1336年
北朝・建武3年
南朝・延元元年
後醍醐天皇(皇族・49歳)新田義貞に足利尊氏追討を命じる
護良親王(皇族・29歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?
北畠顕家(公家・19歳)相模国で斯波家長を撃破、陸奥国へ
新田義貞(武家・35歳)足利尊氏追討の途中、播磨国の赤松円心に手間取る
足利尊氏(武家・32歳)捲土重来を期し、九州から進出
斯波家兼(武家・29歳)甥孫二郎家長が相模国で北畠顕家を待ち伏せるも撃破さる
葛西清貞(武家・46歳)嫡男高清が馬篭氏熊谷氏連合軍と合戦
東北に帰還するや素早く軍備を整え、気仙郡司金氏を従えた葛西高清は、父は恐らく相模国で斯波孫二郎家長と合戦していたであろう4月21日、気仙郡鶴崎館主(岩手県陸前高田市矢作)矢作因幡守重胤と、磐井郡流荘涌津館主(岩手県一関市花泉町)涌津岩渕讃岐守正経ら数千の兵を率い、元良郡遠野館主(気仙沼市本吉町馬篭)馬篭周防守行胤を攻撃しています。
葛西高清の電撃的侵略に対し、馬篭行胤には元良郡赤岩城主(気仙沼市)熊谷氏5代当主・佐渡守直時が一族を率い、援軍に訪れます。その数合わせて2千と伝わります。
馬篭行胤とその父方従兄弟・矢作重胤は不仲故に敵同士になったと見がちですが、矢作氏の成立を考えれば、そもそも血縁だったのかどうかもはっきりしません。
ついでに馬篭行胤と熊谷直時も従兄弟にあたります。馬篭行胤の叔母が熊谷氏4代左衛門尉直光の妻となって3男直時が誕生し、兄2人の早世によって家督を継いだことは既に述べました。
葛西高清、矢作重胤、涌津岩渕正経、佐藤信継らの攻撃で遠野館は陥落し、当主馬篭行胤始め、次弟掃部丞胤久、3弟三郎右衛門尉行範、行胤次男帯刀行重、3男小五郎慶次らが館を枕に討死します。
更に援軍の熊谷直時61歳、4弟寺崎四郎左衛門尉直能57歳、5弟掃部介直嗣51歳、6弟六郎左衛門尉顕直48歳、寺崎直能の長男小平治直常33歳、次男九郎直朝25歳迄もが討死、一つの合戦で分家も含め、当主3人が戦死するという、壮絶な結末を迎えます。
その熊谷分家の当主である4弟寺崎熊谷直能は桃生郡寺崎(石巻市桃生町)200町(約200ヘクタール)の領主です。
また、6弟顕直の名は北畠顕家からの偏諱でしょうか。
4月27日、余勢を駆って高清は赤岩城を攻撃します。城には直時長男で急遽6代当主となった弾正忠直明がいました。寺崎直能の娘と従兄妹結婚しています。
天然の要害、堅城であった赤岩城は容易に落ちず、葛西高清は熊谷氏征服を諦めて撤退し、合戦は終了します。
馬篭行胤の長男新左衛門尉胤宣はどのような形でか生き延びたようで、子孫は100年後にお家再興を果たしています。
馬篭の地は佐藤四郎忠信の7代の子孫・兵庫助信継に与えられ、そのルーツを取って信夫館主となります。
また、寺崎直能の長孫備前守直次は直能7弟熊谷駿河守直久に預けられ、直能の15歳になる3男は既に曹洞宗に出家していました。月泉と名乗ったこの僧侶が建てた寺に、後に末永氏が関わることになります(と主張しているのはおいらだけ)。
31に続きます。
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北朝・建武3年
南朝・延元元年
後醍醐天皇(皇族・49歳)新田義貞に足利尊氏追討を命じる
護良親王(皇族・29歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?
北畠顕家(公家・19歳)相模国で斯波家長を撃破、陸奥国へ
新田義貞(武家・35歳)足利尊氏追討の途中、播磨国の赤松円心に手間取る
足利尊氏(武家・32歳)捲土重来を期し、九州から進出
斯波家兼(武家・29歳)甥孫二郎家長が相模国で北畠顕家を待ち伏せるも撃破さる
葛西清貞(武家・46歳)嫡男高清が馬篭氏熊谷氏連合軍と合戦
東北に帰還するや素早く軍備を整え、気仙郡司金氏を従えた葛西高清は、父は恐らく相模国で斯波孫二郎家長と合戦していたであろう4月21日、気仙郡鶴崎館主(岩手県陸前高田市矢作)矢作因幡守重胤と、磐井郡流荘涌津館主(岩手県一関市花泉町)涌津岩渕讃岐守正経ら数千の兵を率い、元良郡遠野館主(気仙沼市本吉町馬篭)馬篭周防守行胤を攻撃しています。
葛西高清の電撃的侵略に対し、馬篭行胤には元良郡赤岩城主(気仙沼市)熊谷氏5代当主・佐渡守直時が一族を率い、援軍に訪れます。その数合わせて2千と伝わります。
馬篭行胤とその父方従兄弟・矢作重胤は不仲故に敵同士になったと見がちですが、矢作氏の成立を考えれば、そもそも血縁だったのかどうかもはっきりしません。
ついでに馬篭行胤と熊谷直時も従兄弟にあたります。馬篭行胤の叔母が熊谷氏4代左衛門尉直光の妻となって3男直時が誕生し、兄2人の早世によって家督を継いだことは既に述べました。
葛西高清、矢作重胤、涌津岩渕正経、佐藤信継らの攻撃で遠野館は陥落し、当主馬篭行胤始め、次弟掃部丞胤久、3弟三郎右衛門尉行範、行胤次男帯刀行重、3男小五郎慶次らが館を枕に討死します。
更に援軍の熊谷直時61歳、4弟寺崎四郎左衛門尉直能57歳、5弟掃部介直嗣51歳、6弟六郎左衛門尉顕直48歳、寺崎直能の長男小平治直常33歳、次男九郎直朝25歳迄もが討死、一つの合戦で分家も含め、当主3人が戦死するという、壮絶な結末を迎えます。
その熊谷分家の当主である4弟寺崎熊谷直能は桃生郡寺崎(石巻市桃生町)200町(約200ヘクタール)の領主です。
また、6弟顕直の名は北畠顕家からの偏諱でしょうか。
4月27日、余勢を駆って高清は赤岩城を攻撃します。城には直時長男で急遽6代当主となった弾正忠直明がいました。寺崎直能の娘と従兄妹結婚しています。
天然の要害、堅城であった赤岩城は容易に落ちず、葛西高清は熊谷氏征服を諦めて撤退し、合戦は終了します。
馬篭行胤の長男新左衛門尉胤宣はどのような形でか生き延びたようで、子孫は100年後にお家再興を果たしています。
馬篭の地は佐藤四郎忠信の7代の子孫・兵庫助信継に与えられ、そのルーツを取って信夫館主となります。
また、寺崎直能の長孫備前守直次は直能7弟熊谷駿河守直久に預けられ、直能の15歳になる3男は既に曹洞宗に出家していました。月泉と名乗ったこの僧侶が建てた寺に、後に末永氏が関わることになります(と主張しているのはおいらだけ)。
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