2019年09月

順風満帆に立身出世していく母方祖父末永貞蔵ですが、多忙になっても家庭内のことに手抜きはしません。

上京した際に訛りでかなり苦労した経験から、家庭内では標準語で話すよう努めます。

婆ちゃんがコテコテの前谷地弁で話すと貞蔵は、かくかくしかじかな訳で子供達の前では特に標準語で話して欲しい、と諭すように説いています。

また、子供達にテーブルマナーを教えるといった試みもなされたようです。いつ社交界に出しても恥ずかしくないようにとの配慮からでしょう。

教育熱心な一方で家父長としての威厳も保っており、専業主婦である婆ちゃんは貞蔵より必ず早く起きることが義務付けられていました。勿論、貞蔵が家族の誰よりも率先し、主導し、責任を果たしたことは言う迄もありません。

そんな貞蔵ですが頭痛のタネとなる2人の男兄弟がいました。

5弟荘蔵と異父兄阿部松吉です。

ソンズ叔父さんこと末弟荘蔵は、役者の道を挫折した後、職を転々とし、ある時は石巻市湊で質屋を営む荘蔵の叔母・榧野マサヨのところで手伝い兼修業をしたこともあったようですが、やがて全国をドサ回りする旅芸人のようなことをしたりとか、要するに風天の、今で言うプータローにしか過ぎませんでしたが、当時は遊佐屋という宣伝屋(チンドン屋?)に籍を置いて切符切りなどをしていましたが、交際相手に捨てられて自棄糞になっていたようです。

鰐山の母方実家末永家には、たまに栗団子をお土産に持って来ては3兄貞蔵にカネを無心(というよりタカり)にやって来ていました。

貞蔵は気前良く荘蔵にカネをやるのですが、子供達がそんな真似をすれば烈火の如く怒る癖に、何故道楽者の弟なんかにくれてしまうのかと婆ちゃんが詰ると、貞蔵は荘蔵の哀れな生い立ちを語り、兄として何もしてやれなかったことを後悔するが故にこうして融通してやってるんだ、なのでどうか許してやってくれないか、と懇願するのです。

これにはさしもの婆ちゃんも舌の矛を収めるのですが、内心は納得しません。

荘蔵と伯父とは馬が合ったようで、荘蔵が伯父を連れて映画を見に行ったりしていたようです。

そんな伯父が小学6年の昭和31年(1956)の夏に、荘蔵は病気か怪我か不明ですが入院し、すぐに退院しています。

荘蔵はだらしない性格ながら、末っ子ゆえに母性本能をくすぐる性質だったか、とかく人望に恵まれていました。交際相手にフラれた荘蔵はその持ち前の魅力ですぐに新しい相手を見つけ、結婚しています。

結婚後、荘蔵は玉造郡鳴子町(大崎市鳴子温泉)にドサ回りしていた際、誰がしかの伝手で湧泉地を購入し、有楽荘という温泉旅館兼ディスコを夫婦で営みます。

有楽荘という名は、荘蔵が若い頃思い出の地だった東京都千代田区有楽町に由来するのサと、説明するのですが、婆ちゃんに言わせれば、“そぃなのはデダラメでがぃんすぺァ(そのような話は出鱈目でしょうよ)”と切って捨てています。

織田有楽斎長益も勿論違うでしょうし、おいらも由来について色々考えてみましたが、当然荘蔵の真意はわかりませんでした。

鳴子温泉旅館兼ディスコ有楽荘は元号が変わる瞬間まで経営が続いていましたが、荘蔵没後、一人娘の結婚とその夫の実家がある山形県最上郡に移ったことにより、人手に渡しています。

経営は山あり谷ありだったようですが、周囲に助けられながら生涯宿屋の大将であり続けられたことは、やはりその持って産まれた人望、人徳の故でしょうか。

こうして見ると末永泰蔵の子供達は、長兄貞吉は不世出の天稟の才能を、3男貞蔵は経営者としての才能を、そして5男荘蔵は魅力と娯楽の才能を、それぞれ受け継いで、それは逆に、3人合わせて父一人分に相当していたことになるでしょうか。

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昭和28年(1953)7月27日、朝鮮戦争が38度線をもって休戦となります。

昭和29年(1954)1月30日、末永正隆が渡波町教育委員に就任します。



4月、母が石巻小学校に入学します。

小学生時代の母は明るく闊達で男女分け隔て無く顔が広く、所謂お転婆娘だったようです。

ある日、オデキが出来た日などは男子に馬鹿にされて喧嘩となり、担任教師の配慮で学校を休んだり、ランドセルの鍵を閉めなかった為に、靴を取ろうとして屈んだ刹那、中の道具が滝のように落ちて、以後トラウマとなって気を付けるようになった等のエピソードがあります。

クラスで雪合戦をした時のこと。悪質な同級生男子が雪の中に石を詰めて投げるという反則をします。運悪くそれが母の片眼に当たり、視力が落ちてしまいます。

何だか柳生十兵衛三厳のエピソードみたいですが、それ以後、黒板の字を見る際、もう片方で見る癖がついてしまい、結果、酷使されたもう片方も近眼となり、結果、眼鏡をかけることになります。

一方、貞潔な婆ちゃんはお転婆よりも箱入り娘にしたかったようで、そのことで母娘がぶつかり合う場面もあったようです。

当時は蟯虫や回虫といった寄生虫が人体に巣食っていることは日常茶飯事で、母も回虫を体から引き摺りだしては木の枝に掛け晒して、百舌鳥の如くに見世物にしていましたが、婆ちゃんはそういうのが大の苦手で、よく母を叱りつけていたようです。

エディプスコンプレックスではないのでしょうが、母と娘はぶつかり合うことで女を競い、女を磨いていくのでしょうか。結局母は妹に対して親子というよりは女対女で鎬を削っていましたから。

平山時永・みつ夫妻の養女(時永次姉マサヨ次女)と母は、昭和23年(1948)4月13日から昭和24年(1949)12月25日にかけて、石巻市吉野町1丁目の末永貞蔵一家と同居していたと見られる時期からの付き合いで、養女がよちよち歩きの母は本当に可愛いかったと誉めれば、母もまたこの養女に関しては絶世の美女と絶賛せしめる関係にありました。

婆ちゃんとも人生を相談する間柄であり、養女からの相談を受けながら解決してやれず、後悔したこともあったようです。

そんな養女23歳が5月4日、結婚します。昭和30年(1955)に長男、昭和36年(1961)に長女が誕生しますが、養父母時永・みつが金銭的打算で決めたいわゆる政略結婚であり、結局幸福になることは無いまま、昭和49年(1974)7月26日、離婚しています。



昭和30年(1955)1月、牡鹿郡蛇田村が石巻市に合併されます。

3月、牡鹿郡鮎川町と大原村が合併し、牡鹿町が成立します。

4月、牡鹿郡荻浜村が石巻市に飛び地合併されます。

5月、7代石巻市長に山内習が就任します。



この頃、太平洋造船鉄工の主任から課長に昇格していた母方祖父末永貞蔵が、鈴木鉄工所社長鈴木良雄の引き抜きを受け、営業課長の役職に就きます。

太平洋造船鉄工はこの後、合併による社名変更で日魯造船となり、日の出の勢いで業績を挙げた、と婆ちゃんは語ります。

鈴木鉄工所は社長鈴木良雄の元、経営部門と製造部門に分かれ、製造部門は福島県出身で東北大工学部卒の只野氏が部長を務め、経営部門は社長の息子で後継者であった鈴木良一が部長を務めていました。マネジメント畑で市内の造船業界では知られた存在となっていた祖父は、やがて次長に昇進し、次期社長の補佐役を務めます。

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ダグラス・マッカーサーはまた、“アメリカは戦う相手を間違った。真の敵は日本ではなく、ソビエトと中国であった。ソビエトと中国に朝鮮台湾を落とされれば日本が危うく、東アジアにおけるアメリカの橋頭堡を失い、アメリカ西海岸まで防衛線を後退しかねない。中国を海と空で封じ込め、共産党政権を倒さねば将来のアメリカの安全を脅かすであろう。”

“GHQが史上類を見ない成功を治めたとは思ってない、勝利者が敗戦国を占領する考え方が良い結果を出すとは思わない。日本は例外なのだ。”

“戦争終結後は懲罰的意味合いや占領国の特定人物に対する恨みを持ち込むべきではない。”

とまぁ、失言暴言のオンパレードって、これ、今のアメリカの世界中での状況そのまんまじゃんってね。正にマッカーサーの言う通りになっています。

“核兵器は虐殺、残酷極まるものだ。”

朝鮮戦争で核兵器使おうとしたアンタが言うなよって発言ですが、これでマッカーサーの大統領への野望は潰えました。

鼬の最後っ屁なのか、マッカーサーは日本人も敵に回すような発言も止めにしています。てか、日本人が勝手にマッカーサーをおだててるだけなんですけど。

“科学、芸術、神学、文化においてアングロサクソンやドイツを45歳とすれば、日本はまだ12歳の少年だ。日本人は学ぶ段階で新しい思考様式を柔軟に取り入れ、かつ新しい思考に対しては非常に弾力性に富み、受容力がある。”

この“日本人は12歳”発言に、日本での“GHQの松川さん”人気は冷や水を浴びせられたように萎えしぼんでしまいます。だから勝手に日本人がヨイショしてたんだろって。

これははっきり言って日本とアメリカの民度の相違でしょう。日本からすりゃ、2000年やってる国がたかだか200年の国ごときにとやかく言われたかねーやってなる。黒船でどっかん道場破りされたことも忘れて。

しかし、前述しましたが、アメリカという国はバスケットボールの試合でハイスクールのチームが勝つとチアの女の子達がコートに押し掛けてハグしたりキスしたりするとかいう(怪しからんが実に羨ましい)国なんです。そんな国の人間から見たら、日本は次元の低い国に見えるのは当然でしょう。

結局共和党はマッカーサーの部下でしかなかった軍人のドワイト・デビット・アイゼンハワーを大統領候補に指名し、やがて34代大統領となります。

昭和26年(1951)7月、渡波町の農地委員会、農業調整委員会、農地改革委員会が統合され、渡波町農業委員会として、農業改革、農民の創意自主的協力による問題解決、民主的な農民の代表機関として発足します。

小作(1号)、地主(2号)、自作(3号)の代表委員がそれぞれ選挙で選ばれ、地主代表として末永正隆が選ばれています。

昭和27年(1952)4月、石巻高校に矢本分校と前谷地分校が開校します。

矢本分校は後に矢本高校となり、東松島高校と校名変更かと思いきや、或る矢本高校の卒業生に言わせりゃ、ルーツは無いんだとか。

前谷地分校の方はそのまま廃校となり、同窓会も石巻高校の扱いなのですが、一部手違いがあり、鹿又高等女学校を前身とする河南高校、現・石巻北高校の卒業生として扱われていると、その卒業生が、おいらの高校時代の国語の担任の先生に語ったんだとか。



またこの年は、金子俊明と貞蔵3妹志ん34歳との間に第3子次男が誕生しています。

金子家の家督は故あってこの末っ子の次男が継ぎますが、次男の妻が非常に良く出来た女性で、手紙に“内(内儀、妻のこと)”と自署し、叔父御を驚嘆させています。また、その息子が三重県名張市の自宅から遥々大伯母たる婆ちゃんの家に泊まりに来て、風呂が離れにあることに驚いたことを婆ちゃん宛の手紙にしたためています。

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1951年(昭和26年)4月19日、マッカーサーはアメリカ上下院合同会議で退任演説し、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ…さようなら」という名言を披露します。

しかし、寂しげな演説内容とは異なり、翌1952年(昭和27年)の大統領選を見据え、民主党大統領を引き摺り降ろしたい共和党と、トルーマンとは何かと対立し、政治的野心を公然と示して己が軍功を大統領選に資したいマッカーサーの思惑が迸る演説だったようで、共和党上院議員(後に37代大統領)リチャード・ミルハウス・ニクソンは、“古代神話の英雄のようだ、力強く議場全体が魔術に痺れた”と恰もヘラクレスかヤマトタケルみたようなことを自著に記しています。



ダグラス・マッカーサーの歴史的演説があった翌日の昭和26年(1951)4月20日、末永貞蔵に次男、叔父御が誕生します。



4月23日、末永林之丞の長孫で謙之助の長男末永林太郎が渡波町議に当選します。亡父末永謙之助も渡波町議でしたので、その地盤看板を継いだことになります。

また4月は6代石巻市長に清野源助が就任します。

5月3日、アメリカ上院軍事外交合同委員会聴聞会に国家の英雄マッカーサーが召喚されます。

この当時のアメリカにおけるマッカーサー人気はまさにヘラクレスやヤマトタケルばりの絶頂期の英雄の如くでした。アメリカ33代大統領ハリー・S・トルーマンはそれを遮る悪代官のように冷視され、誰もが次の大統領はマッカーサーだと過信してやみません。

日本でも敵の総司令官、占領軍のトップ、日本の戦争犯罪をでっち上げ、自虐史観の大元となって二度とアメリカ様に楯突けない国にした親玉でしかないのに、巧みな占領統治、宣撫工作が効を奏したか、マッカーサー人気は謎に絶大で、“アメリカ元帥の松川さん”を大統領にしよう!と挙って大騒ぎした程です。

マッカーサーにとって蹉跌だったのは、この場で真実正論を披露すれば、万国兆民三千大千世界が絶賛の嵐となること間違いないと過信ないし勘違いしたことです。

共和党議員が、“中国を海と空から封鎖する作戦は、嘗て太平洋で日本に勝利した戦法と同じでは?”との、自身の戦略の正統性を補強するような、大統領になりたいマッカーサーにとっては何とも美味しい質問にマッカーサーは、つい気を緩めたか、政治が時に無法天に通じ、良貨が悪貨を駆逐する権謀術数の巷であることを忘れてしまいます。

曰く、“日本は4つの小島に8000万の人口を抱えている。日本の労働力は潜在的に質量共に最良で、工場と労働者はあっても、資源原料に乏しい。その欲する全てがアジアの海の向こうにあり、その供給が断たれたら国が成り立たなくなる。…”

続けて、“従って、日本を戦争に駆り立てた動機は、主として安全保証上、すなわち自衛の必要性に迫られた故である。

朝鮮戦争で共産国家と戦うことになったマッカーサーは奇しくも戦いを通し、明治以来、ロシアの南下政策、ソビエトのコミンテルンの謀略の脅威を受け続けていた日本と同じ立場となってみて始めて、日本の戦争の真相が、朝鮮半島を死守しつつ大陸と対峙しながら独立を守ることであると、身に染みて痛感したのです。

しかし、この発言は、侵略国家日本を打倒した正義の戦争というアメリカの大義名分(如何にもアメリカが好きそうな噴飯な嘘八百だな)、戦争犯罪を裁くという東京裁判の正当性は勿論のこと、マッカーサー自身の5年8か月の占領統治における日本の民主化、非軍事化の業績さえも否定しかねないトンデモ失言として評価され、味方である共和党議員達の怒りを食らってしまいます。

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戦時中、阿部卯一・ゑい一家が大阪府で暮らしていた縁か、3妹志んが看護婦となって大阪に出稼ぎしていました。

昭和22年(1947)12月10日、末永志ん29歳が縁あって大阪府大阪市北区梅田の金子俊明と結婚します。

昭和23年(1948)3月13日、末永貞蔵に長女、おいらの母が誕生します。



同じく3月、末永正が学務委員を務めた渡波青年学校が廃校となります。



4月13日、平山時永一家が石巻市門脇字浜横丁13番地から湊字町裏、現在の吉野町1丁目の末永貞蔵宅に転居し、現在もその養女(時永次姉平山マサヨ次女)が居住しています。
末永貞蔵一家が石巻字南鰐山45番地、現在の泉町2丁目に転居したことを受けての譲渡かと思われます。

末永家の転居は、戸籍届け出上は昭和24年(1949)12月25日となっています。



また4月、末永正が渡波町農業会2代会長を退任します。8月に農業会の名称が農協へと変更されています。

末永正はこれで一切の公職から引退しています。この時末永正59歳。

7月、石巻にとって2番目の
橋となる開北橋が架設されます。

8月、前述しましたが、新制高校となって間もない石巻高校が甲子園へと出場、選手宣誓の栄誉に浴しながら、一回戦で確か京都府代表の名門校・平安高校に敗退しています。



この年は金子俊明・貞蔵3妹志ん30歳との間に第1子長男が誕生しています。夫妻はやがて三重県名張市に居を構えます。



昭和24年(1949)4月、牡鹿郡蛇田村の北上運河から東の部分、通称山下地区が石巻市に合併されます。

10月、中華人民共和国が成立します。初代主席は毛沢東。中華民国は12月、台湾でその政権を維持し、中国は2つの国家の時代に突入します。台湾政権としての初代総統は蒋介石。



12月25日、既述しましたが、末永貞蔵一家の石巻字南鰐山45番地(泉町2丁目)に転居した旨の届け出がなされます。



同じく2つの国家となっていた朝鮮では昭和25年(1950)6月、鮮国側が韓国側に攻め込む形で戦争が勃発。押しては退き、退いては押しのシーソーゲームを展開します。

敵同士だけでなく、同じ味方同士でも猜疑心と疑心暗鬼から陰惨極まりないジェノサイドを繰り広げた一方で、日本は戦争物資の製造で丸儲けし、特需景気でもって焼け跡からの奇跡の復活を遂げます。そして当初の予定だった農業小国から工業大国へと大幅にシフトチェンジします。

10月、牡鹿郡渡波町祝田浜神町に日蓮宗身延派光明山法音寺が、渡波町新田町の末永助右衛門瑞広・長十郎瑞周なる親子によって開山されます。



この年は金子俊明・貞蔵3妹志ん32歳との間に第2子長女が誕生しています。

昭和26年(1951)4月、末永貞蔵の長男、伯父が石巻小学校に入学します。一応父親の後輩ということになります。



連合国軍総司令部・最高司令官(GHQ・SCAP)アメリカ陸軍元帥ダグラス・マッカーサーは、朝鮮人の民族性を殊の他軽んじ、無関心に過ぎて適切な対策をしなかった結果、朝鮮戦争を泥沼化させてしまいます。

己の不手際を糊塗すべく、マッカーサーは朝鮮共和国に対し、核兵器の使用も辞さない態度に出ますが、ソビエトや中国と徹底対立すればヨーロッパにおけるアメリカ陣営諸国連合・NATOがソビエトの圧迫を受けることを恐れ、38度線での引き分けを望んだ33代アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンによって4月11日、解任されてしまいます。

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