源頼朝はそのまま八幡宮に一泊し、早朝帰りますが、その朝日がまるで日食でもあったかのように輝きが無かったというのです。
本当かどうかはわかりませんが、例によって乱の前触れを意味する怪奇現象の記述です。そのターゲットは昨年息子を晴れの場で暗殺された安田義定。
4月21日、かつて平重衡によって焼亡した華厳宗大本山東大寺(奈良県奈良市)再建の勧進に全国を募金していた文覚でしたが、かねてより預かっていた或る一人の男を、大江広元を通じ、京都から鎌倉に下向させます。
その人物の名を平六代。高清とも云われます。あの平清盛の長男の長男のそのまた長男という、超がつくほどのセレブリティです。この時22歳。
平正盛を初代として、その6代目という意味でつけられたこの人物は、父維盛の入水自殺後、母が貴族に再婚したことや、祖父重盛がかつて頼朝を助命したこと、また文覚による嘆願もあり、助命され、文覚預かりになっていました。
平六代は出家し、妙覚と名乗り、その報告に鎌倉を訪れたのですが、源頼朝は妙覚の聡明さに、恰も家康の秀頼を見るような一抹の猜疑心を湧かしながらも、その従順さに感心し、6月15日、対面した頼朝はある寺院の住職に妙覚を任命します。
しかしながら妙覚のその人生はやはり、死ぬ為の生涯だったのです。
これと前後して5月20日、宇都宮朝綱・頼綱親子が公田(国衙領)100町(約100ヘクタール)の年貢を掠領(横取り)した廉で下野国司に訴えられ、流罪となる事件があり、本拠地宇都宮城(栃木県宇都宮市)は氏家公頼が城主代行を務めます。
氏家公頼は朝綱の息子とも、紀姓の氏家公幹(1028〜96)の子孫とも、更には小山氏とも橘氏とも云われます。
出自はともかく、公頼は弓の名手として頼朝に仕える鎌倉御家人でした。
また6月10日、9本足の異馬を射殺したことがけしからんということで、伊佐為宗の郎党源五七郎が和田義盛によって逮捕されるという、同情を禁じ得ない事件が起きます。
6月25日、京都を荒らし回る強盗どもがお縄となり、陸奥国への流罪が決まります。左近将監(伊沢留守)家景が監視役を命ぜられます。
北条政子は17歳になった大姫を、義理の甥に当たる一条高能に嫁がせたいと思うようになります。相手としては無難でしょうが、肝心の大姫は前の相手、清水冠者義高が忘れられず、結婚するくらいなら入水自殺しますと断乎拒否。また7月29日、これまで以上に体調を崩し、困った頼朝は8月8日、相模国大住郡(神奈川県伊勢原市)日向山霊山寺薬師如来参詣を思い立ちます。
20に続きます。