2019年10月

伯父が云うカブ坂を道なりに登ると、大街道が鰐山を登って来た所で交差点となります。この交差点を東へ、石巻小学校、八ツ沢方面に行けば、羽黒山の桜坂、見事な桜並木の途中に石巻女子高が立地していました。

この交差点を南に直進すると母方実家末永家に入る路地や法務局、営林署を脇に見ながら石巻高校へ、更に日和山方面に折れれば市立女子高へと続きます。

石巻女子高は後に大街道に移転し、共学化して石巻好文館高校と名を改め、跡地は石巻図書館になります。

この桜坂の名勝だった桜並木は、15代16代市長平塚真治郎政権時代(1984~1992)に道路を拡張するという名目で、周囲の反対を圧し切り、伐採してしまいました。しかも並木道だけを広げた中途半端な工事だったため、結局不便さは解消されませんでした。

この時期は新設の文化センターや大学の立地条件の悪さに加え、人口が停滞した上に、この頃宅地行政に力を入れて県下第3の都市に昇り詰めた泉市に人口で追い越されるなど、ハコモノ行政さえろくすっぽ満足に出来ない失政期でした。石巻市は後に県下第2の都市に返り咲きますが、それは都市として石巻が発展したからではなく、泉市が仙台市に合併して泉区となったからという偶然の賜物だったのですから情けないものです。

さて、昭和33年(1958)5月から昭和47年(1972)11月迄の4期14年という石巻市史上最も長い政権を築いた千葉堅弥市政は、それまで乱闘や警察沙汰になる程の混乱と政争に明け暮れ、経済に成功しても政治に失敗したと言われる石巻市史でも別けても安定し、発展した時代だったようです。



殊に母方祖父末永貞蔵がいた石巻造船業界は大型鉄工船の時代に入っていました。

この頃の石巻の景気の良さを現すエピソードとして、大量の魚を荷台に積んだトラックが曲がる急カーブに、婆ちゃんと母、叔父御らが頃合いを見計らって立つのです。そうすると魚満載のトラックが急カーブを曲がる際に遠心力でぼとぼと魚を落っことして走り去って行きます。

一家はそれを拾って今夜の晩御飯にするというのです。

尤も、こうした類いのエピソードは裕福だった時代の石巻の姿をノスタルジックに修飾したものであることは論を待ちません。そこら辺に落ち零れた食材を拾って飯の種にする話は仙台藩の台所だった時代から言われ続けた話で、それゆえにお零れを貰って働こうとしない遊産階級いや、乞食が多かったという尾鰭も付いて回るわけですから。

末永家はこの頃、増築をします。また、業者の口車に乗って母の部屋の壁紙を黄色から茶色にしてしまいます。

“何!?このマンクソ(馬の糞)色の壁は!?”と母はぶんむくれましたが最早手遅れ。その後、癇癪を起こす度にハサミで壁を傷付け、そこから黄色い色が現れます。

ある拝み屋が、この家の相は主が早死にする相だと鑑定しましたが、迷信を信じない祖父は一切聞く耳を持ちませんでした。

祖父の態度は何等間違ってはいませんが、奇しくもその拝み屋の言う通りになってしまったことは悔恨の至りであったかと、不肖の外孫は邪推するのです。

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当時の母方実家末永家の庭にはマリという毛むくじゃらの雑種の犬が飼われていて、特に母と叔父御が面倒を見ていましたが、祖父貞蔵は理由はわかりませんが大の犬嫌いで、マリの存在を鬱陶しがっていました。

ある時、マリが庭から茶の間に上がりこんで貞蔵に愛想を振り撒こうとすると、貞蔵は近くにあった焼け火箸でマリを追い払ってしまいます。

その一部始終を見ていた叔父御は、本気で突き殺そうとしたんじゃないか、と述懐しています。

この頃の末永家の茶の間にもようやくテレビが入り込みます。

貞蔵は少なくとも食事など一家団欒の時はテレビは消すよう厳命しています。テレビを見たい子供達はテレビを見たいが為に急いで食べる訳ですが、結局このことが家族が語り合う関係を深め合い、やがて外での対人関係構築へと繋がっていく土台となったように思います。

やがてテレビが家族団欒の場にまで浸透進出すると、それが恰も家庭環境の主体となって行くのですが、末永家の子供達は成人し、親となってよりは祖父貞蔵のようにテレビを制限しなかったため、親子間の語らいは少なくなり、どの家族も時折勃発する家庭不和に悩まされるようになります。

末永家の朝はあるじ貞蔵が起きる前に婆ちゃんが起きることで始まります。夫より早く起きる、という習慣を婆ちゃんは祖父との結婚生活において一度として破ってはいません。

貞蔵が早く出社すると、今度は子供達が起きて朝食をとる順番です。

石巻高校の生徒、所謂鰐陵健児の典型だった伯父は、やたら頭でっかちの理論尽くし、議論好きという、当時のインテリ学生を地で引く生徒の1人でした。都大路の大学生が学生運動をするのに触発されて田舎の高校生どもがその真似事をするのですから或る意味ませてるというか、小生意気というのか、いわゆる“セキコウセイ”という人種は、憂国の志士を気取って市内を闊歩していたのです。

ともあれ、ませてるのは頭だけではありません。伯父は“遊ぶならシジョ(石巻市立女子高)、結婚するならセキジョ(石巻女子高)”と放言し、母をあんぐりさせています。

また、石巻駅を出て穀町と立町を結ぶ蛇田街道を横切り、鰐山を登って行く急坂を“カブ坂”と勝手に命名していました。女子高生の細脚も、登っている内に大根足から蕪足になるから、というのが命名の由来です。

陸上選手を彷彿とさせるカモシカのような脚になるという発想は、インテリ気取りの男子高の生徒には無理だったようです。

末永家の立地は鰐山の坂道の途中に囲繞されるように建っていて、窓から通行人を見上げることが出来るロケーションになっていましたが、伯父は朝食の際には、その家の前の坂を歩く女子高生を観察出来る位置に布陣し、毎朝蕪だか大根だかの品評論説をしていました。

余りの間抜けさに叔父御が母に話しかけると、母は相手にしないようたしなめます。婆ちゃんはこの長男にはいささか甘かったらしく、煩く言わなかったようです。

その一方で、成長期に入ってそれなりに大人びた発言をするようになった母は、自然に伯父と度々衝突するようになります。大概伯父が母を力ずくでやり込めて勝利するパターンなのですが、余りのことに貞蔵が激怒し、“男の癖に女に手を上げるとはッ!”と叱責することもありましたが、力に物を言わせる第一長男の小皇帝的専制は暫く続きました。

飼い犬であったマリは10数年の長寿に恵まれましたが、老齢となったある日、忽然と姿を消してしまいます。

ある日、縁側の下に蹲るようにして命終していたマリが見つかります。

犬はその最期、飼い主に迷惑をかけないよう、人知れず死ぬのだ、と母は言うのですが、犬が人知れぬ場所で亡くなるのは野性的な別の理由からなのだそうです。

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石巻市中瀬に大山造船という会社があり、社長は2代目で大山惣助という人物。それ以前には太平洋造船鉄工の中瀬造船工場長の任に就いていましたので、平山時永や転職前の貞蔵とは元同僚ということになるのでしょう。

恐らく太平洋造船鉄工が合併し、日魯造船と社名変更するに当たって、家業を継ぐことにしたのでしょうが、この人物、技術者としては有能でも、経営者としては凡庸というのか、放漫だったというか、経理係長三浦某らの不正を見抜けず、経営が傾いてしまいます。

これに大株主の怒ること怒ること。ちなみにこの大株主、四野見松次郎といって旧荻浜村出身者にして牡鹿半島の大網元であり、市会議員も務め、イシノマキの水産・漁業界を表裏牛耳る超大物だったのです。

四野見松次郎は大山惣助に対し、“鈴木鉄工所の営業次長に末永貞蔵という人物がいるから次期経営責任者として招聘して来い!”と、三顧の礼を強く命じます。大山惣助の自宅が南鰐山(泉町)から程近い大手町(石巻高校がある辺り)ということも手伝ったのでしょう。

鈴木鉄工所営業次長時代の末永貞蔵は、2か月無事故を達成すれば褒賞金をはずんで会社内の士気を鼓舞するなど、優れた経営手腕でイシノマキ造船業界では知られた人物だったようです。貞蔵と四野見松次郎の面識については不明ですが、大山惣助の元同僚ということも加味されたかも知れません。

降って湧いた立身出世話に末永貞蔵は驚き、また経営責任者として辣腕を振るいたいとも思うのですが、やはり鈴木鉄工所にも義理はあるため、容易に諾とは言えません。

乗るか反るか、義理と野心の狭間に貞蔵が悩む一方で、大山惣助社長、降格したので部長(最終的に常務)ですが、の母方実家末永家詣でが繰り返されます。

敵もさるもの、といいますか、大山惣助は将を得んと欲するに、まず馬を、の譬えよろしく、婆ちゃんを説得にかかりますが、そこは婆ちゃん、貞蔵の意見に従うとして回答を避けています。

三顧の礼を繰り返す大山惣助は取り敢えず、末永家の茶の間に通され、掘り炬燵に足を温めるのですが、足臭で臭気が熱と共に炬燵の中に充満し、相席した子供達の顰蹙をくらいます。これには大山惣助もいたたまれなかったようで、すごすご退散しています。

そこへ鈴木鉄工所社長鈴木良雄が鶴の一声を出します。

ウチの末永次長がスカウトされたことは、我が社にとっても名誉なこと、末永君、是非行きたまえ、と。

こうして末永貞蔵は永年世話になった鈴木鉄工所を、僚友達と別れを惜しみながら辞去し、大山造船、社名変更して大協造船の専務として迎えられます。

さて、大協造船ですが、前述の如く元社長が部長に降格し、社長は大株主でもある四野見松次郎が就任するのですが、四野見松次郎は経営にタッチしません。

そこに貞蔵が専務の座に就いたということは、事実上の社長として会社を切り盛りすることになったのです。

これには長姉阿部ゑい、次姉平山みつも大層喜び、これで貞蔵も父泰蔵と同じ心証持ち(経営主、社長)になった、父親を越えた、と述懐しています。

さて、大協造船専務となった末永貞蔵には傾いた社運の再建という超重要課題がその双肩に重くのし掛かっていました。

末永専務として最初の仕事は、旧大山造船において不正を働いた輩の粛清です。こいづら揃いも揃って馘にしてやる!と息巻いていました。

ここら辺は貞蔵が割りとアメリカ的な思考の経営者だったことがわかります。

しかし、そこへ婆ちゃんが、その人達にも養うべき家族や教育盛りの子供達がいるんだから、ここは大目に見て恩義を与えて情をかけてやるべき、とアドバイスします。

アメリカナイズされた貞蔵の方針に対し、婆ちゃんは些か日本人的な考え方の持ち主だったようです。結局、貞蔵は婆ちゃんの意見を聞き容れ、超法規的に不正連中を宥免することにしました。

不肖の孫が後々考えるに、やはり罪は罪としてきっちり罰するべきだったように思います。特にこの経理係長が後に母に対した態度を聞くにつけ、そう思うのです。後述します。

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↑登米郡善王寺館跡北側

本年令和元年(2019)10月6日は、土芥の家臣末永能登守、筑後守兄弟が、同志と計らい、寇讎の主君葛西武蔵守宗清を陰謀もて弑逆せんとするも、露顕して失敗に終わってより丁度520年目の節目に当たります。

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↑善王寺館跡を縦貫する道路、東側

事件の前なのか後なのかは不明ですが、葛西家中は主君と家臣が分裂して党派争いをして混乱していました。

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↑善王寺館跡を縦貫する道路の西側は竹薮になっている。

策士末永兄弟は剃髪して謝罪するという突飛なパフォーマンスで葛西宗清の憎悪と殺意を挫き、死刑を免れます。このことは主君に謀叛を起こすも敢えなく倒れた祖父末永安芸守清連を優に越える見事な瞬間でしたが、それは同時に、何が何でも生き延びなければならない必要性に駆られることになった瞬間でもありました。


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↑館跡から南面を望む

そこへ桃生郡東部の国人領主山内首藤貞通なる壮齢にして威力を募らせる人物が颯爽と登場し、密かに末永一派と好みを通じます。かくして末永能登守をはじめとする反葛西宗清派がしぶとく生き延びるシステム、登米桃生深谷3郡一揆が成立し、10数年の長きに渡って或いは内戦、或いは対外戦争、また或いは独立戦争を戦い抜くことになります。

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↑善王寺館跡南側から

伊達家からの養子で、分家から本家を乗っ取り、惣梁と呼ばれた葛西宗清は、ともすれば脆弱な立場を克服せんがため、抵抗勢力を逐次追討していく過程の中で、追討に協力した味方を明日には敵にして滅ぼす、という恰も使い捨てのようなやり方で粛清鎮圧し、末永能登守もその過程の中で謀叛人として片付けられたのではないかと見ています。

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↑末永能登守の祖父清連の居城吉田大沢館跡

そんな権謀術数の葛西宗清も、最期は甥である伊達稙宗に敗れ、遥か異郷の地に没し、人知れぬ謎の人物へと隠蔽されてしまうのですから、因果応報とは正に冷徹なものです。

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↑桃生郡牛田如来館跡、に立つ看板、今年作ったようだ。こういうのを登米市内にも作って欲しい

結局謀叛に至った末永能登守の真意は何がどうだったのか、わからないから興味は尽きないのです。

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昭和34年(1959)1月、石巻高校が再び火災に遭います。近所に住む教師や生徒らが火の手が上がったことを発見するや、すぐさま駆け付けて鎮火に努めます。その際、図書館(学生用校内図書館としては全国初といわれる)内に安置されていた高橋英吉(1911~42)作の観音像の一部が欠けてしまいます。2度の火災の原因は結局不明。

母方祖父末永貞蔵の次兄で産まれてすぐ早世した恵治郎と同い年で、同じ石巻市湊に誕生した高橋英吉の彫刻を叔父御や母方従弟と共に間近に見る機会がありましたが、本当に生き生きしていて、今にも動き出すんじゃないかと思うほどでした。その持ち物は鉛筆ほどの太さの木の棒に小さな刃を付けただけの簡素な彫刻刀で、それで色んなものを彫ったんだそうです。

4月、牡鹿郡稲井村が町制施行します。

5月、牡鹿郡渡波町が石巻市に合併されます。このことで牡鹿郡の浜方が北上川東岸から長浜、万石浦を経て田代島まで石巻で一枚に続きます。この年、渡波町役場の出張所長に宇田川町の末永英吉なる人物が就任しています。就任わずかながら合併によって退任したものでしょうか。

7月25日、渡波塩田の廃止が決まります。



昭和35年(1960)4月、石巻中学校を卒業した伯父が石巻高校に入学します。また、石巻小学校を卒業した母が石巻中学校に入学します。

中学校時代の母はソフトボール部に所属していましたが、顧問の女性教師の指導がきつく、途中退部しています。

この女性教師は旧河南町出身で、母とその同級生達をして“電気ババア”と渾名され、婆ちゃんも、“随分どきがねぇおなごの先生でがすごど(随分と気の強い女性教師ですこと)”と呆れる程でした。石巻高校で倫理を教え、ウェイトリフティング部の顧問をし、“教祖”と渾名された教師と職場結婚していましたが、病気で早くに没しています。ちなみに母は“教祖”先生については、“何だかオンナ癖の悪い男”と酷評しています。

祖父貞蔵も野球好きだったこともあって父娘は部活の話で盛り上がることもありましたが、なかなかボールをバットに当てられない娘に祖父は、“何だっけや、馬のふぐりよりでっけな玉当でらぃねってがゃ?(何だ、馬のふぐりより大きなボールなのに当てられないのかぃ?)”とからかいます。

そんな祖父の発言に母はさほども動揺することなく、“え?馬のふぐりってそんなでっけぇのすか?(え?馬のふぐりってそんなに大きいの?)”と聞き返すのですが、そんなやり取りを聞いた伯父に祖父ごと叱られるんだとか。

当時の石巻中学校は学区内がそれなりに裕福な家庭が多く、基本的には坊っちゃん嬢ちゃん学校であり、くしゃみを我慢したら放屁した変わり者がクラス内で笑い者になったり、“努”の字の覚え方を、“女のまたに力”と国語教師が教えて、テストの際男子は皆正解したとか、そんな爆笑エピソードの中で母は日々を過ごしたそうです。

この国語教師はその後石巻高校に転任し、おいらの恩師の一人となります。前述の前谷地分校云々の人物で、石巻高校に留まり続け、定年まで務めています。

また、歴史の授業の際にはソビエト軍の日本人に対する鬼畜の如き所業を教えられ、落涙し、それから大のソビエト嫌い、ロシア侮蔑となっています。

そういう学校環境でしたから、不良はさほどもいなかったようで、近隣の門脇中学校や山下中学校は収入の低い家庭や職人の家庭が多かったこともあり、ヤンキー率は高かったんだとか。

一応お嬢様育ちだった母はそんな不良化する同級生が理解出来なかったらしく、何をそんなにグレるのかしらねー、と超絶特権階級目線で疑念を呈しています。

さて、末永貞蔵の経営者としての素顔について、伝わるものは僅かです。婆ちゃんや母の兄弟にその理念、哲学を伝えたり、学んだりする場面が余りにも少な過ぎたし、貞蔵自身にそうした時間が与えられなかった故です。

121に続きます。

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