2017年08月

1336年

北朝・建武3年
南朝・延元元年

後醍醐天皇(皇族・49歳)新田義貞に足利尊氏追討を命じる

護良親王(皇族・29歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家・19歳)相模国で斯波家長を撃破、陸奥国へ

新田義貞(武家・35歳)足利尊氏追討の途中、播磨国の赤松円心に手間取る

足利尊氏(武家・32歳)捲土重来を期し、九州から進出

斯波家兼(武家・29歳)甥孫二郎家長が相模国で北畠顕家を待ち伏せるも撃破さる

葛西清貞(武家・46歳)嫡男高清が馬篭氏熊谷氏連合軍と合戦



東北に帰還するや素早く軍備を整え、気仙郡司金氏を従えた葛西高清は、父は恐らく相模国で斯波孫二郎家長と合戦していたであろう4月21日、気仙郡鶴崎館主(岩手県陸前高田市矢作)矢作因幡守重胤と、磐井郡流荘涌津館主(岩手県一関市花泉町)涌津岩渕讃岐守正経ら数千の兵を率い、元良郡遠野館主(気仙沼市本吉町馬篭)馬篭周防守行胤を攻撃しています。

葛西高清の電撃的侵略に対し、馬篭行胤には元良郡赤岩城主(気仙沼市)熊谷氏5代当主・佐渡守直時が一族を率い、援軍に訪れます。その数合わせて2千と伝わります。

馬篭行胤とその父方従兄弟・矢作重胤は不仲故に敵同士になったと見がちですが、矢作氏の成立を考えれば、そもそも血縁だったのかどうかもはっきりしません。

ついでに馬篭行胤と熊谷直時も従兄弟にあたります。馬篭行胤の叔母が熊谷氏4代左衛門尉直光の妻となって3男直時が誕生し、兄2人の早世によって家督を継いだことは既に述べました。

葛西高清、矢作重胤、涌津岩渕正経、佐藤信継らの攻撃で遠野館は陥落し、当主馬篭行胤始め、次弟掃部丞胤久、3弟三郎右衛門尉行範、行胤次男帯刀行重、3男小五郎慶次らが館を枕に討死します。

更に援軍の熊谷直時61歳、4弟寺崎四郎左衛門尉直能57歳、5弟掃部介直嗣51歳、6弟六郎左衛門尉顕直48歳、寺崎直能の長男小平治直常33歳、次男九郎直朝25歳迄もが討死、一つの合戦で分家も含め、当主3人が戦死するという、壮絶な結末を迎えます。

その熊谷分家の当主である4弟寺崎熊谷直能は桃生郡寺崎(石巻市桃生町)200町(約200ヘクタール)の領主です。
また、6弟顕直の名は北畠顕家からの偏諱でしょうか。

4月27日、余勢を駆って高清は赤岩城を攻撃します。城には直時長男で急遽6代当主となった弾正忠直明がいました。寺崎直能の娘と従兄妹結婚しています。

天然の要害、堅城であった赤岩城は容易に落ちず、葛西高清は熊谷氏征服を諦めて撤退し、合戦は終了します。

馬篭行胤の長男新左衛門尉胤宣はどのような形でか生き延びたようで、子孫は100年後にお家再興を果たしています。

馬篭の地は佐藤四郎忠信の7代の子孫・兵庫助信継に与えられ、そのルーツを取って信夫館主となります。

また、寺崎直能の長孫備前守直次は直能7弟熊谷駿河守直久に預けられ、直能の15歳になる3男は既に曹洞宗に出家していました。月泉と名乗ったこの僧侶が建てた寺に、後に末永氏が関わることになります(と主張しているのはおいらだけ)。

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北朝・建武3年
南朝・延元元年

後醍醐天皇(皇族・49歳)新田義貞に足利尊氏追討を命じる

護良親王(皇族・29歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家・19歳)陸奥国に帰還の途中、斯波家長と合戦、相馬重胤一世を討ち取る

新田義貞(武家・35歳)足利尊氏追討の途中、播磨国の赤松円心に翻弄される

足利尊氏(武家・32歳)北畠顕家遠征軍に破れ、九州に敗走

斯波家兼(武家・29歳)甥孫二郎家長が相模国片瀬川で北畠顕家を待ち伏せ

葛西清貞(武家・46歳)陸奥国か葛西御厨に帰還中、斯波家長と合戦



96代後醍醐天皇による足利尊氏追討令が新田義貞に下されます。

ところが新田義貞、恋人の勾当内侍との逢瀬に、国は捨て置けお前が大事、臥しては枕す窈窕の膝、とばかりに夢中になってしまい、出陣が遅れたと、楠木正成の言う事も一理あるなと思わせる挙に出ます。

しかし、この時新田義貞は瘧(マラリア)に罹って出陣どころか恋愛もままならない状況に苛まれていましたから、カノジョとデートなうで良かったかもしれません。

恢復した新田義貞は3月30日、漸く出陣し、九州に向かいますがその途中、足利方として強固に踏ん張っていた播磨国(兵庫県)の赤松円心の、地の利に勝る戦術に翻弄され、目ぼしい戦果が上がりません。

そうこうしている内に足利尊氏にリベンジのチャンスを与えてしまいます。

第一次北畠顕家遠征軍の帰還は流石に強行軍ではありませんでしたが、油断のならない行軍となりました。

一方、北畠顕家のスピード感に触発されたか、第一次遠征軍に先駆けて東北に帰還した葛西6代当主清貞の嫡男高清は4月4日、北畠顕家の幕下に入っていた気仙郡司で気仙郡横田館主(岩手県陸前高田市)金周防守俊清を麾下にしたことが「安倍姓金氏系図」に記されます。
これによって金氏嫡流は気仙郡司の肩書きを喪失し、傍流は金野、今野、昆野等と名乗ることとなります。

4月16日、相模国高座郡と鎌倉郡の境目を流れる片瀬川(神奈川県藤沢市)に差し掛かる頃、足利方の一青年武将に因縁の戦いを挑まれます。

その青年武将の名は斯波孫二郎家長、この時16歳。

更に葛西清貞とは又ハトコに当たる茂木越中権守知貞や、隠居した相馬重胤一世も一族を率い、足利方として参戦します。

斯波家長が奥州総大将に任命された時、家長はどこに拠点を設けたのでしょう?少なくとも陸奥守北畠顕家がいた国府多賀城では無いでしょう。だとしたら斯波氏ゆかりの紫波郡(岩手県)でしょうか。

第一次北畠顕家遠征軍が出征した時点では相馬親胤の招きで亘理郡川名宿(不明)にいたようです。その際、軍備が整わなかったのか、それとも余りに早い行軍で追いつけなかったのか、対戦の機会を逃しています。

斯波家長はその生涯を北畠顕家打倒その一点のみに集中し、哀しいまでに散華烈砕して果てるのですが、高校一年の若者をそこまで駆り立てさせたものは何だったのでしょうか。

第一次北畠顕家遠征軍は斯波家長勢を打ち破ります。家長は逃れましたが、相馬重胤一世は鎌倉に退却し、第一次北畠顕家遠征軍が鎌倉に乱入したところに、頼朝法華堂にて自刃し、時代を超えて波瀾に満たされた生涯を終えます。享年不明。

これによって陸奥国へ向かう第一次北畠顕家遠征軍はやがて、相馬氏の抵抗を受けることになります。

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1336年

北朝・建武3年
南朝・延元元年

後醍醐天皇(皇族・49歳)北畠顕家の活躍で帰洛

護良親王(皇族・29歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家・19歳)足利尊氏を九州に追い払い、陸奥国に帰還

新田義貞(武家・35歳)後醍醐天皇より足利尊氏追討を命ぜらる

足利尊氏(武家・32歳)北畠顕家遠征軍に敗れ、九州に敗走

斯波家兼(武家・29歳)甥孫二郎家長が相模国で北畠顕家を待ち伏せ

葛西清貞(武家・46歳)嫡男高清と共に第一次北畠顕家遠征軍に参戦



2月29日、元号は延元と改元されます。しかし、足利方は建武年号を継続して使用します。

2月、暫く姿をくらましていた北条泰家が信濃国更級郡麻績御厨(おみ、長野県東筑摩郡麻績村)で挙兵し、守護小笠原貞宗、村上信貞と交戦しますが、敗れて逃亡します。

泰家の消息はこれをもって不明となります。

2年3か月振りの京都は北畠顕家にとってどのような風景だったことでしょう。

北畠顕家といって思い出すのは、大河ドラマ「太平記」において後藤久美子さんが演じたことに尽きます。

勿論、実は女性だったかもしれない(上杉謙信、沖田総司)とかいうのではありませんで、女性が男役を演じるという例は、宝塚か三蔵法師玄奘ぐらいなもので、非常にセンセーショナルで強烈な印象を与えられたものです。

後世のドラマにおいて女性が演じるだけあって、北畠顕家は眉目秀麗な美男子と伝えられ、それ以上に優れた才覚で幼少期から異例の出世を遂げる、いわゆる天才青年だったのです。

そんな紅顔可憐の天才青年の政治理念は、あるべき秩序を取り戻し、国家を安定させること。先例や伝統もさることながら、現実の状況を正確に判断し、決断は厳格かつ公正に下すべきであると考えていたようです。

対する96代後醍醐天皇はつい最近の亡国衆愚政治家によく見られる朝令暮改、本音(独裁主義)と建前(延喜天暦の治)の使い分け、そしてオトモダチや縁故への露骨で法令違反の依怙贔屓と、完全に政治を舐め切り、国家を私物化していました。

今の政府を鎌倉幕末の北条高時に喩える向きもあるようですが、おいらに言わせりゃ鮫の脳味噌、蜃気楼と揶揄された暗君が高時で、その弟子の弟子である安倍政権は建武政権の後醍醐天皇にこそ似つかわしいように感じます。。

ま、いずれにしましても、戦い終えた北畠顕家は1ヶ月ほど滞在し、恐らく第一次遠征軍参戦者の論功行賞やら政権とのやり取りに終始したものか、そこで感じた想いは胸にしまい、3月20日、陸奥国へ向かい、出立します。

これに先駆けて6代当主葛西清貞嫡男・高清も帰郷したようです。その詳細な経緯については後述します。

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北朝・建武3年
南朝・建武3年

後醍醐天皇(皇族・49歳)北畠顕家の活躍で帰洛

護良親王(皇族・29歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家・19歳)第一次遠征軍を率い、足利尊氏と会戦

新田義貞(武家・35歳)葛西江判官三郎左衛門尉なる人物が身替りとなって討死する。

足利尊氏(武家・32歳)北畠顕家遠征軍に破れ、九州に敗走

斯波家兼(武家・29歳)甥孫二郎家長が奥州総大将として北畠顕家に対抗すべく陸奥に派遣される

葛西清貞(武家・46歳)嫡男高清と共に第一次北畠顕家遠征軍に参戦



そんな正体不明の葛西江判官三郎左衛門尉、赤縅鎧(あかおどしよろい)を着て新田義貞とは顔色・骨柄少しも変わらなかった、とあり、一回り年齢が違う清貞では該当しづらいし、そもそも葛西御厨に丸子荘、奥州5郡2保、それ以外は推して知るべしの大身だった葛西の殿様が義貞の身替り(影武者?)なんか務めるのかよって思います。木阿弥も世良田二郎三郎も大した身分じゃないんですから。

1月30日、支えきれなくなった足利尊氏は家宰上杉氏の本領上杉荘がある丹波国何鹿郡(いかるが、京都府綾部市)へと退却します。その際、新田義貞に属していた本家千葉介貞胤の長男一胤が何鹿郡志賀郷で尊氏配下の細川定禅に討ち取られます。尊氏は2月3日、摂津国豊島郡猪名川(大阪府池田市、箕面市)まで退きます。

2月5日、鎮守府将軍北畠顕家が一文字増やされて鎮守府大将軍に任命されます。といっても従五位に相当する官職を従二位の顕家が貰っても大して嬉しくなかったでしょうが。

「佐久間本平姓国分系図」によれば2月7日、国分氏6代当主刑部大輔盛胤は遠征軍参加の軍功により、名取郡飯田郷・日辺郷・今泉郷(仙台市若林区)を拝領したとあります。

今泉館跡は完全に住宅地になっていますが、その痕跡は道路や街の境界線の形から地図で容易に偲ぶことが出来ます。

2月11日、第一次北畠顕家遠征軍は摂津国豊島郡豊島河原の合戦(大阪府池田市、箕面市)で再起を窺う足利尊氏に勝利し、尊氏は平家が都落ちした以上に九州へと落ち延びていきます。

足利方の相馬親胤はこれに同行せず、関東に戻っています。

余談ながら、黄昏に鴉鳴く甲子園がある摂津国武庫郡鳴尾村(兵庫県西宮市)まではそこから目と鼻の先です。

因みにこの時、楠木正成は新田義貞なんか棄てて足利尊氏と和睦しましょうと、96代後醍醐天皇に驚くべき提案をしたことが「梅松論」に記されます。

勿論この提案は却下され、周囲の不興を買った正成は地元河内国に謹慎させられますが、しっかし人望ねーなー、新田義貞って。北畠顕家とも微妙だし。関西と北関東じゃ明らかに気質が違うからなのかなとも思うんですけど、同じ北関東同士の足利尊氏ともウマが合わないし、統治を任された北陸地方に至っては縁も人脈も作れていませんから。

足利軍が九州に落ち延びていったことを見届けた第一次北畠顕家遠征軍は2月14日、帰洛します。

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北朝・建武3年
南朝・建武3年

後醍醐天皇(皇族・49歳)比叡山にて北畠顕家に謁見

護良親王(皇族・29歳)渕辺義博に殺害されたと見せ掛けて牡鹿郡に落ち延びる?

北畠顕家(公家・19歳)第一次遠征軍を率い、足利尊氏と会戦

新田義貞(武家・35歳)葛西江判官三郎左衛門尉なる人物が身替りとなって討死する。

足利尊氏(武家・32歳)遥々上洛した北畠顕家遠征軍と対戦

斯波家兼(武家・29歳)甥孫二郎家長が奥州総大将として北畠顕家に対抗すべく陸奥に派遣される

葛西清貞(武家・46歳)嫡男高清と共に第一次北畠顕家遠征軍に参戦



第一次北畠顕家遠征軍は前代未聞の強行軍であったため、行き倒れで脱落する者もあったといい、留守三郎左衛門尉こと7代当主美作守家高も三河国碧海郡矢作郷(愛知県岡崎市)で脱落し、足利方に降伏しています。

その時期は2月と記しますが、矛盾するのでこの時期と見られます。

足利尊氏京都占領の2日後、1月12日には近江国愛知川(滋賀県)に到着し、1月13日、琵琶湖を渡り、近江国滋賀郡坂本郷(滋賀県大津市)で新田義貞、楠木正成、本家千葉介貞胤らと合流し、比叡山(滋賀郡、大津市)に在った96代後醍醐天皇に謁見します。

1月16日、新田義貞と共に園城寺(滋賀郡、大津市)で尊氏配下の細川定禅を、滋賀郡関山(大津市逢坂山)で足利氏執事・高師直や足利直義らを撃退せしめます。

1月27日、白河関を飛び出した東北勢、第一次北畠顕家遠征軍は遂に山城国葛野郡・愛宕郡平安京(京都府京都市)に駒を進め、鴨川畔の四条大橋に臨む河原(京都府京都市下京区、中京区)で足利尊氏と対決します。

1月28日、更に楠木正成、名和長年らが加わり、総攻撃となります。

「登米寺池龍源寺所蔵小野寺氏系図」によれば、小野寺伊豆守道盛こと樋口弥五郎道守が山城国紀伊郡鳥羽郷(京都府京都市伏見区、南区)で討死したと記され、この1月28日ではないかと考えられます。享年不詳。4男伊賀守道景が跡を継ぎます。

「梅松論」に依ればこの時、神楽岡(京都府京都市左京区吉田山)にて、葛西江判官三郎左衛門尉なる人物が新田義貞の身替りとなり、討死したと記されます。

葛西江判官三郎左衛門尉なる人物の江って何でしょうか、わかりません。葛飾区渋江のことだと主張する説もありますし、江刺市の江刺氏なのだと唱える説もあります。或いは江戸なのかも知れませんし、たまたま紛れ込んだか、誤字脱字なのかも知れません。
6代当主葛西清貞に比定する説がありますが、字は三郎でも官職は兵衛尉なので違います。また、「末永系図」にある5代当主左衛門三郎宗重とする仰天の説もあるんですが、この名前は末永美濃守定道の父親に“設定された”名前であり、違うでしょう。
異本には南条政平と記すものもあるとかで、何が何だかさっぱりわかりません。

「B類系図」には1月16日に足利方に属して京都に戦死した清貞の次弟で下総国香取郡山下邑の葛貫常隆34歳と、1月27日に遠征軍に属して戦死した高清の次弟・信広21歳がいたことを記し、後世の系図ながら、否、後世の系図故にそれっぽい人物がいたことを仄めかしていますが、結局正体は謎のままなのです。

27に続きます。

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