1346年(北貞和2年、南興国7年)
後醍醐天皇(皇族)大和吉野にて崩御、享年52歳
護良親王(皇族)牡鹿郡湊で没する?享年39歳
北畠顕家(公家)摂津阿倍野で戦死、享年21歳
新田義貞(武家)越前藤島で討死、享年37歳
足利尊氏(武家・42歳)奥州管領に吉良貞家と畠山国氏を任命
斯波家兼(武家・39歳)兄高経が越前国を再び平定
葛西清貞(武家・56歳)護良親王の臨終に関わる?
1月、後任の奥州管領が任命され、吉良貞家と畠山国氏の2頭立て、ツートップ体制となります。
畠山国氏は伊勢国守護を解任されて陸奥国安達郡二本松(福島県二本松市)に移動した高国の長男で、まだ年齢も若いため、高国が後見に付きます。なら高国を任命しろよって話なんですが。
従って年配の吉良貞家がイニシアチブを執る体制に自然となっていったようです。
奥州管領2頭立て制の発端は恐らく、直義派と尊氏師直派の対立にあったと思われます。
これを受けたか同じ月、信夫郡(福島県伊達市)の佐藤性妙が数々の軍功に基づき、恩賞を求めています。
これにより性妙には伊勢国内(三重県)に所領を与えられたようです。
3月16日、北畠顕信は岩手郡滴石城(岩手県雫石町)を拠点に構えていましたが、北朝幕府軍の攻撃を受けます。
12月8日、南朝元号は正平と改元されます。
12月21日、吉良貞家、畠山国氏宛の足利尊氏の御教書によれば、八戸南部政長が北朝幕府方に寝返ったと記します。しかし、その後も政長は南朝方として活動しており、誤報と見られます。
北朝幕府方は南部一族に降伏を再三再四勧告していたようですが、無視ないし拒否していました。
この年は大塔宮護良親王が没したと、石巻の伝承に云われます。享年39歳。
頼った葛西氏が積極的に南朝の忠臣として忠節を尽くしながら、結局手の平を返すように北朝に鞍替えしてしまった様をどのように見ていたのでしょうか。それとも護良親王はやはり、鎌倉で惨殺されていたのであるから、所詮考えることさえナンセンスなのでしょうか。
状況証拠をいくら積み重ねても遺骨や自筆など、確実な痕跡が無ければ話にならないのでしょうが、護良親王やその従者の子孫と称する家系が各地に散見されたり、護良親王に因んだと思われる地名が濫立していたり、廃れたとはいえ、暴れ御輿が廻る祭礼があったことを想うにつけ、所詮伝説だよと、あっさり片付けていいのだろうかという懸念もあるにはあるのです。
しかも其処は、終生南朝一筋ってんならともかく、わずかな期間で退転した大名の領地の中での出来事なのですから。
寧ろ義経袖の渡し伝説とは、室町時代たけなわの時にも述べますが、護良親王逃避行を晦ますためのブラフのようにも思えるのです。
余談ついでに、南北朝時代は名将勇者であっても行方不明になったり、ある日忽然と現れたりすることが散見され、それもこの時代の魅力であろうかと、おいらは思っています。
後醍醐天皇(皇族)大和吉野にて崩御、享年52歳
護良親王(皇族)牡鹿郡湊で没する?享年39歳
北畠顕家(公家)摂津阿倍野で戦死、享年21歳
新田義貞(武家)越前藤島で討死、享年37歳
足利尊氏(武家・42歳)奥州管領に吉良貞家と畠山国氏を任命
斯波家兼(武家・39歳)兄高経が越前国を再び平定
葛西清貞(武家・56歳)護良親王の臨終に関わる?
1月、後任の奥州管領が任命され、吉良貞家と畠山国氏の2頭立て、ツートップ体制となります。
畠山国氏は伊勢国守護を解任されて陸奥国安達郡二本松(福島県二本松市)に移動した高国の長男で、まだ年齢も若いため、高国が後見に付きます。なら高国を任命しろよって話なんですが。
従って年配の吉良貞家がイニシアチブを執る体制に自然となっていったようです。
奥州管領2頭立て制の発端は恐らく、直義派と尊氏師直派の対立にあったと思われます。
これを受けたか同じ月、信夫郡(福島県伊達市)の佐藤性妙が数々の軍功に基づき、恩賞を求めています。
これにより性妙には伊勢国内(三重県)に所領を与えられたようです。
3月16日、北畠顕信は岩手郡滴石城(岩手県雫石町)を拠点に構えていましたが、北朝幕府軍の攻撃を受けます。
12月8日、南朝元号は正平と改元されます。
12月21日、吉良貞家、畠山国氏宛の足利尊氏の御教書によれば、八戸南部政長が北朝幕府方に寝返ったと記します。しかし、その後も政長は南朝方として活動しており、誤報と見られます。
北朝幕府方は南部一族に降伏を再三再四勧告していたようですが、無視ないし拒否していました。
この年は大塔宮護良親王が没したと、石巻の伝承に云われます。享年39歳。
頼った葛西氏が積極的に南朝の忠臣として忠節を尽くしながら、結局手の平を返すように北朝に鞍替えしてしまった様をどのように見ていたのでしょうか。それとも護良親王はやはり、鎌倉で惨殺されていたのであるから、所詮考えることさえナンセンスなのでしょうか。
状況証拠をいくら積み重ねても遺骨や自筆など、確実な痕跡が無ければ話にならないのでしょうが、護良親王やその従者の子孫と称する家系が各地に散見されたり、護良親王に因んだと思われる地名が濫立していたり、廃れたとはいえ、暴れ御輿が廻る祭礼があったことを想うにつけ、所詮伝説だよと、あっさり片付けていいのだろうかという懸念もあるにはあるのです。
しかも其処は、終生南朝一筋ってんならともかく、わずかな期間で退転した大名の領地の中での出来事なのですから。
寧ろ義経袖の渡し伝説とは、室町時代たけなわの時にも述べますが、護良親王逃避行を晦ますためのブラフのようにも思えるのです。
余談ついでに、南北朝時代は名将勇者であっても行方不明になったり、ある日忽然と現れたりすることが散見され、それもこの時代の魅力であろうかと、おいらは思っています。
元祖松川氏の系図によれば、磐井郡松川館主(岩手県一関市東山町松川)松川隼人正正村に長男正胤が誕生します。母は千葉越前守広胤の娘。千葉広胤については不明。
1347年7月18日、奥州管領吉良貞家・畠山国氏は、白河結城顕朝らを従え、伊達行宗の伊達郡霊山城、藤田城(福島県国見町)、田村荘司宗季の田村郡宇津峰城(福島県郡山市)といった南朝拠点を攻撃、陥落せしめます。
この時鎌倉に暇していた石塔義房が管領方として参戦しています。
伊達行宗は領内の別の城に逃れます。
65に続きます。
にほんブログ村 日本史[https://history.blogmura.com/his_nihon/ranking.html ]
1347年7月18日、奥州管領吉良貞家・畠山国氏は、白河結城顕朝らを従え、伊達行宗の伊達郡霊山城、藤田城(福島県国見町)、田村荘司宗季の田村郡宇津峰城(福島県郡山市)といった南朝拠点を攻撃、陥落せしめます。
この時鎌倉に暇していた石塔義房が管領方として参戦しています。
伊達行宗は領内の別の城に逃れます。
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