2020年01月


文明8年(1476)7月23日、京都府京都市左京区岩倉村松町に現在は建つ本山修験宗円学院住心院所蔵の「京都住心院文書」によれば、左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山聖護院28代門跡道興が、“斯波大崎一家・被官地下人”の熊野参詣先達職を、六角上野律師なる僧侶に命じています。

また7月、黒川顕氏が上洛し、9代将軍足利義尚に謁見し、美濃守の官職を与えられ、9月に帰郷しています。


8月7日、葛西氏が桃生郡深谷荘小野城主(東松島市)長江景隆と合戦します。文明3年(1471)にも同じ日付で長江氏と合戦していますが、前述のごとく誤謬であり、こちらが正しいと思われます。

この戦いに磐井郡松川(岩手県一関市東山町)の松川小野寺宮内少輔重胤が討死しています。享年38歳。長男宮内左衛門尉重晴が跡を継ぎます。

応仁・文明年間に入り、葛西氏は大崎氏、和賀氏、長江氏などとあちこち戦端を開くようになりました。

殊に長江氏は当時、伊達氏の馬打ち領、すなわち属国として扱われていましたが、そこへ一応同盟国である葛西氏が攻め込むということは、長江氏が伊達氏からの独立を目論だ故に誅伐された、ということになるのでしょうか。

であれば、地理的にも、また伊達氏縁者でもある日和山葛西満重がこの合戦に何等かのイニシアチブを執ったものと考えられます。そこに末永清春一家がどう関わったのか、興味はあります。


10月14日、伊達成宗が臨済宗東福寺派当午山満勝禅寺の棟別役を免除しています。


満勝寺は初め、伊達氏初代当主朝宗(時長)の菩提寺として福島県伊達郡桑折町に開山開基されましたが、現在は仙台市青葉区柏木に移転しています。
棟別役とは建物ごとに徴収される税金ないし労役ですが、ゼニなら大体10文から100文が相場だったようです。

伊達氏ゆかりの寺院ゆえの措置なのでしょうが、棟別役徴収権は一介の地方大名、国人領主が施行出来る権限ではありません。更に、伊達成宗は自らを“屋形”と号しています。

屋形は公方、御所に次ぐ格式の称号、敬称で、当然伊達成宗ごとき単なる地方の国人が勝手に名乗れるものではありません。棟別役徴収権にしろ、屋形号にしろ、恐らく義父であり、室町幕府足利将軍家から御所号を許されていた大崎探題教兼の認可を得たものと考えられます。


福地首藤氏の系図によれば、桃生郡福地館山館主(石巻市福地)福地首藤山城守俊英の長男将監俊長こと、桃生郡七尾城主(石巻市中野)山内首藤太郎左衛門尉頼通の次男左馬助頼重に俊兼が誕生します。

相馬氏の系図によれば、行方郡(福島県相馬市)の相馬氏13代当主高胤に長男定胤(盛胤一世)が誕生します。母は会津郡(福島県会津若松市)の芦名氏12代当主盛詮の娘。

文明9年(1477)1月18日、主君に謀反した白井長尾景春は、その主山内上杉顕定を上野国(群馬県)へと放逐してしまいます。
所謂長尾景春の乱に巨大な英雄の壁が立ちはだかります。武蔵国豊嶋郡江戸城主(東京都千代田区千代田)扇谷上杉氏家宰太田道灌です。

白井長尾景春の父景信と太田道灌の母が兄妹のため、景春にとって道灌は従兄に当たります。そして共に葛西清重長庶子時清女系子孫、清重12代後裔となります。

折しも太田道灌は今川義忠横死後に小鹿範満を新たな家督に擁立し、未亡人北川殿と竜王丸氏親を亡き者にせんと謀っていましたが、伊勢盛時(北条早雲)又はその父盛定が提案した竜王丸成人迄範満が代行する、との折衷策に同意して、急ぎ従弟の乱を討伐せんと、帰郷したばかりでした。

13に続きます。
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「源姓大衡氏譜・族譜」によれば、7代大崎探題教兼と連年紛争していた黒川氏2代当主隠岐守氏基が文明7年(1475)8月23日、黒川郡大衡郷(大衡村)にて流れ矢に当たり、戦死してしまいます。享年47歳。4弟美濃守顕氏が3代当主を継ぎます。

10月5日、石川郡(福島県)の石川治部少輔宗光が没します。享年不明。妻は相馬胤光の娘で、その長男成光が跡を継ぎます。

相馬胤光とは行方郡(福島県)相馬氏の11代当主相馬胤弘か12代当主相馬重胤のことかと思われます。

文明8年(1476)1月20日、桃生郡七尾城主(石巻市)山内首藤太郎左衛門尉頼通が没します。享年不明。戒名は花輪院殿大白道智大禅定門。菩提寺である石巻市中島の曹洞宗花輪山天星寺に高さ78センチの巨大な位牌が遺されています。

花輪の意味はわかりませんが、天星とか大白(太白=金星)という名は神仙思想を想起させます。宗旨こそ曹洞宗ですが、山内首藤頼通はひょっとすると神仙の世界に傾倒していたのかもしれません。

長男刑部少輔義通が跡を継ぎます。

2月6日、応仁文明の大乱で東軍に属しながら、東軍同士の内輪揉めにより、駿河国(静岡県)の今川義忠が不慮の戦死を遂げます。享年41歳。


ところが、未亡人となった正室北川殿とその長男竜王丸氏親が、室町幕府に楯突く謀反人として討伐される危険性が発生します。

今川一族の小鹿範満は扇谷上杉氏家宰太田資長の後援を受けて流血革命を目論見ますが、堀越公方勢力の東海道進出を望まない室町幕府と、姉と甥の殺害を防ぎたい幕臣伊勢盛時の活躍により、竜王丸成人まで小鹿範満を今川氏家督とする妥協折衷案を成立させます。

戦国時代草創期の英雄太田道灌と北条早雲がここに邂逅したことになるわけですが、伊勢盛時はこの時21歳とまだ若く、父親の盛定の可能性もあります。

元良郡新館館主(気仙沼市本吉町)新館千葉氏の系図、修理大夫重高の譜伝によれば、和賀氏一族で和賀郡岩崎城主(岩手県北上市和賀町)多田右京亮忠氏なる人物が、胆沢郡大林館主(岩手県金ケ崎町)柏山中務少輔清良の3男金崎彦右衛門良建を殺害します。

金崎という苗字から、和賀氏との係争の地であった胆沢郡金ケ崎の統治と防衛を任されていたものと見られ、その死も戦死か暗殺と思われます。

2月17日、柏山清良は多田忠氏に息子の弔い合戦を挑み、これに千葉重高が加勢に訪れ、更に江刺氏、岩渕氏、佐々木氏、及川氏、千葉氏らの同族連合体、いわゆる“党”が援軍に加わり、岩崎城を陥落させます。

そこへ2月23日、稗貫郡(岩手県)の稗貫氏の家臣大迫又太郎信光が和睦を仲介したため、葛西軍は岩崎城を多田忠氏に返します。新館千葉重高は3月10日に凱旋しています。

新館千葉重高は桃生郡寺崎館主(石巻市桃生町)寺崎清運の長兄に当たります。

5月、7代大崎探題教兼と黒川郡の黒川顕氏との紛争に妹婿の宮城郡千代城主(仙台市青葉区川内)国分盛行が仲裁に訪れ、長い争いに決着がつき、両者和睦となります。

この時、新館千葉重高の次弟彦三郎清光が戦死したことが新館千葉氏の系図に記されます。

なお、系図には文明10年(1478)黒川陣に討死、と記されますが、黒川陣という文字を信じるならば文明8年の誤り、年号を信じるならば黒川郡で別の戦争があったか、違う合戦ではないかと思われます。

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薄衣氏の系図によれば文明7年(1475)2月、磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町)薄衣甲斐守樹胤(内匠頭清房)が没します。享年61歳。婿養子美濃守清隆が清胤と改名し、跡を継ぎます。

しかし、これに実子甲斐守常盛、三河守重親の兄弟が異を唱えます。尤も、それが表面化するのはこれより後のことになります。

大原氏、矢作氏の系図によれば、大原肥前守広忠の長男肥後守(飛騨守)信広と気仙郡鶴崎館主(岩手県陸前高田市矢作町)矢作豊前守重信とが気仙郡横田郷(岩手県陸前高田市横田町)で合戦となります。

恐らく大原信広は境目を接する矢作氏を攻撃するに際し、磐井郡大原郷を出発し、回り道して気仙郡世田米郷(岩手県住田町)を通過し、気仙郡横田郷に侵入して矢作重信の背後を突こうとしたと見られますが、矢作重信の勝利となります。
3月20日、大原信広の6子六郎信綱が、恐らく初陣でしょう、戦死を遂げています。享年16歳。
大原信綱は系図によれば次男ですが、「薄衣状」によれば父信広には世田米伊豆守という長庶子があり、正確には6子3男となります。

「B類」によれば4月12日、西舘和泉守重信が没します。享年68歳。

葛西嫡流家正室腹に産まれ、嫡流家の西を護る家柄として、寺池城の葛西太守を補佐して来ました。良く言えば個性的、悪く言えば曲者揃いの9代太守満信の伜達の中では年齢こそ次兄10代太守持信に届かなかったものの、一番最後に没したことになります。末永清連ら庶流との確執、隣国大崎探題との宿命の対決、そしてその隙間から伸長する新勢力の台頭に、生命を費やし、燃やし尽くした生涯でした。

「B類」では近江守信輔、「薄衣状」では信濃守清継と記される長男が跡を継ぎます。
また、次男薄衣清胤にとっては養父に立て続けて、実父も喪ったことになります。

6月、山内上杉氏家宰職になれなかった不満を爆発させた白井長尾景春は、武蔵国大里郡鉢形城(埼玉県寄居町)で挙兵します。

北条早雲をして“知略と武略に優れた勇士”の、反骨気鋭、と言えばカッコはつきますが、イタズラに関東地方を混乱に陥れただけの戦いが始まります。

石畑小野寺氏の系図によれば、磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢越中守信忠の居候として磐井郡前堀館(岩手県一関市山目)に依っていた小野寺四郎左衛門尉秀家が、長男四郎兵衛幸通に家督を譲り出家します。

ところが7月2日、居候先の黒沢信忠の推挙を受け、信忠の異母弟である葛西陸奥守(11代太守葛西朝信)に仕官が叶います。

11代太守朝信の官職名は壱岐守で、陸奥守は戦死した大崎政兼が名乗っていました。

大崎政兼の戦死を期に葛西朝信が名乗ることを許されたのでしょうか。その為には政兼の父7代探題教兼の官途推挙が必要なわけで、案外これも教兼の娘婿・伊達成宗の仲裁案に含まれていたのかもしれません。

小野寺秀家・幸通親子は磐井郡流荘石畑館(岩手県一関市花泉町日形)にて100貫文(約200石)を与えられます。

それから間もない7月20日、小野寺秀家が没します。享年73歳。
細川勝元に矢を放って鎧に刺さったと称する“武勇伝”が功を奏して仕官出来たと解釈出来るし、むしろそれが却って作り話めいてるとされて仕官が遅れたとも考えられます。

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文明5年(1473)6月23日、初代古河公方成氏との対峙の最中、山内上杉氏家宰白井長尾景信が没します。享年61歳。長男であり、葛西清重長庶子時清女系子孫、清重の12代後裔に当たる景春が跡を継ぎますが、家宰職は継承されず、憤懣を覚えます。

8月6日、室町幕府8代将軍足利義政は、石川郡(福島県)の石川宗光に対し、伊達成宗と共に北国征伐、すなわち古河公方成氏を討て、と命令しています。

伊達氏宗の娘を母に持ち、成宗とは従兄弟に当たる石川宗光は、伯父持宗から一字拝領しています。

12月19日、室町幕府9代将軍に足利義政の次男義尚が就任します。

足利義尚はこの時9歳。元服は将軍就任直前に済ませていました。

ここで、足利義尚から偏諱を受けた東北の有力大名を挙げてみましょう。

まず、葛西氏からは11代太守朝信の長男尚信。宝徳3年(1451)産まれの23歳。

伊達氏では成宗の長男尚宗。享徳2年(1453)産まれの21歳。

大崎氏は7代探題教兼の嫡孫義兼。年齢不詳。流石大崎探題だけあって上の字に加え、包平(かねひら)の太刀を下賜されています。

包平は平安時代後期の備前国(岡山県)出身の、古備前派初期の刀工で、史上屈指の名工として知られます。

大崎義兼はどうだかわかりませんが、葛西尚信と伊達尚宗に関しては元服時に何等かの諱を名乗り、しかる後一字拝領したものと見られます。

岩渕氏の系図によればこの年は、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕近江守高経が没します。享年65歳。

長男左衛門尉敏経は寛正2年(1461)4月17日、出羽国山本郡高寺郷の合戦(秋田県大仙市協和峰吉川)で討死したため(第十三章76)、長孫内膳正経世25歳が跡を継ぎます。
この時岩渕経世には叔父の兵部丞経奉39歳が補佐したと見られます。後に「薄衣状」に記される“藤沢の伯父甥”がこれに相当します。

因みに敏経・経奉兄弟の妹が末永清連の同母弟葛西新九郎信有の妻となっています。

中里熊谷氏の系図によれば、志田郡新堀館主(大崎市古川)新堀熊谷長門守興直に長男政直が誕生しています。
またこの年は、駿河国(静岡県)の今川義忠と伊勢盛定の娘北川殿との間に長男氏親が誕生しています。いわゆる北条早雲の姉甥に当たります。

中館熊谷氏、大原家臣熊谷氏の系図によれば文明6年(1474)3月、元良郡中館館主(気仙沼市月立)熊谷肥後守直行の4男丹波守直氏は、父と仲違いして実家を家出、磐井郡山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原肥前守広忠の許に居候し、磐井郡大原郷内野(岩手県一関市大東町大原)50町(約50ヘクタール)を与えられ、家臣となります。

3月21日、出羽国最上郡山形城主(山形県山形市)5代羽州探題最上右京大夫義春が没します。享年不明。3弟右京大夫義秋が6代探題を継ぎます。

4月、応仁文明の大乱双方の総大将を引き継いだ東軍細川政元と西軍山名政豊が講和します。しかし、まだ戦いを続けたい好戦派連中によって合戦は継続されます。

千厩金氏の系図によればこの年は、磐井郡千厩茶臼館主(岩手県一関市千厩町千厩)金野右馬允国定の長男豊前守国家に長男是国が誕生します。
是国は後に是鹿と名を改めますが、その驚きのエピソードは後述します。

飯倉熊谷氏の系図によれば、磐井郡飯倉館主(岩手県一関市花泉町金沢)飯倉熊谷越中守直継が没します。享年72歳。長男越中守直弘が跡を継ぎます。

笹町氏の系図によれば、磐井郡奥玉立花館(岩手県一関市千厩町奥玉)を築いた笹町大膳大夫盛実の子孫左衛門盛直が磐井郡矢越郷(岩手県一関市室根町矢越)に笹町午舞館を築き、領主となります。

「笠井系図」によれば、笠井源五郎盛春の長男又四郎貞恒に長男弘盛が誕生します。母は鷲頭氏(不明)。

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結果的には伊達氏のDNAが葛西氏のそれと交わることはありませんでした。現代における葛西氏と大崎氏との存在感の違いを端的に述べればそういうことです。大崎氏のDNAが伊達氏に流れた結果、仙台市青葉区に大崎八幡宮が建っているのです。

話が逸れましたが、日和山葛西満重と伊達成宗の通婚を葛西家中はどのように見ていたのでしょう。庶流の分際で、と思われていたのか、別に他家から養子なぞ好きにすればいい、と放任されていたのか、将又危険視されていたのか、はっきりしません。

結果から見ればこの縁組は、葛西嫡流を分家が乗っ取る簒奪革命の切っ掛けとなりました。そのことをこの当時、誰が想像し、予測し得たでしょう。



「門崎布佐」によれば文明4年(1472)4月15日、末永八郎左衛門清春戒名蓮黄が没したと記します。しかし、末永清春は文明10年(1478)8月20日、文明14年(1482)5月2日と、似たような命日が3種類もあり、しかもどれでも無いということが奇しくも同時記録から判明しています。



5月、応仁文明の大乱の西軍総大将・山名宗全が東軍との和平を試みますが、一部の反対に遭い、衝動的に切腹に及んだものの、周囲に止められたらしい、という噂が流布します。

11月、第3次伊達国分交争が勃発。3たび決着つかず、結局両者は和睦します。

津谷川菅原氏の系図によればこの年は、磐井郡津谷川館主(岩手県一関市室根町)で9代太守葛西満信に近仕した津谷川菅原宮内朝光が没します。享年62歳。長兄大膳長家の4男対馬守朝房が養嗣子となって跡を継ぎます。

ちなみに津谷川菅原朝光の妻は中津山日向守重経の娘とあり、確証はありませんが桃生郡太田館山館主(石巻市桃生町太田)千田讃岐守重綱のことでしょうか。

中村氏の系図によれば、磐井郡流荘中村須崎館主(岩手県一関市花泉町花泉)中村相模守信定の養嗣子淡路守信清に長男信氏が誕生します。

沼倉氏の系図によれば、大崎家臣で栗原郡三迫白岩館主(栗原市栗駒沼倉)沼倉駿河守家信が没します。享年67歳。養嗣子で4代大崎探題満持の3弟高清水持家の3男上総介家春が跡を継ぎます。

大崎満持も高清水持家も生年不明ですが、次男5代探題満詮の誕生年が西暦1386年であるため、西暦1406年産まれの沼倉家信とは世代が合致します。
ちなみに7代探題教兼から見て沼倉家春は叔父に当たります。

小野寺氏の系図によれば、出羽国雄勝郡稲庭城主(秋田県湯沢市)小野寺四郎左衛門尉秀家は、京都在番の折、応仁文明の大乱に遭遇し、西軍に所属。応仁元年(1467)3月20日、四条河原の合戦において東軍総大将・細川勝元に向けて矢を射ます。勝元が鎧に刺さった矢に“秀家”の名前を認めると、小野寺秀家は所領没収の憂き目に遭ってしまいます。

何だか源頼朝に矢を射た山内首藤経俊みたいなエピソードだ。しかも応仁文明の大乱は5月勃発だから時期も合わねーしで、眉唾もいいところなのですが、文明5年(1473)3月、長妹が黒沢治部少輔重満の妻となっている縁を頼り、磐井郡前堀館(岩手県一関市山目)に寄食します。

黒沢重満とは黒沢氏の系図では11代太守葛西朝信の長庶兄で磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢越中守信忠のことではないかと見られます。信忠には養父式部少輔こと伯耆守守忠の娘以外にも小野寺氏から妻を迎えていたことになります。

南部氏の系図によれば3月5日、糠部郡三戸城主(青森県三戸町)南部氏18代当主大膳大夫時政が没します。享年65歳。長男彦次郎通経が19代当主を継ぎます。

応仁文明の大乱にある一定のピリオドが打たれます。
3月18日、老齢による体力低下に伴い、持病の悪化、一説には衝動切腹の際の傷が悪化したことにより、西軍の総大将・山名宗全持豊が没します。享年70歳。長男教豊が父に先立ち早世していたので、その長孫政豊を養嗣子に宗家を継ぎます。

5月11日には東軍の総大将・細川勝元が没します。享年44歳。病死とされていますが、西軍による暗殺とも云われます。長男政元が跡を継ぎます。

東西双方の総大将が没したことにより、大乱は厭戦気分となりますが、諦め切れない好戦派どもによって合戦はだらだら続きました。

9に続きます。

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