順風満帆に立身出世していく母方祖父末永貞蔵ですが、多忙になっても家庭内のことに手抜きはしません。
上京した際に訛りでかなり苦労した経験から、家庭内では標準語で話すよう努めます。
婆ちゃんがコテコテの前谷地弁で話すと貞蔵は、かくかくしかじかな訳で子供達の前では特に標準語で話して欲しい、と諭すように説いています。
また、子供達にテーブルマナーを教えるといった試みもなされたようです。いつ社交界に出しても恥ずかしくないようにとの配慮からでしょう。
教育熱心な一方で家父長としての威厳も保っており、専業主婦である婆ちゃんは貞蔵より必ず早く起きることが義務付けられていました。勿論、貞蔵が家族の誰よりも率先し、主導し、責任を果たしたことは言う迄もありません。
そんな貞蔵ですが頭痛のタネとなる2人の男兄弟がいました。
5弟荘蔵と異父兄阿部松吉です。
ソンズ叔父さんこと末弟荘蔵は、役者の道を挫折した後、職を転々とし、ある時は石巻市湊で質屋を営む荘蔵の叔母・榧野マサヨのところで手伝い兼修業をしたこともあったようですが、やがて全国をドサ回りする旅芸人のようなことをしたりとか、要するに風天の、今で言うプータローにしか過ぎませんでしたが、当時は遊佐屋という宣伝屋(チンドン屋?)に籍を置いて切符切りなどをしていましたが、交際相手に捨てられて自棄糞になっていたようです。
鰐山の母方実家末永家には、たまに栗団子をお土産に持って来ては3兄貞蔵にカネを無心(というよりタカり)にやって来ていました。
貞蔵は気前良く荘蔵にカネをやるのですが、子供達がそんな真似をすれば烈火の如く怒る癖に、何故道楽者の弟なんかにくれてしまうのかと婆ちゃんが詰ると、貞蔵は荘蔵の哀れな生い立ちを語り、兄として何もしてやれなかったことを後悔するが故にこうして融通してやってるんだ、なのでどうか許してやってくれないか、と懇願するのです。
これにはさしもの婆ちゃんも舌の矛を収めるのですが、内心は納得しません。
荘蔵と伯父とは馬が合ったようで、荘蔵が伯父を連れて映画を見に行ったりしていたようです。
そんな伯父が小学6年の昭和31年(1956)の夏に、荘蔵は病気か怪我か不明ですが入院し、すぐに退院しています。
荘蔵はだらしない性格ながら、末っ子ゆえに母性本能をくすぐる性質だったか、とかく人望に恵まれていました。交際相手にフラれた荘蔵はその持ち前の魅力ですぐに新しい相手を見つけ、結婚しています。
結婚後、荘蔵は玉造郡鳴子町(大崎市鳴子温泉)にドサ回りしていた際、誰がしかの伝手で湧泉地を購入し、有楽荘という温泉旅館兼ディスコを夫婦で営みます。
有楽荘という名は、荘蔵が若い頃思い出の地だった東京都千代田区有楽町に由来するのサと、説明するのですが、婆ちゃんに言わせれば、“そぃなのはデダラメでがぃんすぺァ(そのような話は出鱈目でしょうよ)”と切って捨てています。
織田有楽斎長益も勿論違うでしょうし、おいらも由来について色々考えてみましたが、当然荘蔵の真意はわかりませんでした。
鳴子温泉旅館兼ディスコ有楽荘は元号が変わる瞬間まで経営が続いていましたが、荘蔵没後、一人娘の結婚とその夫の実家がある山形県最上郡に移ったことにより、人手に渡しています。
経営は山あり谷ありだったようですが、周囲に助けられながら生涯宿屋の大将であり続けられたことは、やはりその持って産まれた人望、人徳の故でしょうか。
こうして見ると末永泰蔵の子供達は、長兄貞吉は不世出の天稟の才能を、3男貞蔵は経営者としての才能を、そして5男荘蔵は魅力と娯楽の才能を、それぞれ受け継いで、それは逆に、3人合わせて父一人分に相当していたことになるでしょうか。
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