2019年06月

昭和13年(1938)5月25日、徐州入城式が日本軍によって挙行されます。功を競い合う、というよりは共働作戦を張るとでも言わんばかりに、北支那方面軍の司令官と中支那派遣軍の司令官が談笑しながら同席する写真が撮影されています。

徐州攻略に際して日本軍は、中国軍の包囲殲滅を作戦目標にしていましたが、それを果たすことは叶いませんでした。武器や作戦実行力では日本軍に劣っていたとは言え、人数では日本軍をはるかに圧倒していたのです。殲滅は夢の又夢、というより、絵に描いた餅でした。

そして腹立たしいことには、中国軍を包囲殲滅出来なかった原因は第13師団が暴走したからだと、大本営が発表していることで、ふざけんなバカヤローって思いますね。所属していた祖父末永貞蔵が軍隊内での昇進を拒んだ背景に、こうした軍上層部の身勝手さ、無責任さ、間抜けさかつ好い加減さがあったことが改めて解るような気がします。

徐州一番乗りを果たしたのに心外な謗られ方をされた第13師団の姿はもうそこにはありませんでした。同じ5月25日、第13師団はいよいよ中華民国仮首都武漢三鎮を攻撃射程に入れる日本軍の方針に従うべく、その下準備として一路安徽省蒙城県に引き返し、再占領します。



再占領ということは、既に日本軍が点と線でしか支配出来ていなかったことを如実に示していました。

それだけ中国大陸が日本人の手に余る程に広大無辺だったのです。都市という0次元、鉄道、道路という1次元でもってしか日本軍が統治出来なかったことは、正に日本の限界でした。

日本軍は占領地に親日政権を形成しますが、所詮は付け焼き刃の傀儡政権という実態でしかなく、2次元たる中国の国土、3次元たる中国の空、そして4次元たる中国の歴史という中国の奥深さに、もぐら叩きに翻弄され、退くも戻るも蟻地獄となったのです。

それを中国側から如実に示すかのように5月26日、毛沢東が持久戦論を発表します。まぁ実態は逃げて引き延ばしてなんでしょうが。かくして第13師団は武漢三鎮を目指し、南へと進軍を開始します。



一方、北支那方面軍の別働隊は河南省開封市攻略を狙いますが、大本営の反対を受け、その代償として蘭封(中華人民共和国河南省開封市蘭考県)を攻略し、結局なし崩しに5月31日に杞県(河南省開封市)、6月2日に中牟県(河南省鄭州市)、尉氏県(河南省開封市)に進出し、6月5日、開封市も攻略してしまいます。

開封市が日本軍の手に陥ちたことで、仮首都武漢三鎮(湖北省)を真南に直に狙うことが出来るようになります。



一方、第13師団は6月1日、鳳台県(安徽省淮南市)、寿県(安徽省淮南市)、蘆州(安徽省合肥市)、商城県(河南省信陽市)、新店県(河南省信陽市新県)と次々攻略していきます。



こうした日本軍の動きに中国軍はとんでもない策略を思い付きます。

黄河の堤防を破壊し、河の水を決壊させて高松城、のぼうの忍城よろしく日本軍を押し流す、という作戦です。

6月11日、中国軍による黄河決壊が断行。その戦果たるや、河南省、安徽省、江蘇省の広大な面積を水浸しにしただけでなく、中国人600万人から1000万人を被災させ、揚げ句の果てには100万人の中国人が溺死するという悲惨極まりない有り様。しかも期待された日本軍への被害はほぼほぼ皆無だってんだから、笑っちゃいけないんだけど、笑っちゃう。

洪水で孤立した各部隊を救助した日本軍は、そのついでに被災した中国人たちを見兼ねて救助し、復旧作業にも協力し合って携わります。

するとそこへ中国軍が卑怯にも日本人、中国人関係無く狙撃したため、幾ばくかの被害が出ます。

軍事目的の環境破壊としては世界史上最大最悪といわれるこの事件、企画立案し、裁可を与えた奴らはアタマ溶けてんじゃねーのかって思いますね。こいつらにとって中国国民なぞ都合良い駒か鬱陶しいゴミでしかないのかよって。ともあれこうした中華民国政府の国民を国民とも思わない残忍酷薄な手口はやがて、日本敗戦後の国共内戦で厭ってほどツケ払いさせられることになります。



おいら思うに、南京大虐殺捏っち上げの背景には、通州反乱虐殺事件はもとより、この黄河決壊があるような気がしてなりません。その南京大虐殺の被害者数と称されるものの3~5倍、被災だけなら30~500倍になるわけですから。言わば0.1億ですからね。



この時日本軍に助けられた中国人の中には、日本軍に感謝するだけでなく、日本軍の軍属(アルバイト軍人)として一緒に戦いたいと志願する者まで現れます。中国人を蔑ろにする中華民国というシステムであれば、むべなるかなと思います。

そんな馬鹿な、と思われるかも知れませんが、中国人軍属が日本軍内に存在したことは事実です。貞蔵の秘蔵アルバムにはやや小太りで背丈の低い、純朴で好人物そうな表情の中国人軍属の若者が貞蔵と一緒に写っているからです。

部隊内では皆に親しまれていた様子が窺われ、こと貞蔵とは大変ウマが合ったようで、貞蔵のことを“末大人(マーターレン)”と呼んでいたそうです。

この日本の為に戦ってくれた中国人軍属さんがその後どうなったのかはわかりません。漢奸として成敗されなかったことを切に願うばかりです。

97に続きます。

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日本軍が南京を攻略しているその最中にも、日本政府は和平交渉に望みを懸けていましたが、例えるなら、吉野に逐われても未だ余は本気出しておらぬぞとばかりに調子こいてた96代後醍醐天皇の如く、戦闘意欲だけは満々の中華民国政府が当然ながら和平交渉に応ずるわけもなく、外交上の解決は無理だと悟ります。

昭和13年(1938)1月16日、日本政府は中華民国政府とは一切交渉しないと宣言。名実共に日中戦争が全面戦争と化します。



1月28日、祖父末永貞蔵が属する第13師団は鳳陽県(中華人民共和国安徽省チュー州市)に向かって進撃。2月8日、淮河以南の地域を占領し、南京周辺の地固めを達成します。



前後して2月7日、中ソ軍事航空協定が調印されます。



2月14日、中支那方面軍は中支那派遣軍と改称、再編成され、その下に設けられた第11軍に、第13師団が所属することが決まります。



2月16日、日本政府はこの一年は戦力を涵養する期間に宛てたいと考えますが、現地の司令官どもはまだるっこしくて悠長で弱腰な話だと取り合わず、何と又しても独断で作戦を決行してしまいます。そして上層部が致し方なく追認して…、とまぁ、日中戦争の展開はおしなべてそのようなパターンが続きます。

野球に例えるなら、監督の指示に選手が従わず、取り敢えず失点なく、ホームランが量産されて大量リードしている状況でしょうか。とはいえ、こういうのは勝ってる内は良いんですが、敗けが込み出すとそれ迄の無謀さが表面化して、やがてどうにもならなくなるものです。

ですから祖父が上官によく楯突いた、というのは、案外そのような現場の雰囲気への抵抗だったのかも知れません。



2月17日、華北に展開していた北支那方面軍が大本営上層部の不拡大方針を無視し、江蘇省徐州市攻略を目指し、南下を始めます。

これは邪推ですが、北支那方面軍がフライングしたのは、盧溝橋事件以来、通州反乱虐殺事件など様々な謀略、テロや虐殺など、中国軍のあの手この手の嫌がらせの矢面に直面し、ほとほと怒り心頭になっていたところ、今こそこいつらに一矢を報いる好機だ!と企んだからではないでしょうか。

ですがやはり、中支那派遣軍に破竹の快進撃(といっても多大な戦死者を出している)をされてしまったことが大きいのではないでしょうか。遅れを取ってはならじ、負けじとタメを張って戦功を貪らんとの欲求にさいなまれた可能性は充分に考えられます。

ともあれ、台児荘(中華人民共和国山東省棗荘市台児荘区)の戦いが勃発します。

この戦いに中国軍は珍しく最新の兵器で武装し、日本軍を圧倒しました。その辺はやはり、優秀な兵器だよな~と思います。それは江戸幕末にミニエー銃で武装した長州藩テロリズム軍団が数に勝る彦根藩赤ヘルひこにゃん軍団をボッコボコに撃ち負かした例や、東北諸藩が薩長にまるで歯が立たなかった例を見ても納得します。

4月7日、北支那方面軍は台児荘攻略に失敗し、退却します。

実はこれが盧溝橋事件以来の日中戦争における日本軍の初黒星となりました。中国軍はここぞとばかりに、鬼の首でも獲ったかのような一大プロパガンダを放ちます。

ところが、意外な強さを見せつけた意気軒昂な日本軍の退却に、懦弱な烏合の衆の中国軍は水に落ちた犬を叩くべきところを追撃せず、みすみす日本軍にリベンジの機会を与えてしまいます。その辺はやはり、戦の帰趨は士気だよな~って思います(ってどっちなんだよ)。

台児荘の戦いはその後の敗戦に至る日本軍の典型的な戦い方を随所に現していました。現地の動きを統率できず、勝ったからいいやと追認する優柔不断で好い加減な大本営。功を欲張り、命令を無視して独断で暴走する現地司令官。そして負けたら立場の弱い現場指揮官に全ての責任をおっかぶせて後は知らんぷりする無責任極まりなさ。

北支那方面軍が退却した4月7日と同じ日、現場の独断と暴走を抑えられない大本営は不拡大方針をいともあっさり撤回し、北支那方面軍、中支那派遣軍に徐州進撃を命令します。

徐州の北から中国軍の大兵力を引き付け、その隙に別働隊が南北から徐州の街を挟撃するという作戦でした。



第13師団は5月5日、徐州作戦発動を受け、北からの部隊と徐州を挟み撃ちすべく北上、淮河を渡河し、安徽省懐遠市にあった中国軍陣地を撃破。

そのまま最左翼(西側)に展開して5月9日に安徽省蒙城市を陥落させます。

5月11日、第13師団は河南省永城市を包囲。7時30分、歩兵第104連隊第3大隊長今少佐は大隊命令を発し、中国軍への警戒と戦闘に関わらない事物へは手を出してはならない旨、発令しています。

5月12日、永城市が陥落。

5月14日、徐州に展開する中国軍が中支那派遣軍の動きを警戒し、配置転換を行いますが、これを日本軍は退却と誤認し、第13師団に進撃を急ぐよう命令が下ります。

第13師団は主力が韓道口鎮(河南省商丘市夏邑県)を牽制しながら、別働隊として戦車を主力とする岩仲挺進支隊を編成して、徐州を東西に走る鉄道・隴海線の鉄橋を爆破し、中国軍の退路を断つことに成功します。

5月16日、日本軍の余りの動きに対抗し切れぬ中国軍は徐州の放棄を決断します。そこへ第13師団歩兵第65連隊が5月17日、徐州の西南西に屹立する覇王山の頂を奪取し、徐州一番乗りを果たし、5月19日、蒋介石が重要な場所と見なした徐州が遂に陥落。第13師団は感状を授与される栄誉に浴します。

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昭和12年(1937)12月7日、蒋介石以下中華民国上層部はいち早く南京を脱出し、仮首都武漢三鎮(湖北省)にトンズラこきます。

さて困惑したのは城内の南京市民です。外国人が市内に構築した安全区に殺到します。

12月8日、日本軍が南京を包囲します。12月9日、市内に向けて降伏勧告をしますが、中国側からの応答は無く、12月10日、攻撃が開始されます。

主のいない南京市の城壁は割りと脆弱でした。

しかし、その城壁の中では中国兵が焦土作戦と称して市民の財産や食料を略奪し、漢奸狩りと称して口封じか裏切り防止か殺戮し、女性への凌辱を欲しい侭にしていました。

敗けが込むと今度は民衆のフリをして安全区に逃げたり、城門から逃走を企てます。

しかし、城の外にはあの督戦隊が待ち構えていて、激しい同士討ちが展開され、夥しい死者を出して直下を流れる揚子江に死体が浮かびます。

12月13日、日本軍、南京市攻略。しかし、城内は潜伏した軍人崩れや残置諜者と化した便衣兵(スパイ)らで満ち溢れ、これに疑心暗鬼となった日本軍は捕虜も含め、こうした輩をしょっぴいては片っ端から処刑します。目付きが精悍だとか、体つきがゴツいという理由だけで兵卒と見なされ、有無を言わさず誤殺された民間人もいたことでしょう。



いわゆる南京大虐殺について、戦争体験を包み隠さず明かした祖父末永貞蔵は、何も語りませんでした。それもその筈で、貞蔵が所属する第13師団歩兵第104連隊は江蘇省江陰県(中華人民共和国江陰市)を出撃し、江蘇省鎮江市を攻略して再び揚子江北岸に渡河し、12月12日、河北省天津市と浦口(中華人民共和国江蘇省南京市浦口区)を結ぶ鉄道・津浦線を遮断すべく、浦口駅北手前のチュー(サンズイに除)県(安徽省チュー州)を占領していて、南京攻略とは一線を画していたからです。



反日自虐史観論者はここから2ヶ月かけて南京市内の中国民間人20万から30万人を、通州反乱虐殺事件の如く、虐殺した、とさんざめくわけです。

20万人かぁ~、平成11年(1999)7月31日に幕張メッセでGLAYエキスポ99というライブコンサートがあって、その時の観客動員数が20万人だった。上から見た画像が恰も風に靡く草原のようだ、とタモリさんが慨嘆していましたが、それ見ておいらは、“あー、こぃだけの数を日本軍は南京で殺しだのがやー”、と言って、“殺せる訳ねーべ”と叔父御に突っ込まれたんですが、あの規模の人数が一気に、ないし、1日につき3000人から5000人亡くなるってのは心底おどげでない話しだ。

そもそもそんなに人口いたのかって話ですし、銃殺するにしても斬殺するにしても、それだけの武器弾薬は足りてたのかってなる。

日本軍の補給に問題があったことは、あの石原莞爾が兵站が続かないから戦線拡大は無理、と唱えて斥けられたことからも明らかなのです。

そしてやはり遺体の処理ですが、20万人以上の生命が一気に奪われたとなれば、市内は死体で溢れて足の踏み場も無い筈。「源平盛衰記」の倶利伽羅落の段じゃないが、夥しい遺体が積み重なり、当たり一面血の海と化し、更には遺体から出る腐臭(メタンガス)で容易に近寄れなかったことでしょう。

揚子江に遺棄した、とのたまうのなら、下流の鎮江、靖江、江陰、諸家橋、そして上海に遺体が漂着しなかったのか、疑問です。

結論から言って南京大虐殺とは、日本軍が中国兵を、中国軍が中国軍民を、様々な理由で殺害したことがさも針小棒大、白髪三千丈に盛り付けられ、さも日本軍の戦争犯罪であるかのごとく喧伝された反日フレームアップなのではないでしょうか。その際、日本軍が中国兵死者数を誇大に報告したことも後々不利に働きました。ですから南京にて奪われた生命の総数は、2、3万人といったところでしょう。それでも大変な数ですけどね。

ただし、日本軍の名誉の為に敢えて筆舌を尽くせば、南京市外で外国船を誤爆したことはあっても、南京市内の安全区には攻撃を仕掛けていませんし、中国の文化財にも手を出していません。南京占領後は南京の治安回復に努め、日本兵と南京市民が談笑する写真も残っているのです。

所が日本軍の残虐行為なるものを、南京大虐殺記念館にものして、これでもかと、拝観料無料でもって見せ付けて、嫌が応にも反日史観を植え付ける。政治家や有力者、有名人を垂らし込んで売国奴を作り上げ、談話を引き出して積み上げれば、糞を集めて香木と成し、瓦礫を集めて大理石の塔を造るといった、嘘百編でも真になるという謀略に、誰しも騙される仕掛けとなっているわけです。

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南京攻略戦前夜に中国軍、日本軍の順に、おいらなりの評価を下してみました。

では祖父末永貞蔵は生前、中国軍、日本軍をどのように評価していたのでしょうか。

貞蔵は中国軍について、敵ながらあっぱれであると、高く評価していました。もちろんそれは中国軍といっても中国国民党軍であり、逃げてばかりの中国共産党軍ではありません。大した力量や作戦力は無いながらも、次から次へと人数が繰り出され、立ち向かって来る勇猛果敢な様に、恐怖しながらも、畏敬を抱いていたそうです。

それは極限状況の中で生命の遣り取りを交わし、死線を潜り抜け、死地を切り開いた者同士に芽生えるある種の戦友感なのかも知れません。あの蒋介石でさえ貞蔵が属した第13師団歩兵第104連隊を敵ながら高く評価していましたから。

とは言え、その境地に至る迄にはどれだけ夥しい血が流れ、悲しみや辛さ、恨みつらみを乗り越えて来たものでしょう。なんだかんだ平和呆けの中でのうのうと生きている不肖不覚の外孫には想像もつかぬ感情です。

蒋介石は逃げる日本兵を敢えて深追いせず、逃がす時には逃がしたそうです。そのような経緯から、宮城県の兵士で蒋介石を良く言う者も多いと聞きます。写真などで見る蒋介石は、強面の悪党面からわかるように、一筋縄ではいかない海千山千の政治家ですから、こんな時でも深謀遠慮を巡らし、やがて来る共産党との最終決戦を見つめていたのでしょう。

その一方で貞蔵は、日本軍についてはボロクソのケチョンケチョンに貶していました。

直属の上官は陸軍大学出の馬鹿だったとかで、この上官とは徹底的に対立し、喧嘩し、婆ちゃん曰く、とにかく暴れたんだそうです。

貞蔵の最終階級は上等兵でしたが、更にその上の軍曹にも昇格することも可能でした。

しかし、そうしなかったのは、あんな腐った奴等と肩を並べてられっか!と貞蔵が昇格を拒んだからだ、と婆ちゃんは語ります。



中国軍が狡猾なのか、将又日本軍が間抜けなのか、日本軍は中国軍の罠に嵌められ、まるでモグラ叩きの如く大陸の泥沼に誘い込まれ、戦争の蟻地獄へとまっしぐらに引き摺り込まれて行きます。

とは言え、日本軍がどこかで折り合いをつけて戦闘をストップするということが実際あの状況で可能だったのかと言われると、極めて剣呑だったと思わざるを得ません。

何せ戦争を望んだのはどこあろう中国で、しかも通州反乱虐殺事件のような残虐行為を起こされて、ちょどすてる(石ノ巻弁・じっとしている、大人しくしている)方がどうかしているのかもしれません。

しかしながら、作戦地域制限線を破らなければ、次に起きる南京での戦闘に附随したあの出来事は避けられたのではないかと、個人的に推測するわけです。



昭和12年(1937)11月24日、遂に大本営は追認という形で中支那方面軍の蘇州嘉興作戦地域制限線を撤廃し、戦線拡大を公式に認めてしまいます。

そのさなかで、末永貞蔵のいる第13師団は揚子江南岸沿いに進撃し、11月25日、謝家橋鎮(江蘇省常熟市)を突破、12月2日には江蘇省江陰県(中華人民共和国江陰市)を陥落、一部を北岸に渡河させて江蘇省靖江市を占領し、揚子江を西上して南京市への攻略路を作ります。

第13師団の露払いにより、日本軍は江蘇省無錫市、浙江省湖州市を突破、江蘇省宜興市を経て南京に向け進撃します。

上海から南京まではおよそ仙台から盛岡くらいの距離がありますが、上海の戦いの憂さ晴らしや、補給を現地収奪で賄おうとして、付近の略奪に勤しんだと伝わります。

しかし、既に中国軍が焦土作戦で民家を焼き払い、民衆は裏切って日本に味方しないよう殺害し、財産や食料を略奪してった後だったのが実相のようです。

日本軍上層部は略奪や虐殺を禁止する通達を下していますが、一部の不逞の兵卒、一団が略奪や虐殺を働いたと伝わります。

その戦争が侵略であれ、祖国防衛であれ、引き摺り込まれたのであれ、所詮軍隊は聖人君子の集団では無いのです。だからといって職業的殺人者と蔑むつもりは毛頭ありません。日本軍の残虐行為と称するものが全く無かったとは言い切れませんが、中国民衆に対するそれは多分に中国軍によるものであり、差し引いて考える必要があるようです。

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当時の中国軍は蛮族の軍隊、と戯評しながら、では一方の日本軍は他所の国の軍隊についてどうこう言えた義理なのかって言われりゃ、既に暴走を始めて傲岸不遜、尊大倨傲な組織にして、天皇さえも抑えつけることが出来ない化け物へと増長していました。

日本軍が天皇の威光を傘に驕り昂ぶるその法的根拠は、「大日本帝国憲法第11条・統帥権」にありました。

軍隊の組織編成、職務や人事、規則の設定、戦略、指揮命令の決定等を行使する統帥権は、天皇自らの権利と定められていますが、しかしてその権力の行使は、陸軍大臣とその参謀総長、海軍大臣とその軍令部総長が代行していました。

統帥権によって日本軍部は政治、外交、財政等に干渉されない、独立性を保持することが可能となりましたが、やがて政治、外交、財政等に日本軍部が干渉するあべこべの効果を生み出し、結果として軍国主義の台頭を招いたのです。

昭和初期には浜口雄幸首相襲撃(昭和6年・1931)、5・15事件(昭和7年・1932)、2・26事件(昭和11年・1936)といった軍隊にまつわる事件を経ながら、日本軍部は天皇の威を借りては、次第に国内で幅を利かせていきます。

このような姿を目の当たりにした124代昭和天皇は日本軍部に対し、次第に不信感を持つようになります。しかし、日本軍部の暴走を停めるには至りませんでした。統帥権の拡大解釈が余りにも肥大し過ぎた結果、これを抑え付けることは即ち、クーデターを起こされる可能性を孕んでいて、事実、昭和天皇自身もそれを危惧していたからです。

そのクーデターとは、国民、政府、官僚、財界等はもとより、天皇自身に向けられる可能性もあったでしょう。

軍部が天皇陛下に対し、そんなことする筈ないと、思われるかもしれません。しかし、あながち的外れとも言い切れません。かつて江戸時代、“主君は一代、御家は末代”とばかりに、江戸幕府に睨まれそうになったら、殿様の度量才覚の多寡に関わらず、藩主が家臣に押し込め隠居、つまり強制引退させられた事例が存在したからです。

特に仙台藩主伊達綱宗は表向き濫行と称し、その実は111代後西天皇の従弟だったというだけで藩主の座を降ろされています。

後西天皇の弟の直系子孫である昭和天皇がその論理で、“天皇は一代、御国は末代”と日本軍部が考えて暴挙に至るかもしれないと危惧した可能性は、現代昭和生まれが想像する以上に賢明な天皇であった昭和天皇ならば、容易に想像がつき、懸念したことでしょう。昭和天皇の戦争責任については、右顧左眄喧々囂々に争鳴し、非道い時にはチャカさえ放たれる騒ぎになる程ですが、こうした戦争への消極性や統帥権との関係、そして相手側が日本と戦争をしたがっていた真相を見るにつけ、この戦争が必ずしも侵略性を帯びていた訳ではなかったことを踏まえ、昭和天皇に戦争責任を問うことは極めて無謀なのではないかと、おいらは現時点では考証しています。

93に続きます。

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