2017年02月

ここからは怪奇現象を一切排除した上で宝治合戦を論じていきます。

宝治元年(1247)3月2日、足利泰氏の2番目の妻となっていた5代執権北条時頼の長姉(系図では長妹)が没します。

3月3日、鎌倉幕府将軍御所で闘鶏が催され、三浦泰村が喧嘩騒ぎをやらかします。鶏以下か。

4代将軍藤原頼経追放後、将軍派は三浦光村を台風の眼に巻き返しを謀ります。裏では九条道家、頼経親子の使嗾があったと言われます。

対する執権得宗家派は、出家して高野山にいた筈の安達景盛が4月11日、下山して強硬な主戦論で息子義景と孫泰盛を焚き付けたことで安達一族が本気になり、両者は緊張状態に陥ります。

4月14日、5代将軍藤原頼嗣正室桧皮姫が心労のゆえか風邪に罹りますが、拗らせて重態となります。

5月6日、三浦泰村次男・駒石丸景泰が時頼の養子となります。両家の融和策と見られます。

5月13日、桧皮姫が肺炎と思われる死因で僅か18歳で早世します。

竹御所鞠子以来の悲劇の女性の死が合戦に至る導火線になったとする見方もありますが、お飾りでしかない夫・5代将軍頼嗣はこの合戦においては全くの蚊帳の外であり、年齢的にもイニシアチブは取れません。影響はあったでしょうが、決定的ではなかったように感じます。

双方の領袖である5代執権時頼と三浦泰村の関係ですが、良く言えば運命共同体、悪く言えばズブズブ、世間的には嫁を出したり養子を貰ったりの持ちつ持たれつ、水心あれば魚心のギブ・アンド・テイクの関係であり、元来争う考えはありませんでした。

両者は連絡を取り合い、出来る限り戦争回避を模索した様子が見てとれます。

所が“三浦泰村は自分勝手で命令を聞かない、近々誅伐されるだろう、よくよく覚悟しろ”とか“三浦はいずれ討たれるだろうぜ”との落書が晒されたり、安積郡菱方荘(福島県郡山市)の土方義政が、“三浦一族の反逆に与しない”と、ある神社(どこと書いてない所が怪しい)に書き置きして失踪するなど、明らかに挑発と取れる嫌がらせが相次ぎます。

怪文書に加え、怪情報も相次ぎます。

時頼が泰村邸に泊まった際、一族は姿を現わさず、それどころか鎧甲冑の摺れる音が聞こえてきて、これはやばいとすたこらさっさ逃げ帰る。後で聞けば三浦光村が軍備を整えているところだったとか、時頼が佐々木氏信を三浦泰村邸に派遣し、三浦氏が軍備を万端にしているのを確認したとか、その時点で時頼も氏信も殺されているだろうって。

そんな最中の6月2日、佐原6兄弟が三浦氏を離反、時頼に返り忠します。

いざ鎌倉とばかりに北条、三浦双方に各地から味方が集い、鎌倉は愈々一触即発の危機的状況に陥ります。

5代執権時頼と三浦泰村の和睦の努力も虚しく、強硬な主戦論者らが合戦へ合戦へと動かしていきます。とは言えこれは歴史の随所に見られる現象でしょう。

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「B類系図」によれば、宝治元年1月3日、“2代当主朝清”が享年68歳で没したと記します。

また、これを踏まえて「末永系図」では、3代当主六郎左衛門重春(重泰)戒名妙観が没したと記します。

葛西朝清は元より、清親も存命であり、系図は真底当てになりません。しかも宝治は2月28日に改元となるため、まだ寛元5年です。

挙句の果てに「末永系図」は朝清の字である六郎左衛門に、後世末永氏の血脈に甚大な衝撃を及ぼした13代副太守宗清の前名・春重を転倒させた名前をくっつけて、末永の系譜に朝清と宗清が連なっていると主張するスヱナガコード第三の暗号を秘沈しているのです。

そんな西暦1247年は、和田合戦以来の大戦争に、鎌倉が巻き込まれたとんでもない年となりました。

寛元の政変からこの宝治合戦に至る期間は、北条氏の他氏排斥が完了し、北条氏内部の骨肉相剋へと移行していく分岐点でもありました。

4代将軍頼経が5代執権時頼宛に手紙を出した寛元4年(1247)12月12日から合戦勃発の6月5日までの間、鎌倉周辺では奇怪な現象が多発します。

どうせ「吾妻鏡」の創作か当時流布した流言蜚語でしょうが、しゃらくさいですけど取り敢えず列挙します。

羽虫の群れが鎌倉中に大発生(1月29日)
佐介流北条時盛(時房長男)邸の裏山に光り物(1月30日)
鶴岡八幡宮の神体を仕舞う厨子扉が開かなくなる(2月1日)
由比ヶ浜が赤く変色(3月11日)
艮から坤の方へ大流星(3月12日)
鎌倉で謎の騒動(3月16日)
黄色い蝶が大発生(3月17日)
日傘現象(4月25日)
西から東へ光り物が飛び、甘縄の安達義景邸で白旗1枚が出現(5月18日)
津軽の海辺に人型の大魚が漂着し、陸奥国の沿岸部の海が赤く染まる(5月11日)と佐原盛時が報告(5月29日)

とまあ、これでもかってくらいの怪奇現象のオンパレード。しかも佐介北条時盛が病気にかかり(2月6日)、黄色い蝶は兵革の前兆で、将門、貞任、泰衡、和田合戦の時もそうだったと抜かし、人型の大魚に至っては泰衡、頼家、和田の時そうだったとほざく有様。

平成15年(2003)の春先に歌津に迷い込んだアザラシのウタちゃんじゃあるまいし、和田義盛はともかく、二度も引き合いに出される平泉藤原泰衡こそいい面の皮です。

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4代執権経時の早世に端を発する騒動、政変劇、何が何だか訳がわからない大人の事情で父親と離れ離れにされたわずか8歳の将軍頼嗣は、一連のクーデターをどのような目で見、いかなる思いに至ったことでしょう。

小学二年生の妻とさせられた桧皮姫にはどのような振舞いが求められたかは不明ですが、将軍およびその実母、継母と弟2人らに囲まれ、多感な高校二年生には酷な環境にあったのではないでしょうか。

寛元4年(1246)8月15日、毎年の恒例通り鶴岡八幡宮放生会が開催されます。

5代将軍頼嗣の牛車衛護に山内中務三郎(山内首藤経通)らが、五位六位の行列に北条政村、名越時章、境上総介秀胤、三浦泰村、安達義景、後藤基綱、伯耆前司(葛西清親)、境時秀、佐原光盛、相馬次郎兵衛尉胤継らが、後陣随兵に長江三郎左衛門尉(不明)、壱岐六郎左衛門尉(葛西朝清)、白井千葉胤時らが供奉します。

失脚し、地元に逼塞させられた筈の境秀胤と評定衆を解任された後藤基綱が参加しています。名越流の新当主となった時章の参加も気になるところです。

5代将軍頼嗣が鎌倉政界のどこにシンパシーを向けていたかを窺わせる一件が、8月16日の馬場の儀において発生します。

流鏑馬の射手の一人が急病で欠員が出てしまい、将軍頼嗣は三浦家村を指名します。
三浦家村はしばらく流鏑馬に参加していないので務まるかどうかわからないと、参加を渋りますが、自然板挟みとなった兄泰村の説得とお膳立てでその場を見事務め上げ、将軍頼嗣以下全員から喝采を受けます。

そして8月17日、将軍頼嗣はまた体調を崩してしまうのです。

10月13日、一連の騒動における最後の砦、ラスボスとも取れる人物、九条道家が関東申次を解任され、西園寺公経の長男実氏に交替します。

血縁関係だけで権勢を極めた九条道家の失脚の瞬間であり、その後の関東申次の役目が西園寺氏に世襲となった瞬間でした。

これら一連の政変の最大の謎は、政変の名前を“宮騒動”と呼ぶことに尽きるでしょうか。何せ宮(天皇家関係者)いないんですから。なので寛元の政変と呼ぶのが妥当でしょう。

10月16日、将軍御所馬場にて笠懸が行われ、安達泰盛が射手の一人として参加、これがこの人物の日本史デビューとなります。

12月12日、4代将軍頼経が5代執権時頼に書状を送りますが、どのような内容かは記されていません。

12月17日、犯罪者の隠匿と博奕を禁止する命令が出されます。前者は寛元の政変の余波であることは言う迄もありません。

12月29日、結城朝光が年貢未納騒動に巻き込まれます。

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北条経時の死を狙いすましたかのように騒動が勃発します。

寛元4年(1246)閏4月18日、鎌倉は流言蜚語が飛び交い、鎧武者が行き交う厳戒状態となります。5月22日には甘縄にある安達義景の屋敷で騒動があったと云われ、5月24日には名越光時による謀反の噂が流布します。

4代将軍頼経が将軍派御家人を使嗾し、名越光時を焚き付けたクーデターだったのか、それとも5代執権時頼が将来の禍根を機先を制して潰そうとした陰謀だったのか、5月25日、名越光時は反乱失敗を認めたとも、無実を明かそうとしたとも取れる出家を果たし、伊豆国田方郡江間(静岡県伊豆の国市)に逼塞させられます。

江間はかつて庶流であった義時泰時の得宗家の所領でした。北条氏嫡統の座を勝ち獲った得宗家が、かつての嫡流だった名越家を名実共に庶流に追い貶した瞬間ですが、得宗家の執念、讐心をまざまざと見せ付けられるようで胸糞が悪いです。
そこには名越朝時が子々孫々まで忠誠を誓うとの誓紙はもはや用を成しません。名越一族も名越一族ですが、廻国伝説で有名な北条時頼という男もまた、世直し漫遊記の水戸黄門がその実、凶暴な圧政者であったように、名君の仮面を被った権謀術数家であったのです。

泰時の代には有り得なかった得宗家のこうした暴力的な権謀術数は、息子時宗の代に昇華し、最後の当主高時の代で散華します。

江間氏となった光時の3弟時章、4弟時長、6弟時兼は降伏。5弟時幸は自害したとも、病没したとも伝わります。

放生会に息子3人と総出で参加し、権力を見せつけていた境上総介秀胤は評定衆を解任され、幕府から追放、本領に蟄居となります。千葉一族最初で最後の評定衆の失脚で千葉氏の威勢も揺らぐかと思われましたが、嫡流の頼胤に権力が一本化され、結果オーライとなります。

一方の反得宗家勢力・三浦氏は、当主泰村を北条時頼、政村、安達義景らが丸め込んで事無きを得ます。

7月11日、4代将軍頼経は年ごろ念願していた上洛が叶います。しかし、それは政争に敗れ、鎌倉を追放される形で実現したのです。三浦光村、毛利経光、そして将軍派であったために評定衆を解任された後藤基綱らが供奉し、7月28日到着します。

父義村譲りの蝙蝠ぶりを発揮した泰村に対し、ヤンキー武士の光村はヤル気満々で、京都を出立する8月1日、“何としてでももう一度、鎌倉に復帰させてみせまする!”と涙ながらに頼経に訴えたのだとか。

大の男が涙ながらってのが正直気持ち悪いんですが、このことが義村の蝙蝠ぶりをして幕府第二の家柄に押し上げた三浦家を、みすみす潰してしまう悲劇へと繋げてしまうのです。

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寛元3年(1245)1月28日、彗星が発生、あやまたず御家人は大騒ぎして4代執権経時以下4代将軍頼経の御所に集います。

この時、茂木知定が三浦泰村の上座に座ったことで、千葉胤綱と座席を諍った義村の血は争えず、喧嘩となります。

下野国芳賀郡茂木荘(栃木県茂木町)の茂木知定は、源義朝の落胤と云われ、頼朝乳母寒河尼の兄、幕府重鎮として活躍した八田知家を祖父に、その3男知基を父に、後述しますが葛西光清の娘慈阿尼を妻にしています。

この年は4代将軍頼経が政争のストレスからか、20代にして糖尿病となり、3男や次男頼嗣までもが発熱などの病気に悩まされます。

5代将軍頼嗣は更に首の辺りに腫物が出来るなど、年がら年中病気に罹る有様。

一方の4代執権経時もまだ20代なのに黄疸に悩まされ、2度病臥します。

お互い政争よりも病魔との戦いに懸命な感じ。そのさなかの4月6日、名越朝時が脚気と腹水により没します。享年53歳。長男光時が跡を継ぎます。

5月23日、5代将軍頼嗣に縁談が持ち上がり、7月26日、経時の妹桧皮姫と結婚します。

新郎7歳、新婦16歳って頼経と竹御所鞠子と同じパターン。鎌倉幕府は時代を通じ、政権の正統性を危うくする血脈の不連続を、人間性を無視してでも糊塗しようとします。

経時に俗世を逐われるその実、院政する法皇の如く君臨しようと企んだか、両家の縁談のさなか、7月5日、頼経が出家します。

8月15日の鶴岡八幡宮放生会では、先陣随兵に境上総介時秀、千葉泰胤らが、5代将軍頼嗣の牛車衛護に境上総介秀景、結城朝村らが、御後の五位の行列に北条政村、時頼、足利泰氏、毛利広光、安達義景、境上総介秀胤、泰秀、そして伯耆前司清時(葛西清親)、壱岐六郎左衛門尉(葛西)朝清らが供奉します。

8月16日の馬場の儀も供奉人は同じで、飾り馬の8番目に相馬四郎兵衛尉(不明)の馬が披露されます。

また、流鏑馬の1番目に長江四郎入道明義の馬で射手は長江小次郎(義員?)が、4番目は境上総介秀胤の馬で射手は境秀景が、8番目の射手は山内兵衛三郎が、13番目は相馬胤村の馬で射手は左衛門三郎(長男胤氏?)、的立ては境時秀が務めます。

競馬では5番目に葛西又太郎(定広)の馬が登場します。

葛西又太郎とは長男の長男という意味の名乗りで、小三郎時清の長男定広であることが「笠井系図」からも傍証されます。しかし、葛西氏でありながら清の通字を持たない定広がどういう経緯でつけられた名前なのかは不明です。

寛元4年(1246)1月29日、88代後嵯峨天皇は院政を志し、わずか4歳の第4皇子久仁皇太子に譲位します。89代後深草天皇です。

2月28日、4代将軍頼経は名越光時、三浦光村といった、所謂将軍派御家人だけのわずかな供奉で二所詣に出掛けます。

3月21日、4代執権経時に死期が迫ります。2人の息子はまだ幼く、後継は務まらないとの判断から3月23日、次弟時頼に家督及び執権の座が移ります。或いは息子が成人するまでの中継ぎだったかもしれません。

4月19日、経時は出家。そうしないと成仏出来ないと考えられていた故です。そして遂に閏4月1日、北条経時は享年23歳の若さで没します。

14に続きます。

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