母方祖父末永貞蔵に二人の後見人が付いた昭和7年(1932)3月12日、曾祖父末永泰蔵の3妻ふくは、最早末永家には用は無いとばかりに家を去り、加美郡中新田町字町裏に住む弟・大村大八郎の戸籍に入り、末永家の戸籍からは除籍となります。薄情と言えばそれまでですが、子供が無かったことで夫の死後は身の置き場も無く、大した遺産も貰えなかった婚家に未練なんぞもしがらみ風情も無くなってる訳ですから、当たり前と言えば当たり前でしょうか。
泰蔵長女ゑいと阿部卯一の一家は泰蔵の死後、誰かの周旋で大阪府に転居し、そのまま戦時中を大阪で過ごします。
9月、渡波町農協の前身たる渡波町農業会が発足し、初代会長に菊地明夫が8代渡波町長兼任で就任します。
末永貞蔵にとって幸運だったのは、僅かばかりでも遺された財産の鍵を故・阿部栄助氏が握ったことでしょうか。
おいらが栄助氏を取材した時は、既に高齢で耳も遠く、楽隠居の好好爺という風体でしたが、その語り口からは、自信と勇気、度胸に富んだ偉丈夫だったようで、貞蔵の財産を狙って悪い親戚が来ても頑として鍵は渡しませんでした。
栄助氏は後に兵役に狩り出され、仙台に拠点を置く第2師団歩兵第4連隊に配属され、事変に揺れる満州に派兵され、吉林省等を転戦します。戦場では郵便局で取った杵柄か、通信兵を務めます。ある時、砲弾飛び交う中を付近に展開する別の部隊に伝言を届けることとなり、上官が怖じ気(臆病者)だったので、自ら斥候役を買って出ています。
中途病気か戦傷で満州国首都新京市(中華人民共和国吉林省長春市)で手術を受けています。
こうした戦功が認められ、満州国国務総理大臣鄭孝胥(1860~1938)名義で勲8等に叙勲されています。
平成11年(1999)に栄助氏に取材した時、おいらはラストエンペラー愛新覚羅溥儀に会ったんですか?と質問したのですが、一兵卒だった栄助氏がおいそれと面会出来る人物ではなかったようです。
言われて見りゃ、当時の日本人は昭和天皇に会うことは勿論、声を聞くことさえ困難だったのですから、この質問はつくづく愚問だったと後悔しています。
平時には浜の民政委員を務め、地元の顔役となり、雄勝町史にその名を刻みました。
一方の平山時永は、対する相手によって評価が様々で、故・阿部栄助氏は末永貞蔵の財産を狙う胡散臭い泥棒のように見ていましたし、義兄であった榧野定太郎なんぞはクソミソに貶したそうです。
その4男、故・榧野岩光氏は生前、虚々実々の駆け引きを演じた故か、評価すべき所は評価しつつも、“インテリジェントルマン”と、是とも皮肉とも採れる評価を下しています。
嘗て末永善助にムカデを押し付けられてイジメられたように、囲碁の有段者で痩身で頭脳明晰な人となり、祖父貞蔵の秘蔵アルバムにはまだ幼い養女、後に絶世の美女と持て囃されることになる、その片鱗を見せたその養女(次姉マサヨ次女)と共に、京都の渡月橋に佇む、恰もマフィアのドンを想起させる出で立ちと立ち居振舞いから、良くも悪くも腕に自信があり、豪胆で勇武に富む男達からは滅法嫌われていたようです。
末永貞蔵の子供達、伯父も母も叔父御も、平山時永に関しては余りいい顔をしません。
その中で婆ちゃん一人、平静かつ的確に平山時永を評価していました。敢えて中立の立場で物事を評価することの難しさを知った思いです。
しかしながら肝心要の祖父とは、不思議にも対立した形跡が無いのです。故・阿部栄助氏に鍵を求めたのは案外、片田舎の漁り人に任せても仕方無いから、こっちで有効な資産運用をするから私に預けて下さいよ、といったものだったのかも知れません。
83に続きます。
にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]
9月、渡波町農協の前身たる渡波町農業会が発足し、初代会長に菊地明夫が8代渡波町長兼任で就任します。
末永貞蔵にとって幸運だったのは、僅かばかりでも遺された財産の鍵を故・阿部栄助氏が握ったことでしょうか。
おいらが栄助氏を取材した時は、既に高齢で耳も遠く、楽隠居の好好爺という風体でしたが、その語り口からは、自信と勇気、度胸に富んだ偉丈夫だったようで、貞蔵の財産を狙って悪い親戚が来ても頑として鍵は渡しませんでした。
栄助氏は後に兵役に狩り出され、仙台に拠点を置く第2師団歩兵第4連隊に配属され、事変に揺れる満州に派兵され、吉林省等を転戦します。戦場では郵便局で取った杵柄か、通信兵を務めます。ある時、砲弾飛び交う中を付近に展開する別の部隊に伝言を届けることとなり、上官が怖じ気(臆病者)だったので、自ら斥候役を買って出ています。
中途病気か戦傷で満州国首都新京市(中華人民共和国吉林省長春市)で手術を受けています。
こうした戦功が認められ、満州国国務総理大臣鄭孝胥(1860~1938)名義で勲8等に叙勲されています。
平成11年(1999)に栄助氏に取材した時、おいらはラストエンペラー愛新覚羅溥儀に会ったんですか?と質問したのですが、一兵卒だった栄助氏がおいそれと面会出来る人物ではなかったようです。
言われて見りゃ、当時の日本人は昭和天皇に会うことは勿論、声を聞くことさえ困難だったのですから、この質問はつくづく愚問だったと後悔しています。
平時には浜の民政委員を務め、地元の顔役となり、雄勝町史にその名を刻みました。
一方の平山時永は、対する相手によって評価が様々で、故・阿部栄助氏は末永貞蔵の財産を狙う胡散臭い泥棒のように見ていましたし、義兄であった榧野定太郎なんぞはクソミソに貶したそうです。
その4男、故・榧野岩光氏は生前、虚々実々の駆け引きを演じた故か、評価すべき所は評価しつつも、“インテリジェントルマン”と、是とも皮肉とも採れる評価を下しています。
嘗て末永善助にムカデを押し付けられてイジメられたように、囲碁の有段者で痩身で頭脳明晰な人となり、祖父貞蔵の秘蔵アルバムにはまだ幼い養女、後に絶世の美女と持て囃されることになる、その片鱗を見せたその養女(次姉マサヨ次女)と共に、京都の渡月橋に佇む、恰もマフィアのドンを想起させる出で立ちと立ち居振舞いから、良くも悪くも腕に自信があり、豪胆で勇武に富む男達からは滅法嫌われていたようです。
末永貞蔵の子供達、伯父も母も叔父御も、平山時永に関しては余りいい顔をしません。
その中で婆ちゃん一人、平静かつ的確に平山時永を評価していました。敢えて中立の立場で物事を評価することの難しさを知った思いです。
しかしながら肝心要の祖父とは、不思議にも対立した形跡が無いのです。故・阿部栄助氏に鍵を求めたのは案外、片田舎の漁り人に任せても仕方無いから、こっちで有効な資産運用をするから私に預けて下さいよ、といったものだったのかも知れません。
83に続きます。
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