる武山水軍が所属していましたので、水陸両方から松崎館を厳重に包囲したようです。

元良郡松崎館の合戦の過程を改めて記すくだりです。

隣接する郡同士の元良清継、登米(登米郡?登米三河守義賢?)、そして山内首藤義通が反義兼一揆に加担し、更にその背後には葛西惣梁こと13代正太守政信が控えている構図です。

一方の葛西屋形こと13代副太守宗清が公方義兼派に属し、ということは日和山城のある牡鹿郡は元良郡、登米郡、桃生郡に対峙する構図だったのでしょう。であれば、末永清春、能登守は薄衣美濃入道と同じ公方義兼派だった可能性が高いです。



ー海上に数千艘の船を並べ、航路を堅く封鎖して宿直(昼及び夜の警備、警戒)も厳重で、耳目を驚かすばかりです。昼夜の鬨の声、波の音や沖の鴎、渚の千鳥、山野の獣が集まって騒ぐ鳴き声もかき消されてしまいます。ー

陸からは小泉備前守、岩月八幡熊谷直泰とその野武士達数千人、加えて登米義賢に、海からは元良清継、山内首藤義通の水軍が数千艘、1艘当たり何人乗船しているのかわかりませんが、少なくとも1万人以上、やっぱり盛ってますな。



ーここに身の毛がみんな逆立つことは偏に、鬼海島(薩摩硫黄島)へ流された「俊官(俊寛)」に異なりません。そもそも城の中にいる者は、海底より山のように浮かび上がった島のようなと申すべきでしょうか、「柏山(伊予守重朝)」は阿修羅と化して万騎を率い、力攻めではなく、日夜矢を雨の如く降らせます。

俊寛(1143~79)は真言宗の僧侶で、平氏打倒の謀議、所謂鹿ヶ谷の陰謀が露見して配流された人物。島流しされた鬼界島は薩摩国三島郡、鹿児島県三島村にある薩摩硫黄島のことで、恩赦が下りながらも政治的な理由で赦免されぬまま、孤独に咽び、寂寥に狂いながら生涯を閉じたとされ、その悲惨な様は平家物語、源平盛衰記、能や歌舞伎に芝居立てられて今に膾炙しています。

その俊寛が配流された鬼界島、薩摩硫黄島は絶海に浮かぶ孤島で、大和、熊野、出羽にも見られる三山信仰など、日本の土着宗教(神道、初期仏教、観音信仰、神仏混淆など)の原点が其処に在ると云われます。

そんな鬼界島のように松崎館が周りを全て敵に囲まれて、恰も絶海に浮かぶ孤島の如くなっている様をもって、“俊寛に異ならず”と表現しているのでしょうか。といってもアンタ松崎館にいなかっただろうってね。



ー伝え聞くに、源平合戦(治承寿永の内乱)の時、一の谷(摂津国八部郡、やたべ、兵庫県神戸市兵庫区、中央区、須磨区)の戦いで、「熊谷(直実)」と「平山(季重)」が塩屋口で先陣争いをしたようなものでしょうか。とはいえ、兵糧も水も既に尽き、この上は落ち延びるべきか、無念です。手をこまねいているのは何とも浅ましい次第です。全く悲運の至りです。ー

俊寛繋がりで源平合戦(治承寿永の内乱)における一の谷の合戦での岩月八幡熊谷直泰の遠い先祖熊谷直実(1141~1207)が、平山季重(1140?~1212?)と先陣争いしたことを引き合いに出して、元良軍の猛攻に譬えています。

16に続きます。

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ーそうして過ぎる2月9日、「下平形」の家来の者達が偶々帰参しまして、「柏山伊予守重朝」が時を措かずに、思いのままに武威を誇り、自らの白髪頭に甲を載せ、若干の士卒らを従え、新田・黒沼の2つの城に攻め寄せて、陥落させてしまいました上は、入道はご命令を頂き、一両輩者共(解読不能)は申しません。ー

下平形は具体的な場所なのか人名なのかは不明ですが、家来を抱える領主クラスの存在であることが文面からは窺えます。

新田・黒沼の2城は登米市中田町宝江新井田、宝江黒沼にあった館で、館主は長岡千葉胤親の子孫で新田小野寺氏の後に領主となった新井田千葉長門守祐胤(1435~1490)

白髪頭というから柏山重朝はそこそこの老将なのでしょう。柏山重朝は反義兼一揆に属していますので、新井田千葉祐胤は薄衣美濃入道に同じ公方義兼派ということになるのでしょうか。

柏山重朝が本拠地胆沢郡から北上川沿いに、登米郡に向かって新井田千葉祐胤を攻撃する際、途中薄衣を通るわけで、その行く手を阻むよう薄衣美濃入道が大崎公方義兼から命ぜられていたのでしょうか。それが元良清継の攻撃によって不如意に陥ったことを弁解したいのかもしれません。



ー「公方」のお味方が数多く討死し、身否運時之幸恨有(解読不能)、私がその原因を尋ねて聞くには、香射根(解読不能)というのでしょうか。ご遺恨深く肝に染め、骨髄に徹するものでありましょうや。ー

この辺のくだりも何を書きたいのか、さっぱり判りません。味方が多数討死して恨み骨髄に撤するのはわかりますが、その多数討死した公方義兼派の味方というのは、新井田千葉祐胤を含め、次のくだりに述べる人達でしょうか。



ー「細川三河守」、「数流沢(摺沢)摂津守禅門」、「横沢式部大輔」及び、元良郡松崎の館が、去る2日の暁に陥落し、「伯父石見守」を大将として数百人の親類縁者が籠城しました所、その未の刻(13時~15時)に元良の軍勢、「小泉備前守」、「岩月式部大輔」らが数千人の野伏せりを手引きして館を攻撃しました。ー

細川三河守は、登米郡下館館主(登米市南方町)ですが、詳細は不明。

摺沢摂津守禅門は、磐井郡摺沢館主(岩手県一関市大東町)。
摺沢氏は初め千葉氏だったものが何時しか岩渕氏に系統が変わったらしく、それが領主交替なのか、養子縁組なのか、それ以上のことははっきりしていません。

横沢式部大輔は磐井郡浜横沢館主(岩手県一関市室根町折壁)。
系図によれば葛西清重の末流を自称しますが、幸い同時記録が残っていて、案の定系図とは合致していません。無論式部大輔も系図には無く、類推するに民部忠胤が相当するかと思われます。

元良郡松崎館は本吉郡南三陸町戸倉の、志津川湾を臨む突起のような浜辺に建つ館で、守る伯父石見守については詳細全くの不明で、薄衣美濃入道の伯父ならば美濃入道自身50代ですからかなりの高齢者ということになりますが、叔父ならば年齢が近いということも有り得たかもしれません。

小泉備前守は、元良郡宝領館主(気仙沼市本吉町小泉)西条氏の一族と見られますが、詳細は不明。

岩月式部大輔は、元良郡岩月八幡館主(気仙沼市岩月千岩田)八幡熊谷主馬直泰(1455~1517)

細川、摺沢、横沢は公方義兼派で、反義兼一揆の攻撃を受けたと読めます。

数百人が篭る松崎館を攻撃した元良清継、小泉備前守、八幡熊谷直泰。数千人というとんでもない数の野武士を率いた、というのは流石に誇張でしょう。

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ー寒い中とは申せ、その接所(せっしょ、切所、城砦のこと)の門を押し開き、ここは一つ合戦してやろうと、兜の緒、馬の腹帯を締めた時、敵の大軍勢が切岸(城館の脇を削って造った断崖)まで迫って来て、敵の精兵どもが櫓に並ぶ手持ちの盾や並べた盾を撃破し、射ては城門を破り、射っては門口を塞ぎました。

筒木(どうぎ、胴木、落とす丸太)や石弓も叶わず、もはやこれまでと思い、、、ー

籠城戦のシーンは「世次考」の編者は長ったらしくて鬱陶しいと思ったか、ここから先の記述は“云々”で省略しています。



ー、、、腹を切ろうとして皮製の敷物に座したところ、「米谷左馬助」が申すには、“口惜しきことだ、昔ならいざ知らず、一廉の者がむざむざ切腹してあだ花と散ってしまうというのは、浅はかなザマである。なかんずく「屋形様」がご出陣されるとのこと。この上は城から駆け出して敵陣に斬り込み、討死してしまおうではないか”と言って、自ら家来の騎馬武者7、8騎を従えて城門を開け、「(米谷)左馬助」は先陣切って出撃し、八幡大菩薩が降臨したのか、「惣領」の軍勢を物凄い勢いで追い払い、叩き崩して、上級武者10数人を討ち取りました。ー

「薄衣状」において惣領(梁)政信の兵と激しい斬り結びを演じている米谷左馬助は、米谷亀卦川氏の系図によれば、登米郡米谷館主(登米市東和町)米谷亀卦川出雲守常直(1439~1504)か、その3弟常長(1448~1539)、もしくは常直の長男治部常信(1460~1538)、次男玄蕃常定(1465~1524)に比定されますが、或いは全く同姓の別人かもしれません。

というのも、米谷亀卦川氏の歴代当主は、葛西太守歴代に仕えたと記されており、しかも米谷常直は葛西政信老臣と記され、その叔母は政信の後妻となっているからです。

一方、常直の長男常信は後に領地を没収され、11年間放浪していますので(後述)、系図の記述とは裏腹に、葛西太守と確執してたのかもしれません。

屋形様は、惣梁に対する葛西氏の大物であると思われます。すなわち、日和山葛西宗清その人であり、当時の葛西家中は惣梁政信と屋形宗清の二頭立てだったことが窺えます。

そして葛西屋形宗清は、惣梁政信の反義兼一揆とは異なり、薄衣美濃入道に同じ公方義兼派だったことが窺えます。

葛西宗清と大崎義兼は従兄弟同士にあたるので、公方義兼の味方をするのは至極当然かと思われます。



ーその他斬り捨てた下級武士は数を知れません。その隙を掻い潜って、草木の下陰に隠れ、具足を外し、「藤沢の伯父甥」を頼んで落ち延び、体中に傷をこうむり、馬も味方も斬り倒される中、忝なくも「(米谷)左馬助」が昔からの付き合いを忘れず、馬を貸してくれ、「藤沢伯父甥」の2人がいる館まで送ってくれたのです。その高い心ばえは前代未聞のことです。ー

前々から書いてきましたが、藤沢の伯父甥は、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕内膳正経世(1149~91)とその叔父岩渕兵部丞経奉(1435~1506)であることが系図から類推されます。



ー天笠の森へ引き上げ、勝鬨を揚げましたことは入道の本望これに過ぎるはありません。これによって「惣梁」の堪気はいよいよ深まりましたので、門戸を閉ざし、更には近隣を経て廻る旅行者を入れないようにしています。ー

天笠は磐井郡天ヶ沢(岩手県一関市藤沢町黄海)で、敗走しながらも命からがら何とか無事に逃げおおせただけなのになぜに勝鬨なのかは薄衣美濃入道のみぞ知るところであり、推測のしようがありません。どうにか逃げ延びたぞぉ!ヨッシャー!ぐらいの感激を勝鬨と表現したのでしょうか。本望てのも何だか大袈裟だし。

で、惣梁、13代太守政信の怒りが益々募り、防備を固くし、人の出入りを制限しているのだと。

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ーこれひとえに前世の応報か、将又(乱世の)時節の到来でしょうか。或いは私の心身の衰えでしょうか。驚くべくもないのですが、取り分け従父たる「元良信濃守清継」が我が拠点の数か所を制圧してしまい、会稽の恥をすすぐ以外には無いと思いました。これに加えて去年の12月8日、「惣梁」が雲がたなびくような数万騎の軍勢を我が居場所まで押し寄せてきました。ー

元良信濃守清継は元良郡志津川館主(本吉郡南三陸町)にして、西舘重信の長男で、薄衣美濃入道の兄に当たります。

“会稽の恥をすすぐ”とは、越王勾践(?~BC465)が呉王夫差(?~BC473)の臥薪の執念によって敗戦し、夫差の馬屋番にされて釈放された恥辱を晴らすべく、23年後に嘗胆の怨念でもってリベンジを果たした故事に因む成語で、恐らく薄衣美濃入道は10年の譴責と、その譴責とは関係無く、実兄元良清継の侵略の2つを会稽云々に掛けているのでしょう。

惣梁は葛西13代太守政信。

「薄衣状」では元良清継は従父と記されていますが、「世次考」では従父兄弟(父方いとこ)と記されています。

実の兄なのに従父(伯父?)とか従父兄弟とか書かれている背景を美濃入道風に言えば、これ偏に系図の間違いか、将又誤字脱字や紙の破損による文意不通であろうか、或いはおいらの解釈が間違っている故だろうか、といった所ですかね。

薄衣美濃入道は実の兄元良清継とは不仲だったのか、所属する派閥が異なってしまった故か、対立することとなっただけでなく、自領を荒らされてしまいます。

薄衣常盛挙兵と元良清継侵略の翌月である12月8日に、誇張もあるでしょうが、13代正太守(惣梁)政信が数万騎の大軍を率いて攻め寄せて来ます。



さて、従来唱えられてきた説では、10月に閏月を設定した文明元年(1469)か明応8年(1499)が「薄衣状」の執筆年に当たるとされてきましたが、文明元年どころか、文明15年(1483)ないし文明17年(1485)を遡らないことは既に記述しました。

一方で、臨時探題伊達成宗が没した後の明応8年(1499)もまた、明確に否定されます。

ここでおいらは“閏10月”という記述に敢えて拘泥せず、閏月がある年をピックアップしてみました。そもそも薄衣美濃入道は一流の文学者でもなければ、稀代の国語家でもないのです。気分が高じる余り、意味不明な記述や書き損じもあることでしょう。現代でもネット革命以前は訳のわからない手紙を書く者がいましたし(それ故に午前0時過ぎてラブレターを書くものではないと戒められた)、ネット革命以後も首を捻りたくなるようなイミフな文言をカキコしてトラブルになる例は枚挙に暇ありません。

それはともかく、列挙すれば以下の通り。

文明17年(1485)、閏月は3月
長享元年(1487)、閏月は11月
延徳2年(1490)、閏月は8月

そもそも太陰太陽暦で閏月を入れなければカレンダー上の1年と地球上の1年がやがてズレを起こすことは自明の理なのですが、どこに閏月を入れるかに関しては地域によってまちまちともいわれます。

薄衣美濃入道が居た地域がカレンダー通りの閏月だった可能性はありませんし、本来あるべき所の閏月を10月に設定した可能性は否定出来ません。

ともあれ上記3説の内、長享元年は非常に魅力的な説です。何故なら、本来閏月を11月とすべき所を、10月に設定した可能性が高いですし、何より長享年間は薄衣美濃入道の3男重氏が同じ公方義兼派の縁で富沢重隆の養嗣子に入っているからです。

13に続きます。

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