2019年05月

母方祖父末永貞蔵に二人の後見人が付いた昭和7年(1932)3月12日、曾祖父末永泰蔵の3妻ふくは、最早末永家には用は無いとばかりに家を去り、加美郡中新田町字町裏に住む弟・大村大八郎の戸籍に入り、末永家の戸籍からは除籍となります。薄情と言えばそれまでですが、子供が無かったことで夫の死後は身の置き場も無く、大した遺産も貰えなかった婚家に未練なんぞもしがらみ風情も無くなってる訳ですから、当たり前と言えば当たり前でしょうか。

泰蔵長女ゑいと阿部卯一の一家は泰蔵の死後、誰かの周旋で大阪府に転居し、そのまま戦時中を大阪で過ごします。



9月、渡波町農協の前身たる渡波町農業会が発足し、初代会長に菊地明夫が8代渡波町長兼任で就任します。



末永貞蔵にとって幸運だったのは、僅かばかりでも遺された財産の鍵を故・阿部栄助氏が握ったことでしょうか。

おいらが栄助氏を取材した時は、既に高齢で耳も遠く、楽隠居の好好爺という風体でしたが、その語り口からは、自信と勇気、度胸に富んだ偉丈夫だったようで、貞蔵の財産を狙って悪い親戚が来ても頑として鍵は渡しませんでした。

栄助氏は後に兵役に狩り出され、仙台に拠点を置く第2師団歩兵第4連隊に配属され、事変に揺れる満州に派兵され、吉林省等を転戦します。戦場では郵便局で取った杵柄か、通信兵を務めます。ある時、砲弾飛び交う中を付近に展開する別の部隊に伝言を届けることとなり、上官が怖じ気(臆病者)だったので、自ら斥候役を買って出ています。

中途病気か戦傷で満州国首都新京市(中華人民共和国吉林省長春市)で手術を受けています。

こうした戦功が認められ、満州国国務総理大臣鄭孝胥(1860~1938)名義で勲8等に叙勲されています。

平成11年(1999)に栄助氏に取材した時、おいらはラストエンペラー愛新覚羅溥儀に会ったんですか?と質問したのですが、一兵卒だった栄助氏がおいそれと面会出来る人物ではなかったようです。

言われて見りゃ、当時の日本人は昭和天皇に会うことは勿論、声を聞くことさえ困難だったのですから、この質問はつくづく愚問だったと後悔しています。

平時には浜の民政委員を務め、地元の顔役となり、雄勝町史にその名を刻みました。

一方の平山時永は、対する相手によって評価が様々で、故・阿部栄助氏は末永貞蔵の財産を狙う胡散臭い泥棒のように見ていましたし、義兄であった榧野定太郎なんぞはクソミソに貶したそうです。

その4男、故・榧野岩光氏は生前、虚々実々の駆け引きを演じた故か、評価すべき所は評価しつつも、“インテリジェントルマン”と、是とも皮肉とも採れる評価を下しています。

嘗て末永善助にムカデを押し付けられてイジメられたように、囲碁の有段者で痩身で頭脳明晰な人となり、祖父貞蔵の秘蔵アルバムにはまだ幼い養女、後に絶世の美女と持て囃されることになる、その片鱗を見せたその養女(次姉マサヨ次女)と共に、京都の渡月橋に佇む、恰もマフィアのドンを想起させる出で立ちと立ち居振舞いから、良くも悪くも腕に自信があり、豪胆で勇武に富む男達からは滅法嫌われていたようです。

末永貞蔵の子供達、伯父も母も叔父御も、平山時永に関しては余りいい顔をしません。

その中で婆ちゃん一人、平静かつ的確に平山時永を評価していました。敢えて中立の立場で物事を評価することの難しさを知った思いです。

しかしながら肝心要の祖父とは、不思議にも対立した形跡が無いのです。故・阿部栄助氏に鍵を求めたのは案外、片田舎の漁り人に任せても仕方無いから、こっちで有効な資産運用をするから私に預けて下さいよ、といったものだったのかも知れません。

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昭和5年(1930)3月、末永泰蔵3男貞蔵が石巻高等小学校を卒業します。

その時の卒業アルバムが遺されています。アルバムの裏にクラスメイトの名前を母方祖父が自筆で書き込んでいて、何故か自分には末永貞三と記入しています。

祖父は齢16の青春の入り口にあって、曾祖父の美男振りをDNAの一鞭毛たりとも受け継がなかったようで、いかにも田舎のおだづもっこ(石ノ巻弁、やんちゃっ子)という風体。ただし、色男何とやらの裏返しで、体躯と膂力と度胸には人一倍恵まれ、そして何より人の上に立って舵を執るべき才覚を備えていました。

12月20日、平山時永28歳と長兄末永泰蔵次女みつ24歳が婚姻届を石巻町役場に提出し、法律的に正しい夫婦となります。しかし、実子には恵まれませんでした。

昭和6年(1931)2月29日、登米郡登米町寺池字荒町の平山久之丞の従妹として平山本家の戸籍に入っていた平山留次郎次女マサヨが、3弟時永の姉として入籍しています。

平山マサヨ自身は石巻町湊字中ノ目、現在の湊小学校前歩道橋付近で質屋を営んでいたようです。加えて妊娠していたことが時永姉として籍を移した原因だったかも知れません。

3月27日、マサヨ31歳に次女が誕生します。父親の名前、素性は不明。後に平山時永・みつ夫妻に養われ、養女になります。



9月18日、母方曾祖父末永泰蔵が脳卒中で突如倒れます。眼を覚ますことは無いまま、2日後の20日0時2分、牡鹿郡石巻町湊字町裏3番地14号(石巻市吉野町1丁目)の自宅にて没します。享年53歳。菩提寺臨済宗妙心寺派長粛山慈恩院に葬られ、戒名は泰徳智寛居士。

これから、という時の突然の死でした。

死の直前、泰蔵は金屏風の裏に遺産は貞蔵に継がせる云々、と記していたそうですが、何者かによって消されてしまったと伝わります。

泰蔵からカネを借りていた輩は、もう死んだから時効(チャラ)ね、とばかりに掌返しでばっくれます。

逆に泰蔵がカネを借りていた連中は、死ねばチャラだなんて、そうは問屋が卸さない、早く返せ、とばかりに催促する有り様。

かくして、当主の死によって手塩にかけて育ててきた事業所は破産のやむ無きに至ります。

末永家中のお宝というお宝に資産差し押さえの赤札が貼られます。

3男貞蔵と3女志んはそれらが林立する中でかくれんぼに興じ、その赤札を間違って剥がしてしまいます。

末永泰蔵が毀誉褒貶、紆余曲折、波瀾万丈の人生の中で、一代にして築き上げた財産は、周囲の交錯する思惑の中で散佚しました。

10月1日、かくして3男貞蔵が跡を継ぐのですが、僅か17歳の若者に家督が務まる筈も無く、後見人が選ばれるのですが、阿部まつのと結婚して母方の義理の叔父となっていた故・阿部栄助氏21歳と、父方叔父で義兄の平山時永29歳がその座を巡って争いますが、結局昭和7年(1932)3月12日、平山時永に委任されます。

しかし、財産管理に関しては故・阿部栄助氏が司ることとなり、その鍵を厳重に保管します。

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昭和3年(1928)11月22日、私鉄宮城電気鉄道仙台石巻間が開通します。後に仙石線となる鉄道です。宮城電鉄仙台駅は当初、地下にありましたが、国鉄時代は地上に、JRとなってよりは再び地下化しています。尤も、他の路線の仙台駅ホームと比べると、仙石線ホームが何となく傍流感が否めないのは、石巻人の仙台に対する嫉妬から来るものか、元私鉄の故でしょうか。



12月13日、阿部卯一31又は32歳と末永ゑい24歳が法律上、晴れて夫婦となります。弱視を患った先妻の娘を除けば、長男(1927年産まれ)、長女、次男、次女、3男(1946年産まれ)の3男2女に恵まれます。



12月27日、石巻線の駅舎が落成します。

嘗て石巻駅は石巻線汽車駅と、仙石線電車駅で別々の駅舎になるという、全国でも紛らわしい、いや、珍しい状況にありました。平成2年(1990)7月21日、仙石線電車駅が石巻線汽車駅に繋がる形で駅舎が統合され、仙石線電車駅跡は広場と駐輪場になっています。



牡鹿半島の母方叔母一家に里子に出された末永泰蔵の5男荘蔵は、血縁ではない叔母の夫からは我が子のように可愛いがられながら、血が繋がっている筈の叔母とその従兄弟らから辛く当たられていました。

ある時、風邪を患い、高熱を出しますが、金が無いのか、医者を呼びたくないのか、医者自体いない浜だったのか、ろくな治療も受けられず、抛擲されます。

幸い熱は退いて風邪も治ったものの、高熱の後遺症で耳の聞えが悪くなり、一生聴力にハンディキャップを負います。このことが荘蔵の生涯に暗い影を落とすことになります。

昭和4年(1929)3月6日、末永泰蔵と3妻大村ふくの婚姻届が石巻町役場に提出され、二人はようやっと夫婦になります。共に50歳の年齢を迎える年で、良い機会と判断したのでしょうか。

5月20日、末永泰蔵一家は牡鹿郡石巻町湊字本町82番地から町裏3番地14号(石巻市吉野町1丁目)、国道398号線沿いの湊小学校、慈恩院、多福院に囲まれた辺りに転居し、又もや町役場に届け出ています。

この土地は昭和23年(1948)4月13日に異母弟で娘婿の平山時永の所有になります。



昭和4年(1929)5月、14代石巻町長に石母田正輔が再任されます。



平山留次郎の3女フヂは恐らく継母みすの縁で東京に奉公に出ていましたが、そこで劇作家の北村喜八(1898~1960)と事実婚し、4人の男子に恵まれていましたが、8月12日13時45分、東京府東京市本郷区駒込曙町3番地(東京都文京区本駒込1丁目、2丁目)、国道17号線旧白山通りに面した場所にて、早世します。享年26歳。

法的な婚姻関係を結ばなかったため、北村家の墓には入れず、平山家菩提寺たる慈恩院に葬られ、戒名は釈尼妙諦。墓碑銘には北村フジと刻まれています。

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大正15年(1926)12月25日、かねてより体調を崩し、ともすれば危険な状態が続いていた123代大正天皇が崩御します。享年48歳。摂政皇太子として父帝に代わって政務を行使していた長男裕仁親王が124代昭和天皇として即位し、元号は昭和と改元されます。

僅か15年に満たない、日本史上最も短い時代となってしまった大正時代は更に、45年の明治、64年の昭和という史上最も長く続いた元号の一位と二位に挟まれてしまったが故に、大正産まれの人達は明治産まれと昭和産まれとの狭間で、些かならず寂寞感を感じているんだそうです。

NHKの朝ドラ「すずらん」(平成11年・1999年)の主人公常盤萌(@柊瑠美さん、遠野凪子さん、倍賞千恵子さん)が大正産まれであることを知った婆ちゃんが、そのことを染々語りながら毎朝の楽しみにしていたのを記憶しています。

奇しくも大正天皇と同い年に産まれた末永泰蔵は時代の移り変わりに際し、どのように感じたかは興味あるところですが、ここに新たに即位した新帝を歴史学的に評価するに当たっては、明治天皇以来の賢帝と評価するものから、天然無為の独裁者、内外多くの人命を死に追い遣った戦争犯罪者などなど、論者のイデオロギーの立ち位置によって評価は様々です。

しかしながら64年という治世、89歳という長寿の故に、近頃やっと編纂が完了した「昭和天皇紀」、おいらはまだ読んでない、が膨大な冊数であることに加え、西暦2019年の今年は誰が何と言おうと昭和天皇没後30年の節目の年であり(違うの?)、まだ没後30年しか経っていない昭和天皇をあれこれ評価するのは極めて困難、というか、はっきり言ってお手上げです。ドラマで昭和天皇を演じることさえ憚られるのですから。とはいえ、明治天皇や孝明天皇だって難しいですけどね。

この年は石巻町中瀬に村上造船所が創設されます。



更にこの年は、後に末永善助の養女となる朝子(あさこ)が誕生します。

昭和2年(1927)、阿部卯一、末永ゑい夫妻に長男が誕生します。

昭和3年(1928)6月25日、曾祖母末永志めの父親・高祖父阿部千松が没します。享年70歳。戒名は興隆軒寿翁自照居士。長姉志めの12歳下、末子まつのの8歳上の長男清之丞(1893~1977)が家督になります。

熊沢浜阿部家は海難事故と思われる者を除いては基本的に長寿の家系であり、清之丞の妻みゆきも100歳を超えた時に雄勝町から表彰を受けた程です。40代で亡くなった曾祖母志めは色んな意味で短命だったのです。

名前で気になったのですが、戒名に軒がつくというのは中々珍しいことです。院とか寺というのは見て来ましたが。
しかも100年以上も前の辺遠の海浜に、みゆきという、現代でも通じる名前を命名するセンスに、驚嘆と感銘を受けます。とかく意味不明で読めない名前をつけたがる風潮を見るにつけ。

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大正14年(1925)11月、中瀬と湊の間を埋め立てる計画が持ち上がりますが、これも実現しませんでした。そんなことしたら恐らく日本五指の暴れ大河・北上川によって門脇側が月のように抉れたことでしょう。



大正15年(1926)2月20日、小牛田平山家戸主平山久之丞が登米郡登米町寺池荒町(登米市登米町)に転籍します。

久之丞の次女と3女が登米町内に嫁いでおり、その伝手を頼ったものでしょうが、引っ越しに至った経緯やその後については不明ですが、菩提寺が曹洞宗金剛山真証寺であることは変化なく継続しています。

小牛田平山家があった場所は現在、渡辺採種場本社になっていて、末裔一族は各地に分散し、些か久の字を偏諱にしたように見受けられます。その子孫の一人が自身のルーツを出来るだけ調べてまとめ上げ、親戚各家に配布しています。

2月25日、平山留次郎と大平みすが婚姻届を石巻町役場に提出し、法律上も夫婦となります。家族の愛とか絆とか、まぁそれもあったでしょうが、一番なのは死後の財産相続を円滑にする目的かと思います。妻平山ではなく、愛人大平ならばみすの財産は平山時永には移らない可能性もあったでしょうから。

4月25日22時30分、高祖父平山留次郎が本籍地牡鹿郡石巻町門脇字浜横町13番地にて没します。享年67歳。長粛山慈恩院に葬られ、戒名は成覚明光信士。

7月7日17時30分、平山すゑことみすが平山家本籍地、門脇浜横町で没します。享年59歳。長粛山慈恩院の平山家墓地に葬られ、戒名は真室智明信女。

7月20日、両親、といっても実父と継母ですが、その葬儀も終え、一段落ついたところで平山時永は家督相続の届け出を石巻町役場に提出しています。

末永泰蔵の3男貞蔵は尋常小学校を卒業すると、旧制中学ではなく、石巻高等小学校に進学します。

貞蔵はこの頃、同級生らと野球に明け暮れる日々を送っていましたが、帰りが遅くなったのを継母ふくに見咎められ、土蔵に押し込められてしまいます。

土蔵の中で貞蔵が途方に暮れて泣いていると、父泰蔵がこっそりと入って来て、握り飯を渡します。

祖父貞蔵の継母からの虐めと、父親の慈愛を受けた、という内容のエピソードですが、この時代はまだまだ男尊女卑が当たり前だったというのに、後からやって来たのちぞえの横暴を、家督が何も言えないという状況下に母方実家末永家はあった訳でして、“をなごの持ちたる家”が志めの死と泰蔵の再婚によって相当の変質をきたしていたことがわかります。

こういったこともあり、貞蔵は継母ふくを憎悪すること並々ではなく、家族の誰に対しても深く情をかけた祖父が唯一、その死を願う程でした。

79に続きます。

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