ここからは怪奇現象を一切排除した上で宝治合戦を論じていきます。
宝治元年(1247)3月2日、足利泰氏の2番目の妻となっていた5代執権北条時頼の長姉(系図では長妹)が没します。
3月3日、鎌倉幕府将軍御所で闘鶏が催され、三浦泰村が喧嘩騒ぎをやらかします。鶏以下か。
4代将軍藤原頼経追放後、将軍派は三浦光村を台風の眼に巻き返しを謀ります。裏では九条道家、頼経親子の使嗾があったと言われます。
対する執権得宗家派は、出家して高野山にいた筈の安達景盛が4月11日、下山して強硬な主戦論で息子義景と孫泰盛を焚き付けたことで安達一族が本気になり、両者は緊張状態に陥ります。
4月14日、5代将軍藤原頼嗣正室桧皮姫が心労のゆえか風邪に罹りますが、拗らせて重態となります。
5月6日、三浦泰村次男・駒石丸景泰が時頼の養子となります。両家の融和策と見られます。
5月13日、桧皮姫が肺炎と思われる死因で僅か18歳で早世します。
竹御所鞠子以来の悲劇の女性の死が合戦に至る導火線になったとする見方もありますが、お飾りでしかない夫・5代将軍頼嗣はこの合戦においては全くの蚊帳の外であり、年齢的にもイニシアチブは取れません。影響はあったでしょうが、決定的ではなかったように感じます。
双方の領袖である5代執権時頼と三浦泰村の関係ですが、良く言えば運命共同体、悪く言えばズブズブ、世間的には嫁を出したり養子を貰ったりの持ちつ持たれつ、水心あれば魚心のギブ・アンド・テイクの関係であり、元来争う考えはありませんでした。
両者は連絡を取り合い、出来る限り戦争回避を模索した様子が見てとれます。
所が“三浦泰村は自分勝手で命令を聞かない、近々誅伐されるだろう、よくよく覚悟しろ”とか“三浦はいずれ討たれるだろうぜ”との落書が晒されたり、安積郡菱方荘(福島県郡山市)の土方義政が、“三浦一族の反逆に与しない”と、ある神社(どこと書いてない所が怪しい)に書き置きして失踪するなど、明らかに挑発と取れる嫌がらせが相次ぎます。
怪文書に加え、怪情報も相次ぎます。
時頼が泰村邸に泊まった際、一族は姿を現わさず、それどころか鎧甲冑の摺れる音が聞こえてきて、これはやばいとすたこらさっさ逃げ帰る。後で聞けば三浦光村が軍備を整えているところだったとか、時頼が佐々木氏信を三浦泰村邸に派遣し、三浦氏が軍備を万端にしているのを確認したとか、その時点で時頼も氏信も殺されているだろうって。
そんな最中の6月2日、佐原6兄弟が三浦氏を離反、時頼に返り忠します。
いざ鎌倉とばかりに北条、三浦双方に各地から味方が集い、鎌倉は愈々一触即発の危機的状況に陥ります。
5代執権時頼と三浦泰村の和睦の努力も虚しく、強硬な主戦論者らが合戦へ合戦へと動かしていきます。とは言えこれは歴史の随所に見られる現象でしょう。
18に続きます。
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宝治元年(1247)3月2日、足利泰氏の2番目の妻となっていた5代執権北条時頼の長姉(系図では長妹)が没します。
3月3日、鎌倉幕府将軍御所で闘鶏が催され、三浦泰村が喧嘩騒ぎをやらかします。鶏以下か。
4代将軍藤原頼経追放後、将軍派は三浦光村を台風の眼に巻き返しを謀ります。裏では九条道家、頼経親子の使嗾があったと言われます。
対する執権得宗家派は、出家して高野山にいた筈の安達景盛が4月11日、下山して強硬な主戦論で息子義景と孫泰盛を焚き付けたことで安達一族が本気になり、両者は緊張状態に陥ります。
4月14日、5代将軍藤原頼嗣正室桧皮姫が心労のゆえか風邪に罹りますが、拗らせて重態となります。
5月6日、三浦泰村次男・駒石丸景泰が時頼の養子となります。両家の融和策と見られます。
5月13日、桧皮姫が肺炎と思われる死因で僅か18歳で早世します。
竹御所鞠子以来の悲劇の女性の死が合戦に至る導火線になったとする見方もありますが、お飾りでしかない夫・5代将軍頼嗣はこの合戦においては全くの蚊帳の外であり、年齢的にもイニシアチブは取れません。影響はあったでしょうが、決定的ではなかったように感じます。
双方の領袖である5代執権時頼と三浦泰村の関係ですが、良く言えば運命共同体、悪く言えばズブズブ、世間的には嫁を出したり養子を貰ったりの持ちつ持たれつ、水心あれば魚心のギブ・アンド・テイクの関係であり、元来争う考えはありませんでした。
両者は連絡を取り合い、出来る限り戦争回避を模索した様子が見てとれます。
所が“三浦泰村は自分勝手で命令を聞かない、近々誅伐されるだろう、よくよく覚悟しろ”とか“三浦はいずれ討たれるだろうぜ”との落書が晒されたり、安積郡菱方荘(福島県郡山市)の土方義政が、“三浦一族の反逆に与しない”と、ある神社(どこと書いてない所が怪しい)に書き置きして失踪するなど、明らかに挑発と取れる嫌がらせが相次ぎます。
怪文書に加え、怪情報も相次ぎます。
時頼が泰村邸に泊まった際、一族は姿を現わさず、それどころか鎧甲冑の摺れる音が聞こえてきて、これはやばいとすたこらさっさ逃げ帰る。後で聞けば三浦光村が軍備を整えているところだったとか、時頼が佐々木氏信を三浦泰村邸に派遣し、三浦氏が軍備を万端にしているのを確認したとか、その時点で時頼も氏信も殺されているだろうって。
そんな最中の6月2日、佐原6兄弟が三浦氏を離反、時頼に返り忠します。
いざ鎌倉とばかりに北条、三浦双方に各地から味方が集い、鎌倉は愈々一触即発の危機的状況に陥ります。
5代執権時頼と三浦泰村の和睦の努力も虚しく、強硬な主戦論者らが合戦へ合戦へと動かしていきます。とは言えこれは歴史の随所に見られる現象でしょう。
18に続きます。
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