昭和13年(1938)5月25日、徐州入城式が日本軍によって挙行されます。功を競い合う、というよりは共働作戦を張るとでも言わんばかりに、北支那方面軍の司令官と中支那派遣軍の司令官が談笑しながら同席する写真が撮影されています。
徐州攻略に際して日本軍は、中国軍の包囲殲滅を作戦目標にしていましたが、それを果たすことは叶いませんでした。武器や作戦実行力では日本軍に劣っていたとは言え、人数では日本軍をはるかに圧倒していたのです。殲滅は夢の又夢、というより、絵に描いた餅でした。
そして腹立たしいことには、中国軍を包囲殲滅出来なかった原因は第13師団が暴走したからだと、大本営が発表していることで、ふざけんなバカヤローって思いますね。所属していた祖父末永貞蔵が軍隊内での昇進を拒んだ背景に、こうした軍上層部の身勝手さ、無責任さ、間抜けさかつ好い加減さがあったことが改めて解るような気がします。
徐州一番乗りを果たしたのに心外な謗られ方をされた第13師団の姿はもうそこにはありませんでした。同じ5月25日、第13師団はいよいよ中華民国仮首都武漢三鎮を攻撃射程に入れる日本軍の方針に従うべく、その下準備として一路安徽省蒙城県に引き返し、再占領します。
再占領ということは、既に日本軍が点と線でしか支配出来ていなかったことを如実に示していました。
それだけ中国大陸が日本人の手に余る程に広大無辺だったのです。都市という0次元、鉄道、道路という1次元でもってしか日本軍が統治出来なかったことは、正に日本の限界でした。
日本軍は占領地に親日政権を形成しますが、所詮は付け焼き刃の傀儡政権という実態でしかなく、2次元たる中国の国土、3次元たる中国の空、そして4次元たる中国の歴史という中国の奥深さに、もぐら叩きに翻弄され、退くも戻るも蟻地獄となったのです。
それを中国側から如実に示すかのように5月26日、毛沢東が持久戦論を発表します。まぁ実態は逃げて引き延ばしてなんでしょうが。かくして第13師団は武漢三鎮を目指し、南へと進軍を開始します。
一方、北支那方面軍の別働隊は河南省開封市攻略を狙いますが、大本営の反対を受け、その代償として蘭封(中華人民共和国河南省開封市蘭考県)を攻略し、結局なし崩しに5月31日に杞県(河南省開封市)、6月2日に中牟県(河南省鄭州市)、尉氏県(河南省開封市)に進出し、6月5日、開封市も攻略してしまいます。
開封市が日本軍の手に陥ちたことで、仮首都武漢三鎮(湖北省)を真南に直に狙うことが出来るようになります。
一方、第13師団は6月1日、鳳台県(安徽省淮南市)、寿県(安徽省淮南市)、蘆州(安徽省合肥市)、商城県(河南省信陽市)、新店県(河南省信陽市新県)と次々攻略していきます。
こうした日本軍の動きに中国軍はとんでもない策略を思い付きます。
黄河の堤防を破壊し、河の水を決壊させて高松城、のぼうの忍城よろしく日本軍を押し流す、という作戦です。
6月11日、中国軍による黄河決壊が断行。その戦果たるや、河南省、安徽省、江蘇省の広大な面積を水浸しにしただけでなく、中国人600万人から1000万人を被災させ、揚げ句の果てには100万人の中国人が溺死するという悲惨極まりない有り様。しかも期待された日本軍への被害はほぼほぼ皆無だってんだから、笑っちゃいけないんだけど、笑っちゃう。
洪水で孤立した各部隊を救助した日本軍は、そのついでに被災した中国人たちを見兼ねて救助し、復旧作業にも協力し合って携わります。
するとそこへ中国軍が卑怯にも日本人、中国人関係無く狙撃したため、幾ばくかの被害が出ます。
軍事目的の環境破壊としては世界史上最大最悪といわれるこの事件、企画立案し、裁可を与えた奴らはアタマ溶けてんじゃねーのかって思いますね。こいつらにとって中国国民なぞ都合良い駒か鬱陶しいゴミでしかないのかよって。ともあれこうした中華民国政府の国民を国民とも思わない残忍酷薄な手口はやがて、日本敗戦後の国共内戦で厭ってほどツケ払いさせられることになります。
おいら思うに、南京大虐殺捏っち上げの背景には、通州反乱虐殺事件はもとより、この黄河決壊があるような気がしてなりません。その南京大虐殺の被害者数と称されるものの3~5倍、被災だけなら30~500倍になるわけですから。言わば0.1億ですからね。
この時日本軍に助けられた中国人の中には、日本軍に感謝するだけでなく、日本軍の軍属(アルバイト軍人)として一緒に戦いたいと志願する者まで現れます。中国人を蔑ろにする中華民国というシステムであれば、むべなるかなと思います。
そんな馬鹿な、と思われるかも知れませんが、中国人軍属が日本軍内に存在したことは事実です。貞蔵の秘蔵アルバムにはやや小太りで背丈の低い、純朴で好人物そうな表情の中国人軍属の若者が貞蔵と一緒に写っているからです。
部隊内では皆に親しまれていた様子が窺われ、こと貞蔵とは大変ウマが合ったようで、貞蔵のことを“末大人(マーターレン)”と呼んでいたそうです。
この日本の為に戦ってくれた中国人軍属さんがその後どうなったのかはわかりません。漢奸として成敗されなかったことを切に願うばかりです。
97に続きます。
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