文明8年(1476)7月23日、京都府京都市左京区岩倉村松町に現在は建つ本山修験宗円学院住心院所蔵の「京都住心院文書」によれば、左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山聖護院28代門跡道興が、“斯波大崎一家・被官地下人”の熊野参詣先達職を、六角上野律師なる僧侶に命じています。
また7月、黒川顕氏が上洛し、9代将軍足利義尚に謁見し、美濃守の官職を与えられ、9月に帰郷しています。
8月7日、葛西氏が桃生郡深谷荘小野城主(東松島市)長江景隆と合戦します。文明3年(1471)にも同じ日付で長江氏と合戦していますが、前述のごとく誤謬であり、こちらが正しいと思われます。
この戦いに磐井郡松川(岩手県一関市東山町)の松川小野寺宮内少輔重胤が討死しています。享年38歳。長男宮内左衛門尉重晴が跡を継ぎます。
応仁・文明年間に入り、葛西氏は大崎氏、和賀氏、長江氏などとあちこち戦端を開くようになりました。
殊に長江氏は当時、伊達氏の馬打ち領、すなわち属国として扱われていましたが、そこへ一応同盟国である葛西氏が攻め込むということは、長江氏が伊達氏からの独立を目論だ故に誅伐された、ということになるのでしょうか。
であれば、地理的にも、また伊達氏縁者でもある日和山葛西満重がこの合戦に何等かのイニシアチブを執ったものと考えられます。そこに末永清春一家がどう関わったのか、興味はあります。
10月14日、伊達成宗が臨済宗東福寺派当午山満勝禅寺の棟別役を免除しています。
満勝寺は初め、伊達氏初代当主朝宗(時長)の菩提寺として福島県伊達郡桑折町に開山開基されましたが、現在は仙台市青葉区柏木に移転しています。
棟別役とは建物ごとに徴収される税金ないし労役ですが、ゼニなら大体10文から100文が相場だったようです。
伊達氏ゆかりの寺院ゆえの措置なのでしょうが、棟別役徴収権は一介の地方大名、国人領主が施行出来る権限ではありません。更に、伊達成宗は自らを“屋形”と号しています。
屋形は公方、御所に次ぐ格式の称号、敬称で、当然伊達成宗ごとき単なる地方の国人が勝手に名乗れるものではありません。棟別役徴収権にしろ、屋形号にしろ、恐らく義父であり、室町幕府足利将軍家から御所号を許されていた大崎探題教兼の認可を得たものと考えられます。
福地首藤氏の系図によれば、桃生郡福地館山館主(石巻市福地)福地首藤山城守俊英の長男将監俊長こと、桃生郡七尾城主(石巻市中野)山内首藤太郎左衛門尉頼通の次男左馬助頼重に俊兼が誕生します。
相馬氏の系図によれば、行方郡(福島県相馬市)の相馬氏13代当主高胤に長男定胤(盛胤一世)が誕生します。母は会津郡(福島県会津若松市)の芦名氏12代当主盛詮の娘。
文明9年(1477)1月18日、主君に謀反した白井長尾景春は、その主山内上杉顕定を上野国(群馬県)へと放逐してしまいます。
所謂長尾景春の乱に巨大な英雄の壁が立ちはだかります。武蔵国豊嶋郡江戸城主(東京都千代田区千代田)扇谷上杉氏家宰太田道灌です。
白井長尾景春の父景信と太田道灌の母が兄妹のため、景春にとって道灌は従兄に当たります。そして共に葛西清重長庶子時清女系子孫、清重12代後裔となります。
折しも太田道灌は今川義忠横死後に小鹿範満を新たな家督に擁立し、未亡人北川殿と竜王丸氏親を亡き者にせんと謀っていましたが、伊勢盛時(北条早雲)又はその父盛定が提案した竜王丸成人迄範満が代行する、との折衷策に同意して、急ぎ従弟の乱を討伐せんと、帰郷したばかりでした。
白井長尾景春の父景信と太田道灌の母が兄妹のため、景春にとって道灌は従兄に当たります。そして共に葛西清重長庶子時清女系子孫、清重12代後裔となります。
折しも太田道灌は今川義忠横死後に小鹿範満を新たな家督に擁立し、未亡人北川殿と竜王丸氏親を亡き者にせんと謀っていましたが、伊勢盛時(北条早雲)又はその父盛定が提案した竜王丸成人迄範満が代行する、との折衷策に同意して、急ぎ従弟の乱を討伐せんと、帰郷したばかりでした。
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