大協造船専務となってよりの末永貞蔵はその地位もさることながら、名目上の社長四野見松次郎が市会議員である故か、造船業界を含む財界、政界との関わり、付き合いが発生していました。
選挙になると応援として日に影に協力することもありました。婆ちゃんもその手伝いに出ることもしばしばで、やがて石巻政界の表と裏を端で見聞きし、知るようになり、後年、アイツは恩知らずだ、アイツは親不孝者だ、アイツはオンナにだらしない、とまぁ、イシノマキ政治家どもにまつわる噂の真相を近所の有閑マダム達と喋くり合っていました。つぅか、石巻の政治家ってどんな連中なんだよって。
新年になると母方実家末永家には大勢のイシノマキ財界の大物小物、政界の有象無象が新春の祝賀に訪れて、その対応にてんやわんや。子供達は一室に押し込められて、毎年窮屈でつまらない新年を迎える破目になります。
末永家には貞蔵が業務日誌、ないし備忘録として記したと思われる日記帳が一冊だけ残っています。記した時期は7月2日月曜日、7月8日日曜日の記述から昭和37年(1962)と判明します。この時末永貞蔵は48歳。
貞蔵の直筆はミミズが走ったようないわゆる悪字で、解読不能な文字が散見され、文意が伝わらない部分もありますが、主には業務に関する事柄で、プライベートなことは殆ど触れられていません。
そこには、船体が破損した巻網船の修理の段取り、見積り額の比較、時給の取り決め、甲板の下に組む梁材(ビーム材)に使うケヤキや栗といった材木の仕入れとその交渉、四野見松次郎社長の会社訪問の対応等が記されています。
7月8日、休日出勤した貞蔵はある重大な会議に出席します。大山造船時代の債務債権委員会です。
会社のカネを流用した三浦某経理係員を出席させ、他にも流用の下手人だった高橋某、加藤貞吉、木村○雄(一字不明)といった連中の流用状況を調査し、その結果によって督促方法を決めるという内容でした。
また、大協造船はその立地柄、中瀬最南端にある作田島船魂稲荷神社の信仰下にあり、7月10日、貞蔵は夏祭り行事についての総代会に出席し、神輿や寄付の件で取り決めしています。
また、牡鹿半島沖で座礁した漁船の緊急の修理依頼が舞い込み、やっとこさ鮎川(牡鹿郡牡鹿町、石巻市)を経て中瀬に廻船し、社員には夜間業務になることを伝えた上で協力を要望し、その時間帯や休憩、賃上げ等を取り決めています。
この渡辺操業部所属第15八竜丸の船主である渡辺諭が大協造船を訪れ、従業員らに、工員から事務員に至るまで、操業部より報償金を支給したいと貞蔵に申し出ますが、貞蔵は悪しき先例になるからと固辞しますが、余りの強い申し出に折れて受諾しています。
7月15日日曜日、貞蔵は石巻小学校の父親学級に参加しています。次男である叔父御はこの時11歳、小学五年生。
第15八竜丸船主渡辺諭は修理作業の進捗が急ピッチなのに驚き、祝い酒を会社に届けています。随分と太っ腹な船主さんだ。
船体修理は予定より早く終了し、従業員には予定通り報償金が振る舞われます。
また、来年新規採用する女子事務員の面接に来た中学三年生と面談しています。
当時は中卒で社会に出ることも珍しくなかったので、娘、母と同い年の応募者達に貞蔵はどのような思いで臨んだのでしょう。
母によれば、新しい船の進水式ともなれば船主以下関係者が集い、船首に長い紐を付けてその先に酒瓶を結わえ、それを大きく振り子のように飛ばした反動で酒瓶を割り、居並ぶ参列者らが拍手喝采するのだそうです。
高速道路の開通式や記念館、文化ホールの開館式に樽酒の蓋をトンカチで叩き割るそれに似てるでしょうか。
その酒瓶を投げる役は船主の娘とか、絵になる人物、今で言うインスタ映えする人物が担うのですが、上手く船首に当たらず、酒瓶が割れないと嘲笑が沸き起こるんだそうです。