東武皇帝即位説については出所不明、荒唐無稽の説に過ぎないと一蹴する者もいれば、いやあったと主張する者ありで、幕末だけにとどまらない、東北史最大のタブーと化しています。
おいらは異説、奇説、珍説を頗る好む性分なので、こういった侃侃諤諤百家争鳴喧喧囂囂はどんと来やがれなんですが、奥羽越31藩同盟成立の思想的肉付けを果たした大槻磐渓清崇のルーツを尋ね、同時にそれ迄の東北の歴史を総浚いした時、同盟成立の過程と、一見荒唐無稽とも思える東武皇帝即位説は、これまでの東北に流れる敗北と征服の歴史へのルサンチマン根性が結実したものとして、ある程度真実味を帯びたものなのではないかと判断せざるを得ないのです。
愛瀰詩(エミシ、「日本書紀」による意外な表現)のリーダーとして初代神武天皇と戦い、敗れた登美の長髄彦。その兄と伝わる安日彦の末裔が安倍貞任であり、その子孫を名乗ることは東北において極めて畏敬の念をもって迎え入れられていました。
また、東北エミシのリーダーとなったアテルイ公の子孫も照井姓を名乗ったらしく、その反骨気鋭の遺伝子が脈々と受け継がれて来ました。
旧葛西領に当たる宮城県北岩手県南にかけての地域は、アテルイ公、安倍貞任、藤原泰衡、その後の葛西一族の最期と、古今よりとかく反逆者を良く出す地域でもありました。
そして、その葛西氏を侵した伊達氏も今や反逆者の首魁にあります。
清原家衡も含め、東北の英雄達の反骨気鋭に代々対峙してきた清和源氏河内流の武士の血筋がやがて、ある時関東に突如勃興した平将門の新皇政権、地方の自治と独立の雛型と先魁、試行錯誤をヒントに、独立自治地方武士政権たる鎌倉幕府を興し、室町足利幕府がそれを引き継ぎ、江戸徳川幕府は更にそれを全国化したものとなり、明治維新の真相は、その武家政権に奪われた朝廷等の反幕府勢力がない交ぜになっての、権力の奪還、移動と裏読みすることが出来ます。
そもそも大槻氏の家系は佳内子さんの亘理伊達氏やみきおさんの大条伊達氏のような伊達氏分家、片倉氏や但木氏、遠藤氏のような伊達氏譜代のそれとは異なるのです。
系図に依ればその血筋は、葛西2代当主清親の庶流の末裔が、千葉氏の分家薄衣氏からの養子を迎えての子孫と記す、バリバリの旧葛西氏家臣なのです。といっても系図には誤記や仮冒(誤魔化しや粉飾、でっち上げ)があって当然なので正確なところは不明なのですが、大槻磐渓の一族が我らは葛西の血筋なり、と強く意識していたことは想像に難しくありません。というのも、大槻磐渓の大伯母キハの夫となった胆沢郡新里村(岩手県奥州市胆沢区若柳)肝入の第4子次男千田与五郎忠勝は、第三章で触れますが、大槻安左衛門常治、茂根(しげもと)と改名を経て寺崎伝九郎清慶(1700〜76)と名乗り、葛西氏の無念の彼方に埋没し、消された声なき声と歴史を拾い上げ、葛西氏研究中興の祖として様々な書籍を著した学識者だったのです。
24に続きます。
にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]
おいらは異説、奇説、珍説を頗る好む性分なので、こういった侃侃諤諤百家争鳴喧喧囂囂はどんと来やがれなんですが、奥羽越31藩同盟成立の思想的肉付けを果たした大槻磐渓清崇のルーツを尋ね、同時にそれ迄の東北の歴史を総浚いした時、同盟成立の過程と、一見荒唐無稽とも思える東武皇帝即位説は、これまでの東北に流れる敗北と征服の歴史へのルサンチマン根性が結実したものとして、ある程度真実味を帯びたものなのではないかと判断せざるを得ないのです。
愛瀰詩(エミシ、「日本書紀」による意外な表現)のリーダーとして初代神武天皇と戦い、敗れた登美の長髄彦。その兄と伝わる安日彦の末裔が安倍貞任であり、その子孫を名乗ることは東北において極めて畏敬の念をもって迎え入れられていました。
また、東北エミシのリーダーとなったアテルイ公の子孫も照井姓を名乗ったらしく、その反骨気鋭の遺伝子が脈々と受け継がれて来ました。
旧葛西領に当たる宮城県北岩手県南にかけての地域は、アテルイ公、安倍貞任、藤原泰衡、その後の葛西一族の最期と、古今よりとかく反逆者を良く出す地域でもありました。
そして、その葛西氏を侵した伊達氏も今や反逆者の首魁にあります。
清原家衡も含め、東北の英雄達の反骨気鋭に代々対峙してきた清和源氏河内流の武士の血筋がやがて、ある時関東に突如勃興した平将門の新皇政権、地方の自治と独立の雛型と先魁、試行錯誤をヒントに、独立自治地方武士政権たる鎌倉幕府を興し、室町足利幕府がそれを引き継ぎ、江戸徳川幕府は更にそれを全国化したものとなり、明治維新の真相は、その武家政権に奪われた朝廷等の反幕府勢力がない交ぜになっての、権力の奪還、移動と裏読みすることが出来ます。
そもそも大槻氏の家系は佳内子さんの亘理伊達氏やみきおさんの大条伊達氏のような伊達氏分家、片倉氏や但木氏、遠藤氏のような伊達氏譜代のそれとは異なるのです。
系図に依ればその血筋は、葛西2代当主清親の庶流の末裔が、千葉氏の分家薄衣氏からの養子を迎えての子孫と記す、バリバリの旧葛西氏家臣なのです。といっても系図には誤記や仮冒(誤魔化しや粉飾、でっち上げ)があって当然なので正確なところは不明なのですが、大槻磐渓の一族が我らは葛西の血筋なり、と強く意識していたことは想像に難しくありません。というのも、大槻磐渓の大伯母キハの夫となった胆沢郡新里村(岩手県奥州市胆沢区若柳)肝入の第4子次男千田与五郎忠勝は、第三章で触れますが、大槻安左衛門常治、茂根(しげもと)と改名を経て寺崎伝九郎清慶(1700〜76)と名乗り、葛西氏の無念の彼方に埋没し、消された声なき声と歴史を拾い上げ、葛西氏研究中興の祖として様々な書籍を著した学識者だったのです。
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