2017年11月

1346年(北貞和2年、南興国7年)

後醍醐天皇(皇族)大和吉野にて崩御、享年52歳

護良親王(皇族)牡鹿郡湊で没する?享年39歳

北畠顕家(公家)摂津阿倍野で戦死、享年21歳

新田義貞(武家)越前藤島で討死、享年37歳

足利尊氏(武家・42歳)奥州管領に吉良貞家と畠山国氏を任命

斯波家兼(武家・39歳)兄高経が越前国を再び平定

葛西清貞(武家・56歳)護良親王の臨終に関わる?



1月、後任の奥州管領が任命され、吉良貞家と畠山国氏の2頭立て、ツートップ体制となります。

畠山国氏は伊勢国守護を解任されて陸奥国安達郡二本松(福島県二本松市)に移動した高国の長男で、まだ年齢も若いため、高国が後見に付きます。なら高国を任命しろよって話なんですが。

従って年配の吉良貞家がイニシアチブを執る体制に自然となっていったようです。

奥州管領2頭立て制の発端は恐らく、直義派と尊氏師直派の対立にあったと思われます。

これを受けたか同じ月、信夫郡(福島県伊達市)の佐藤性妙が数々の軍功に基づき、恩賞を求めています。

これにより性妙には伊勢国内(三重県)に所領を与えられたようです。

3月16日、北畠顕信は岩手郡滴石城(岩手県雫石町)を拠点に構えていましたが、北朝幕府軍の攻撃を受けます。

12月8日、南朝元号は正平と改元されます。

12月21日、吉良貞家、畠山国氏宛の足利尊氏の御教書によれば、八戸南部政長が北朝幕府方に寝返ったと記します。しかし、その後も政長は南朝方として活動しており、誤報と見られます。
北朝幕府方は南部一族に降伏を再三再四勧告していたようですが、無視ないし拒否していました。

この年は大塔宮護良親王が没したと、石巻の伝承に云われます。享年39歳。
頼った葛西氏が積極的に南朝の忠臣として忠節を尽くしながら、結局手の平を返すように北朝に鞍替えしてしまった様をどのように見ていたのでしょうか。それとも護良親王はやはり、鎌倉で惨殺されていたのであるから、所詮考えることさえナンセンスなのでしょうか。

状況証拠をいくら積み重ねても遺骨や自筆など、確実な痕跡が無ければ話にならないのでしょうが、護良親王やその従者の子孫と称する家系が各地に散見されたり、護良親王に因んだと思われる地名が濫立していたり、廃れたとはいえ、暴れ御輿が廻る祭礼があったことを想うにつけ、所詮伝説だよと、あっさり片付けていいのだろうかという懸念もあるにはあるのです。
しかも其処は、終生南朝一筋ってんならともかく、わずかな期間で退転した大名の領地の中での出来事なのですから。

寧ろ義経袖の渡し伝説とは、室町時代たけなわの時にも述べますが、護良親王逃避行を晦ますためのブラフのようにも思えるのです。

余談ついでに、南北朝時代は名将勇者であっても行方不明になったり、ある日忽然と現れたりすることが散見され、それもこの時代の魅力であろうかと、おいらは思っています。

元祖松川氏の系図によれば、磐井郡松川館主(岩手県一関市東山町松川)松川隼人正正村に長男正胤が誕生します。母は千葉越前守広胤の娘。千葉広胤については不明。

1347年7月18日、奥州管領吉良貞家・畠山国氏は、白河結城顕朝らを従え、伊達行宗の伊達郡霊山城、藤田城(福島県国見町)、田村荘司宗季の田村郡宇津峰城(福島県郡山市)といった南朝拠点を攻撃、陥落せしめます。

この時鎌倉に暇していた石塔義房が管領方として参戦しています。

伊達行宗は領内の別の城に逃れます。

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1345年(北康永4年、南興国6年)

後醍醐天皇(皇族)大和吉野にて崩御、享年52歳

護良親王(皇族・37歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家)摂津阿倍野で戦死、享年21歳

新田義貞(武家)越前藤島で討死、享年37歳

足利尊氏(武家・41歳)石塔義房を更迭、天竜寺落慶

斯波家兼(武家・38歳)兄高経が越前国を再び平定

葛西清貞(武家・55歳)香取神宮財殿と二の鳥居の造営を任される



3月、香取神宮の造営及び遷宮の宣旨が千葉介貞胤に下り、担当者リストが発せられます。

葛西氏は通例通り、財殿と二の鳥居の造営を担当します。

その財殿の担当者名は葛西伊豆入道明蓮跡、小鮎猿俣地頭葛西伊豆四郎入道の2人、二の鳥居は葛西伊豆入道明蓮跡と記されます。

葛西伊豆入道明蓮跡とは葛西宗清の後継者清貞という意味。それまで記入されていた地頭の文字が無いことから葛西御厨を失地したことがここにおいてもうかがえます。

葛西伊豆四郎入道とは清貞の弟と見られますが実名等は不明です。葛西小鮎猿俣荘(東京都葛飾区水元)はこの時点で失っていなかったようです。

これが葛西氏にとって最後の香取神宮造営遷宮となりました。それはすなわち、葛西氏の歴史が日本中央史から東北郷土史へと遷っていく象徴的な大転換点だったのです。

5月21日、能登国鹿島郡酒井保(石川県羽咋市)の曹洞宗僧侶・無底良韶が、曹洞宗東北布教を志し、恐らく廃寺ないし無住寺となっていたと思われる胆沢郡黒石(岩手県奥州市水沢区黒石町)の天台宗黒石寺奥の院を拠点に使用します。

後に、曹洞宗正法寺として開山し、東北曹洞宗第一、日本曹洞宗として第三の格式を持つ寺へと発展していきます。

「B類系図」によれば7月2日、葛西高清の長男小太郎清常が早世します。享年14歳。

清常の母は先妻後藤基継の娘であり、これと入れ替わるように後妻白河結城親広こと小峰親朝の娘との間に3男為清が誕生しています。

南三陸町志津川の葛西氏研究家・佐藤正助氏はその著書「葛西氏四百年」の中で、謀殺ではないかと疑っておられます。
佐藤氏はまた、次の当主詮清(為清)の息子達の早世も不可解であると評しておられます。

とはいえ、「B類系図」は葛西氏の嫡男の名乗りが三郎ゆえか、第3子或いは3男を家督に書いているきらいがあるので、一歩割り引いて考える必要があるかも知れません。

元々高飛車な性格だった奥州管領石塔義房でしたが、勝利に驕ったか高圧的な態度に益々拍車がかかります。8月7日、石塔義房は奥州管領を解任され、帰洛を命じられます。軍事的、政治的には落度がなかっただけに、石塔義房は憤懣ばかりを燻らせます。

8月29日、臨済宗霊亀山天竜寺が落慶します。これに既存の仏教勢力、東大寺や比叡山延暦寺は不満を覚えたといいます。

東大寺はいざ知らず、延暦寺は元々南朝方でしたので、足利尊氏にしてみれば、無用の長物、燃やしちゃおうか、と毒づいたことは第六章で既述しました。

10月21日、北朝元号は貞和と改元されます。

この年は延暦寺の僧侶で、この2年後に「後三年合戦絵巻」の製作を指揮する玄慧の弟子になっていた足利直冬が、実子に恵まれない叔父直義の養子になるべく還俗します。
福地首藤氏の系図によれば、山内首藤兵部大輔通朝が没します。享年73歳。次弟長門守通元が跡を継ぎます。

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1344年(北康永3年、南興国5年)

後醍醐天皇(皇族)大和吉野にて崩御、享年52歳

護良親王(皇族・37歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家)摂津阿倍野で戦死、享年21歳

新田義貞(武家)越前藤島で討死、享年37歳

足利尊氏(武家・40歳)2頭立て体制に軋みが生じる

斯波家兼(武家・37歳)兄高経が越前国を再び平定

葛西清貞(武家・54歳)甥(?)親家が中尊寺金色堂領の安堵を差配



閏2月4日、玄法尼土用若の訴えに対し、室町幕府引付頭人石橋和義は、平賀左衛門蔵人なる人物に命じ、長尾景忠二世の押領停止を命ずる執達状を下します。

新たな敵の登場にも土用若は見事、地頭職を守り抜きます。

室町足利幕府初代将軍となった尊氏は、軍事は天才的だが政治に疎く、3弟直義と執事高師直に政務を預けっ放しにして、後醍醐天皇の菩提を弔う天竜寺造営といった仏道修行にのめり込み、事実上の隠居状態にありました。

将軍が2人いる、と囁かれたいわゆる2頭立て体制。
2頭立てと聞いておいらが思い出すのは、一時代のエイベックス・トラックスにおける、マネジメント部門の依田巽会長兼社長と、クリエイティブ方面の松浦勝人専務の体制でしょうか。

室町のツートップは、尊氏が恩賞宛行、所領給与、所領寄進、直義が所領安堵、相論訴訟と、ともすれば線引きが不明瞭かつ混乱しかねない立て分けで、そんな尊氏には守護家庶子、京都新興御家人を中心とした革新的(にならざるを得ない)勢力が、直義には守護家嫡子、司法官僚、地方豪族といった保守勢力が集まり、鎌倉幕府執権政治を理想とし、引付衆の充実、秩序や制度の維持、有力御家人や公家、寺社の権益を保護しようとする直義の政治理念と、武士のための世の中作りを目指す尊氏執事・高師直とは自然齟齬を来し、対立を生じるようになります。

「陸奥相馬文書・興国4年7月3日付北畠親房書状」によれば、足利直義と高師直が対立関係にあることが記されます。

平成時代のエイベックス・トラックスもそうであったように、両者の対立はやがて抜き差しならぬ破局へと向かいます。

11月23日、中尊寺金色堂領三迫白浜村(不明)を、寺の雑掌(雑務役人)頼盛阿闍梨に以前の如く安堵する旨の室町幕府御教書が、葛西左近将監親家に下されます。

それを踏まえ葛西親家は12月10日、書状を下し、頼盛阿闍梨の所領を安堵しています。

実在が今一つ確定出来ない葛西系図の面々の中で、最も葛西氏らしくない名前の人物が、同時史料で実在が証明出来るという葛西氏研究の皮肉を、ここにしみじみつくづく感じるのです。

奥州管領石塔義房の3男義基はこの年、信夫郡(福島県伊達市)の佐藤性妙の軍忠を足利尊氏に具申するよう高師直に願い出ています。
石塔義房、義基、高師直、足利尊氏と、幾多の手を経なければならない面倒臭い手続きに、結局恩賞はお預けとなります。

岩渕氏の系図によれば、磐井郡藤沢館主(岩手県一関市藤沢町)岩渕宮内少輔経清が没します。享年71歳。長男近江守経信が跡を継ぎます。


大原氏の系図によれば、磐井郡大原山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原伊予守胤高の長男肥前守胤明に長男胤広が誕生します。母は江田民部少輔長政の娘。江田長政については不明です。
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1344年(北康永3年、南興国5年)

後醍醐天皇(皇族)大和吉野にて崩御、享年52歳

護良親王(皇族・37歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家)摂津阿倍野で戦死、享年21歳

新田義貞(武家)越前藤島で討死、享年37歳

足利尊氏(武家・40歳)天竜寺上棟式に臨む

斯波家兼(武家・37歳)兄高経が越前国を再び平定

葛西清貞(武家・54歳)3男清定を末永定道の養子とする



1月6日、96代後醍醐天皇と阿野廉子の次男成良親王が没します、享年19歳。その詳しい事情は不明です。

「B類系図」に依れば2月、葛西氏長臣(重臣であることを殊更に気取って表現した?)末永宮内こと美濃守定道が、葛西貞清の3男で高清に同じく長崎円喜の娘を母とする孫九郎を養嗣子に迎え、孫九郎は式部清定と名乗り、登米郡吉田村(登米市米山町)に500町(約500ヘクタール)の所領を与えられます。

「末永系図」では養嗣子云々の記述は無く、6代目定道の後継者として安芸守清恒、または七郎左衛門尉晴房と記されます。

「B類系図」の清定と「末永系図」の清恒、それぞれ記す命日が、清定では明徳元年(1390)3月9日、清恒は永徳2年(1382)8月3日と、何となく似通っているので、同一人物と見做して良いでしょう。

登米郡吉田は現在の登米市米山町の北上川を挟んで東側に位置し、現存する地名としては北上川沿いにあり、特に丘陵地を山吉田、平地を町吉田と称しています。良田があったことに因むと云われ、古代からの遺跡が広汎に存在しています。

葛西氏6代当主の名前について「A類系図」は史実通り清貞と記すところ、「B類系図」では貞清と転倒させて記しています。

これは3男が葛西氏の通字「清」に養父の「定」を合わせた「清定」を名乗りとしていたために、系図の編纂者が同じキヨサダでは有り得ないとばかりに、父キヨサダのほうを貞清と改めたのでは無いでしょうか。

なお、登米郡吉田に所領を与えられたにしても、末永氏は変わらず江刺郡に本拠を構えていたものと考えています。改めて後述します。

和田茂実の押領を受けたおんな地頭・玄法尼土用若でしたが、越後国蒲原郡奥山荘内の鍬柄・塩谷・塩沢3ヵ村(新潟県胎内市黒川)地頭職は守り抜いたようです。

しかし、安堵したのも束の間、今度は越後国守護代長尾左衛門尉景忠二世の押領を受けます。

2人は気付いていたかは知りませんが、葛西の血を受け継ぐ遠い親戚同士です。

すなわち、葛西清重の長庶子時清の長女が長尾景茂に嫁ぎ、その4男四郎景忠一世の次男景能の息子景為の息子が左衛門尉景忠二世。

一方清重の嫡男清親の長男時清の長男清経の娘生蓮尼の娘が土用若。

つまり、葛西清重から見て5代の子孫が土用若、6代の子孫が長尾景忠二世という関係になります。

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1343年(北康永2年、南興国4年)

後醍醐天皇(皇族)大和吉野にて崩御、享年52歳

護良親王(皇族・36歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家)摂津阿倍野で戦死、享年21歳

新田義貞(武家)越前藤島で討死、享年37歳

足利尊氏(武家・39歳)天竜寺上棟式に臨む

斯波家兼(武家・36歳)兄高経が越前国を再び平定

葛西清貞(武家・53歳)甥親家(?)が石塔義房と共に中尊寺に梵鐘を寄進



葛西氏が唄われる如く吉野の御世の忠臣だった期間は約7年と呆気無いものでした。しかし、その期間に成したことは地名といい、板碑といい、後世目に見えて顕然かつ鮮烈なものでした。

しかしながらそこまでして想い入れた南朝への忠誠心を、如何様にして捨て去ったものでしょうか。そう、護良親王というただならぬ存在を考えた時、そこに様々な葛藤が坩堝のごとく渦巻いたであろうことは想像に難くありません。

北畠顕信は拠点を求めて北へ逃れます。

思えば北畠顕信は、長兄顕家が戦死した21歳という年齢に合わせるように日本史デビューしただけあって、その生涯は顕家の後を継ぎ、顕家の代わりになることが求められたであろうことは想像に難くありません。

しかし、顕家は天才でした。凡庸ではない、むしろ人並以上とさえ思える顕信でさえ、顕家の名前と功績は余りにも重過ぎて、眩し過ぎたことでしょう。

恐らく日和山葛西氏の祖・武治は初め、重清ないし良清と名乗っていたものが、葛西氏が新田義貞の手引きか何かで南朝に所属した際にいかにもな字を拝領して改名したと考えられ、その後継者と見られる左近将監親家もまた、北畠親房顕家親子から程良く一字ずつ偏諱したと見られるのですが、葛西親家のデビューは南朝バリバリの名前とは真逆のものでした。

葛西武治蓮阿が没した7月、焼失した天台宗東北大本山関山中尊寺の再建に際し、康永2年7月銘義で中尊寺大檀那でもある石塔義房と共に、左近将監平親家が同じく大檀那として梵鐘を寄進します。

平左近将監親家、「C類系図」に葛西武治の息子として日和山城主となった葛西左近将監親家の名を記していますので、この人物が葛西氏の系類なのだと判明するのですが、同時史料で見る葛西親家は日和山城主というよりは寧ろ、北朝幕府方に属する中尊寺の有力庇護者という印象です。

8月、石塔義房が登米郡渋江城(登米市登米町)を攻撃します。南朝方の拠点にでもなっていたのでしょうか。

11月、鎌倉府執事・高師冬(師直の従兄弟)の攻撃により、常陸国真壁郡伊佐荘中村郷(茨城県筑西市中館)の伊佐城など、付近にあった南朝の拠点が次々陥落します。これによって北畠親房は常陸国を逐われ、吉野に帰還します。また、城主伊佐氏も没落し、分家の伊達行宗も常陸国における実権を失います。

12月2日、臨済宗霊亀山天竜資聖禅寺の上棟式が執行され、葛西伯耆権守(高清)が出席します。

中里熊谷氏の系図によればこの年は、磐井郡中里館主(岩手県一関市)中里熊谷駿河守直久に長男直包が誕生します。母は関山大炊直忠の娘。関山直忠については不明です。

61に続きます。

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