2019年02月

東武皇帝即位説については出所不明、荒唐無稽の説に過ぎないと一蹴する者もいれば、いやあったと主張する者ありで、幕末だけにとどまらない、東北史最大のタブーと化しています。

おいらは異説、奇説、珍説を頗る好む性分なので、こういった侃侃諤諤百家争鳴喧喧囂囂はどんと来やがれなんですが、奥羽越31藩同盟成立の思想的肉付けを果たした大槻磐渓清崇のルーツを尋ね、同時にそれ迄の東北の歴史を総浚いした時、同盟成立の過程と、一見荒唐無稽とも思える東武皇帝即位説は、これまでの東北に流れる敗北と征服の歴史へのルサンチマン根性が結実したものとして、ある程度真実味を帯びたものなのではないかと判断せざるを得ないのです。



愛瀰詩(エミシ、「日本書紀」による意外な表現)のリーダーとして初代神武天皇と戦い、敗れた登美の長髄彦。その兄と伝わる安日彦の末裔が安倍貞任であり、その子孫を名乗ることは東北において極めて畏敬の念をもって迎え入れられていました。

また、東北エミシのリーダーとなったアテルイ公の子孫も照井姓を名乗ったらしく、その反骨気鋭の遺伝子が脈々と受け継がれて来ました。

旧葛西領に当たる宮城県北岩手県南にかけての地域は、アテルイ公、安倍貞任、藤原泰衡、その後の葛西一族の最期と、古今よりとかく反逆者を良く出す地域でもありました。

そして、その葛西氏を侵した伊達氏も今や反逆者の首魁にあります。

清原家衡も含め、東北の英雄達の反骨気鋭に代々対峙してきた清和源氏河内流の武士の血筋がやがて、ある時関東に突如勃興した平将門の新皇政権、地方の自治と独立の雛型と先魁、試行錯誤をヒントに、独立自治地方武士政権たる鎌倉幕府を興し、室町足利幕府がそれを引き継ぎ、江戸徳川幕府は更にそれを全国化したものとなり、明治維新の真相は、その武家政権に奪われた朝廷等の反幕府勢力がない交ぜになっての、権力の奪還、移動と裏読みすることが出来ます。

そもそも大槻氏の家系は佳内子さんの亘理伊達氏やみきおさんの大条伊達氏のような伊達氏分家、片倉氏や但木氏、遠藤氏のような伊達氏譜代のそれとは異なるのです。

系図に依ればその血筋は、葛西2代当主清親の庶流の末裔が、千葉氏の分家薄衣氏からの養子を迎えての子孫と記す、バリバリの旧葛西氏家臣なのです。といっても系図には誤記や仮冒(誤魔化しや粉飾、でっち上げ)があって当然なので正確なところは不明なのですが、大槻磐渓の一族が我らは葛西の血筋なり、と強く意識していたことは想像に難しくありません。というのも、大槻磐渓の大伯母キハの夫となった胆沢郡新里村(岩手県奥州市胆沢区若柳)肝入の第4子次男千田与五郎忠勝は、第三章で触れますが、大槻安左衛門常治、茂根(しげもと)と改名を経て寺崎伝九郎清慶(1700〜76)と名乗り、葛西氏の無念の彼方に埋没し、消された声なき声と歴史を拾い上げ、葛西氏研究中興の祖として様々な書籍を著した学識者だったのです。

24に続きます。

にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]

一応東北諸藩の中では最も石高が高いゆえ、リーダー的存在となった仙台藩ですが、連年頻発する飢饉や疫病、災害や慢性的な財政危機が相呼応してその勢力は弱体化、深刻な藩内の対立、新式武器の購入も良く言えばお人好し、悪く言えば世間知らずのアッペ(愚か者)で、まんまと不良品を買わされる有様で、正に張子の虎と堕していました。

そうした中で細谷直英率いる衝撃隊、通称からす組は孤軍奮闘して連戦連勝の記録で新政府官軍どもに恐怖の記憶を刻みつけていました。

そんな精強なからす組はやがて、仙台藩の先陣部隊となっていきます。と書けば恰好は良いが、頼みの綱となりながらも良い様に扱き使われている感は否めません。何せ会津藩麾下の新撰組と同じ、というかそれ以下の、正式な武士の集団ではないからです。何時の時代も、何処の土地でも、活躍する異形者は相反する規準に挟まれてしまうものです。



慶応4年(1868)5月15日、上野の天台宗東叡山寛永寺円頓院を本陣として、輪王寺宮公現入道親王を旗印に、彰義隊が大規模に挙兵します。彰義隊は不忍池の北東岸に布陣しますが、長州藩士でトコトンヤレ節や日本陸軍の祖としてよりも12代将軍徳川家慶ばりのデカ頭のほうが印象ある大村益次郎永敏の戦術でわずか一日で鎮圧されます。

彰義隊が布陣した場所に死後銅像が建つ西郷吉之助隆永は、やはり生前の写真が残ってない大村が示した布陣図を見るや、「こぃは、皆殺しにすっどが?」と驚嘆しています。



彰義隊に担ぎ上げられた輪王寺宮公現入道親王は無事逃げることに成功し、5月25日、開陽丸を旗艦として未だ太平洋側東海岸の制海権を握る旧江戸幕府海軍榎本艦隊の手引きで東北へ逃れます。
その際、榎本武揚は、“南北朝時代の再現のようなマネは控えますよう”とクギを刺しています。

実は奥羽越31藩同盟は輪王寺宮公現入道親王を盟主に就任させた後、東北独立政権の“天皇”として、関白一条忠良の娘を伊達慶邦の養女として皇后に迎え、即位させる計画があったとされます。

このような中で5月、牡鹿郡湊村、現在の石巻市川口町3丁目に当たる場所に砲撃拠点である定灯場(台場)が設けられています。

仙台で軟禁状態にあった奥州鎮撫総督府の面々は6月3日、奉行但木成行を巧いこと言い包めて仙台を脱出し、同盟派と総督府派で藩内が真っ二つの盛岡藩に移動します。

このことは奥羽越列31藩同盟が新政府官軍と有利に話を進めるための外交カードを失う結果となります。

6月6日、輪王寺宮公現入道親王は会津藩に入ります。

ここに輪王寺宮は6月15日、東武皇帝陸運(むつとき、くがみち)として即位、元号が大政又は延寿と定められたと云います。

23に続きます。

にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]

慶応4年(1868)5月1日、白河口の戦いが勃発。会津藩の加勢に参戦した姉歯武之進景隆が流れ弾に当たり、戦死します。享年25歳。また5月2日、斎藤善次右衛門有房が旧葛西家臣末裔にして政商斎善8代当主としてではなく、仙台藩大番士広間詰の武士として戦死しています。享年42歳。

細谷直英は寡兵の新政府官軍が数で勝る会津藩他東北諸藩連合を散々に打ち破るのに衝撃を受け、こいづは隠密稼業やってる場合でねぇ、とばかりに、密偵時代に培った人脈、ヤクザや侠客、猟師、馬丁といったアウトロー達を須賀川で募兵し、その名も衝撃隊という民兵組織を立ち上げます。その印半纏に3本足の鴉をあしらったことに因み、別名からす組と呼ばれ、武士よりも武士らしい働きで新政府官軍どもを恐れさせます。

世良修蔵惨殺で後戻り出来なくなったか、否寧ろこれを好機と捉えたか、5月3日、奥羽越31藩同盟、この時点には奥羽25藩での同盟が正式に発足します。

変り種では老中首座だった板倉勝静や外国事務総裁小笠原長行(ながみち)といった旧江戸幕府要人が名を連ね、下総請西(じょうさい)藩主林忠崇(最後まで生存した大名として名高い1848〜1941)に至っては藩主なのに脱藩して参加しています。

家老に抜擢された河井継之助秋義主導で藩政改革を成し遂げた長岡藩牧野氏の元に、新政府官軍の代表者が会談に訪れます。家老河井秋義に対するのは、土佐藩士岩村精一郎高俊。
河井継之助と会談した相手がこの“豎子にして冠する”が良く似合う馬鹿野郎なんかではなく、長州藩士山県狂介有朋とか薩摩藩士黒田了介清隆であれば少しはマシだったと言われますが(そうには思えんが)、長岡藩家老としての意見を全く聞き入れない岩村高俊の傲慢不遜な態度に、継之助は正論もてバッサリ一刀両断し、結果、交渉は決裂し、5月4日、長岡藩はやむなく奥羽列藩同盟に加盟します。5月6日には久米幸太郎盛治の出身地・新発田藩溝口氏などが加盟し、同盟加入藩は最終的に31となります。

奥羽越31藩同盟は盟主、総督、参謀という人事編成で、列藩会議を最高意思決定機関とし、白石に公議府を、福島に軍事局を置く体制を採り、この時点で総督に仙台藩主伊達慶邦、米沢藩主上杉斉憲、参謀に板倉勝静、小笠原長行が就任し、盟主に輪王寺宮公現入道親王を推戴させる計画だったようです。とはいえ、急拵えで寄せ集めの感は否めず、秋田藩などは輪王寺宮を推戴するなど足利尊氏の悪例だろうと難色を示したり、官軍側ながら取り敢えず参加した弘前藩や、二股膏薬で参加した藩もあり、組織内は脆弱かつ流動的でした。

22に続きます。

にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]

慶応4年(1868)閏4月11日、刈田郡白石城(白石市)で仙台藩伊達氏、米沢藩上杉氏、盛岡藩南部氏、中村藩相馬氏、二本松藩丹羽氏、一関藩田村氏、三春藩秋田氏、福島藩板倉分家などが集い、東北諸藩の会議が催され、会津藩と庄内藩の助命嘆願が採択されます。

実はかなり早い時期から、仙台藩主伊達慶邦の元では、奉行但木成行が政治的に、養賢堂指南統取玉虫誼茂が外交的に主導し、藩の漢学者大槻磐渓清崇とそれに共鳴した盛岡藩士那珂通高らが思想的肉付けをし、東北諸藩に密使を送り、正に坂本龍馬媒酌の薩長同盟に優る大同団結同盟結成を呼び掛けていました。いわく、薩長は幼帝を欺く偽官軍で横暴を極めている、この上は東方より真の勤王の旗を挙げ、東北諸藩の手で真の王政復古を成し遂げようと。とはいえ、当初は軍事同盟というよりは会津藩と庄内藩を擁護し、助命する目的からでした。

大槻磐渓の3男で言語学者、仙台一高初代校長となる文彦清復(きよもと?1847〜1928)が、密使として主に北東北で活躍しています。
また、石巻鋳銭場で鋳銭方を務め、そこでの火事に居合わせていたかどうかは不明ですが、仙台藩士細谷十太夫直英(1839/45〜1907)も密使として南東北を駆けずり回っています。

閏4月20日、福島市北町の金沢屋に宿泊する世良修蔵が秋田の大山綱良に、“奥羽は全て敵である”と宛てて記した密書が漏洩し、激昂した栗原郡姉歯村(栗原市金成)の仙台藩瀬上隊軍監・姉歯武之進景隆らが金沢屋を夜襲します。

東北も女も落としてみせると豪語する世良修蔵は、持っていたピストルのひきがねが不発となったところをフルボッコされ、斬首されます。

この時、表戸口から仙台藩軍事局参政書記・末永縫殿之允なる人物が襲撃に参加しています。

この人物は一体どこの士分だったのか、渡波末永の元祖と似たような名前だけに興味あります。尤も、渡波末永縫殿は士分ではなく、町人身分でしたが。

閏4月23日、秋田藩佐竹氏、弘前藩津軽氏、八戸藩波木井南部氏、松前藩松前氏らが白石城での奥羽列藩会議に参加します。

また同日、榎本武揚は勝海舟に函館に行きたい旨相談していますが、反対されています。

奥羽越31藩同盟と蝦夷共和国、その萌芽をこの一日に見出すことが出来ます。



閏4月29日、勝海舟は、彰義隊が天台宗東叡山寛永寺円頓院貫首・日光輪王寺門跡・輪王寺宮公現入道親王(北白川宮能久親王・1847〜95)を奉戴擁立し、陸奥同盟と結んで戦争すべく、江戸で宣伝工作をしていると、日記に記しています。

21に続きます。

にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]

慶応4年(1868)3月23日、奥州鎮撫軍が仙台入りし、世良修蔵という、幕末史上最も度し難い成り上がりの阿呆が、仙台藩主伊達慶邦、奉行(家老)但木土佐成行、養賢堂指南統取・玉虫左太夫誼茂らに対し、何様感覚で傍若無人に振る舞い、商人を恫喝脅迫したり、婦女を暴行陵辱したり、仙台藩を愚弄する作り歌を大声で歌い、剰え酒と色を要求していました。

当初は薩摩藩士黒田了介清隆、長州藩士品川弥二郎が派遣される予定だったと言われますが、江戸で肩透かしを喰らった新政府官軍が革命の真義たる富と財産の強奪を東北諸藩に求めてる側面を考えると、それも微妙なんだよな。その品川弥二郎をして世良修蔵は甚だ激兇だから、と人で無しのような評価を下しているのですから呆れ返ります。

奥州鎮撫総督府の事実上のトップであった大山綱良と世良修蔵は、会津藩が徹底抗戦を主張しているからと、ろくすっぽ話し合いもせず仙台藩に討伐を命令します。しかし、心情的に会津寄りである仙台藩は秘かに降伏を勧めて穏便に解決しようと試みるのですが、会津藩抗戦派に拒絶され、捗々しくありません。

そうこうしている内に4月10日、朝敵に追い遣られた会津藩と庄内藩が同盟を結びます。

仙台藩の斎善家と並ぶ東北随一の政商・本間家を財政的支柱とする庄内藩は四民一致団結し、侮れぬ富国強兵軍団となっていました。

この時、会庄同盟側はプロイセン王国(後のドイツ)に対し、飛び地である蝦夷地(北海道)の根室と留萌を割譲するから戦争に協力してくれと要請します。

プロイセン王国側は会庄同盟の要請に対し、協力しようという意見もありましたが、結局断っています。

このことは日本史にとって極めて危険かつ幸運な出来事でした。

おいらは東北贔屓、会津贔屓ですが、こいつだけは甚だいただけない。何故なら日本国内に外国の領地が発生する、謂わば売国行為だからです。

これに対し、15代将軍徳川慶喜は、フランスから軍事協力を提案されていますが、さしもの慶喜は介入、征服、植民地となっていく可能性を恐れ、断っています。



4月11日、新政府官軍は江戸城無血開城における勝海舟と西郷吉之助の協定に基づき、旧江戸幕府軍艦の引き渡しを求めますが、海軍副総裁榎本武揚は拒否。勝海舟の説得を受けて4月17日、一部引き渡しに応諾します。



4月24日、仙台藩は領内から選ばれた武士を石巻の沿岸部に配置して警備させます。リーダー格は遠田郡涌谷領主(涌谷町)涌谷伊達邦隆で、本陣は曹洞宗日輪山多福院。その他の領主達も寺院や商家を宿所とします。

20に続きます。

にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]

↑このページのトップヘ