2016年08月

建久5年(1194)3月15日、鶴岡八幡宮別当寺院で僧侶らによる舞い踊りの酒宴が催され、源頼朝は昨年暗殺された工藤祐経を思い出し、落涙します。後々落涙するくらいなら刺客兄弟なんぞにシンパシーを感じるなよって。

源頼朝はそのまま八幡宮に一泊し、早朝帰りますが、その朝日がまるで日食でもあったかのように輝きが無かったというのです。

本当かどうかはわかりませんが、例によって乱の前触れを意味する怪奇現象の記述です。そのターゲットは昨年息子を晴れの場で暗殺された安田義定。

4月21日、かつて平重衡によって焼亡した華厳宗大本山東大寺(奈良県奈良市)再建の勧進に全国を募金していた文覚でしたが、かねてより預かっていた或る一人の男を、大江広元を通じ、京都から鎌倉に下向させます。

その人物の名を平六代。高清とも云われます。あの平清盛の長男の長男のそのまた長男という、超がつくほどのセレブリティです。この時22歳。

平正盛を初代として、その6代目という意味でつけられたこの人物は、父維盛の入水自殺後、母が貴族に再婚したことや、祖父重盛がかつて頼朝を助命したこと、また文覚による嘆願もあり、助命され、文覚預かりになっていました。

平六代は出家し、妙覚と名乗り、その報告に鎌倉を訪れたのですが、源頼朝は妙覚の聡明さに、恰も家康の秀頼を見るような一抹の猜疑心を湧かしながらも、その従順さに感心し、6月15日、対面した頼朝はある寺院の住職に妙覚を任命します。

しかしながら妙覚のその人生はやはり、死ぬ為の生涯だったのです。

これと前後して5月20日、宇都宮朝綱・頼綱親子が公田(国衙領)100町(約100ヘクタール)の年貢を掠領(横取り)した廉で下野国司に訴えられ、流罪となる事件があり、本拠地宇都宮城(栃木県宇都宮市)は氏家公頼が城主代行を務めます。

氏家公頼は朝綱の息子とも、紀姓の氏家公幹(1028〜96)の子孫とも、更には小山氏とも橘氏とも云われます。

出自はともかく、公頼は弓の名手として頼朝に仕える鎌倉御家人でした。

また6月10日、9本足の異馬を射殺したことがけしからんということで、伊佐為宗の郎党源五七郎が和田義盛によって逮捕されるという、同情を禁じ得ない事件が起きます。

6月25日、京都を荒らし回る強盗どもがお縄となり、陸奥国への流罪が決まります。左近将監(伊沢留守)家景が監視役を命ぜられます。

北条政子は17歳になった大姫を、義理の甥に当たる一条高能に嫁がせたいと思うようになります。相手としては無難でしょうが、肝心の大姫は前の相手、清水冠者義高が忘れられず、結婚するくらいなら入水自殺しますと断乎拒否。また7月29日、これまで以上に体調を崩し、困った頼朝は8月8日、相模国大住郡(神奈川県伊勢原市)日向山霊山寺薬師如来参詣を思い立ちます。

20に続きます。

ヤフーニュースのコメントに好き勝手投稿してんだけど、何でスポーツ関連のコメントって粘着質な返信が多く来るかなー。スポーツマンシップの欠片も無い(笑)芸能も政治も科学もあんまそんな絡まれないのにね。

おいらは高野連て組織はやること成す事一切合切支持しないけど、女子マネの立ち入りを制限したい気持ちは痛い程よくわかる。

別の競技の元選手とか科学者とか、有名人もこれについて色々コメントしてっけど、どれもが皆高野連の大本営発表から抜け切れてない意見ばかり。多分野球知らないか、野球じゃなくてチア見てるような人達の意見かなって思っちゃった。
そもそも話が大きくなったのは、悪いけどその女子マネが美人だったから。でなければふーん、そーなんだー、決まりなんだからしょうが無いよねーって素通りされる。王子様の前のシンデレラみたいなものだな(笑)時代錯誤とか言う前に的外れな批判になってしまってるんだよな。

要は高野連が言う、危険だからはあくまで建て前であって、本音は男女交際に発展する可能性をミリでも摘みたいんじゃないか?甲子園のベンチで人目も憚らずいちゃついちゃうような事態になったら目も当てられないってね。

しかも最近はバックネット裏に少年野球の子達を招待してるから、おい、あのガッコのキャプテンとマネージャー、絶対デキてんぞってなったら、罷り成りにも教育の一環を標榜する高校野球は体面が悪くなる。
逆に野球やればあんなカワイイ子と付き合えるってわかれば、野郎なんて馬鹿だから野球人口は増えたりしてね(笑)

しっかし高野連てのはつくづく狡猾な組織だよなー、それについての協議を、おいらはてっきり大会終了後になあなあで開いてテキトーに誤魔化して先延ばしして世間が忘れてくれるのを待つのかと思いきや、期間中にいきなり会議開いてやっぱ駄目って結論にした。これで黙っちゃったよね、全員。マリオというよりは鷹の爪団みたいな首相は対中外交をこれくらい狡賢くやってくれるといいんだけどね。

一応新聞社とテレビ局が幾つかついてるから、そいつらの入れ知恵なのかも知れないけど、またNHKがいい感じにフォローしてんの。どこそこ高校は女子マネ採ってませんとか、女子マネのベンチ入りはつい最近のこととか、裏で真田昌幸が軍師になってんじゃねーかって思ったな。迅速にやらんとー煩い民を黙らせるのは容易ではないぞぅなんてね(笑)

それより観客の殆どが特定のチームに偏った応援になった試合があったな。そっちのほうが大問題だと思うんだけどな。

最初NHKの実況アナウンサーは最初、異様な雰囲気ですって言ったのに、その舌の根も乾かない内に、これは相手校への声援でもありますなんて苦しい言い訳をしていた。

で、朝日新聞とかいう、こらまたやる事成す事全く支持出来ない組織が、同じ事書いて体裁を取り繕ってた。馬鹿だと思ったね。

強いチームが勝つのではなく、勝利者は観客が選ぶという、悪しき前例を作っちゃったんだよ。北京オリンピックで中国選手の対戦相手に口汚い野次を飛ばすような、大袈裟かも知れないけど日本も確実に不愉快な煽動全体主義に堕ちている。衆愚も極まれりだよ。

どこかで止めないと、あのチームムカつくからとか、女子マネやチアが可愛いとか、理由にもならない理由でバックネット裏も含めてタオルぐるぐる回しちゃうよ。ネットで予め告知し合ってさ。

まーでもいいよね、スポーツって。地元選手じゃないとか、不祥事による出場停止の基準がいい加減だとか、炎天下9回まで100球以上投げさせるとか、女子野球実質無視とか、そんな白球の黒歴史になるような事案は、感動をありがとうー!でわーっと盛り上がってしまえば忘却の彼方に去っちゃう訳だから。

メダル最多おめでとうー!って騒ぐ前に、頼むから誰か目の前の5年前から段差になって放置されてる道路、直してくんねーかなって。それよりも国破れて次回も幻になりました、なんてなったらズッコケるけどさ。

てな訳で今回はこの辺で。


建久4年(1193)11月5日、下総国香取郡(千葉県香取市)の香取神宮の造営(建て替え)宣旨が朝廷より下され、治承元年(1177)12月9日に葛西三郎清基(豊島清元)が担当して以来16年振りに、千葉常胤が造営を担当することが決まります。

造営は建久8年(1197)2月16日までの約4年間を費やします。その間神体は別の場所に移動(遷宮)します。

11月18日、武蔵国埼玉郡八条院領太田荘(埼玉県久喜市)の鷲宮神社の社殿に何故か流血が現れ、合戦の前触れではないかと判定されます。

11月27日、永福寺薬師堂の着工式が行われ、葛西兵衛尉清重が先陣随兵として参列します。

永福寺関連の仏事も葛西清重の登場も1年振りとなります。

香取神宮造営宣旨を受けた千葉常胤は永福寺の儀礼に参列していませんが、嫡孫の成胤が頼朝の刀持ちとして参列しています。

この時、安田義定の嫡男義資が参列する女房衆の1人に懸想し、艶書(ラブレター)を渡します。

その様子を同じく参列していた女房の1人である梶原景季の妾があざとく景季に密告し、それが景時を通じて頼朝の耳に入ります。

これを聞いた頼朝はスキャンダルじゃ~!となり、安田義資は翌日の11月28日、斬首。すかさず父の安田義定も12月5日、所領没収。

恋愛トラブルのほうでも将軍職の頼朝なんて人の事言えた義理じゃないし、しかも北条義時が姫の前に懸想して恋文を送り続けているのを見た頼朝は、わざわざ2人の結婚を仲介しているほどです。

そもそもラブレターくらいで(内容やアプローチの仕方云々はともかくとしても)翌日斬首って酷くないか!?って思うんですが、実際のところは鷲宮神社の流血予言(?)に見る如く、合戦だったのかもしれません。

義資の父安田義定はかつては東国群雄の1人として、挙兵当時まだ朝敵だった頼朝とは互角かそれ以上な立場であり、この時点でも押しも押されぬ幕府重鎮、と言えば恰好はいいが、油断ならない危険な存在、獅子身中の虫でした。

義資斬首義定所領没収は、禍根となる危険分子は罠に嵌めてでも予め摘んでおくという、鎌倉幕府がその時代を通じて手汚く行って来た粛清の手法でもあったのです。

振り返れば源範頼もその例に漏れないのでしょうが、遠江国を中心に幕府内で幅を利かせていた安田義定一族は没落の道を辿ります。

ちなみにこの年は、北条義時に次男朝時が誕生します。母は比企朝宗の娘姫の前。

建久5年(1194)2月2日、当時は北条分家江間義時の長庶子でしかなかった金剛丸13歳が元服します。源頼朝お気に入りだった為に幕府内で式典が執り行われます。

3方向にそうそうたる有力御家人達が並び、その1席に葛西兵衛尉清重が列席します。

頼朝自ら加冠役を務め、太郎頼時と改名します。

北条頼時が加冠の返礼に鎧を献上し、また刀を賜ります。儀式は宴会へと移り、三浦義澄の孫娘、次男義村の長女を許嫁にすることが決まります。

19に続きます。

曽我兄弟の仇討ち物語は兄弟の死後間もなく伊豆国(静岡県)を中心に様々な人々の手や口伝てによって編まれていったようで、その原型は「吾妻鏡」よりも早く、文永年間(1264〜75)には成立していたようです。

まず始めに「真名本」と呼ばれる漢文仕立ての書籍が完成し、16世紀に写本した僧侶の宗旨たる千葉県安房郡鋸南町の日蓮宗富士門流保田派・中谷山妙本寺にちなみ、「妙本寺本」が現存最古の写本として今に伝わります。

「曽我物語・真名本」は何故か日蓮宗富士門流の寺院を中心に写本され、静岡県富士宮市北山の日蓮宗富士門流重須派・富士山法華本門寺に伝わる「本門寺本」、同じく富士宮市上条の日蓮宗富士門流総本山・多宝富士大日蓮華山大石寺では真名本を読み下した「訓読本」が発祥しています。

更に時代は下って、物語性を重視した「仮名本」が京都を中心に流布するのですが、本論から外れてしまうので、詳細は割愛します。

建久4年(1193)7月3日、常陸国新治郡小栗御厨(茨城県筑西市協和)の地頭小栗重成が精神を病み、極めて危険な状態に陥ります。

7月10日、源頼朝は相模国三浦郡小坪郷(神奈川県逗子市)の浜に避暑で訪れ、三浦郡長柄郷(神奈川県葉山町)を本領に、深谷荘を賜った長江氏らが頼朝を接待します。

7月24日、平泉藤原泰衡を梟首し、曽我兄弟の伯叔父でもある淡路国(兵庫県)守護・横山時広が、珍しいものを御覧にいれましょうと、頼朝の前に前足5本、後足4本のいわゆる“異馬”を披露します。

5月に所領の淡路国国分寺(兵庫県南あわじ市)にて横山時広が発見したこの異馬は、ヒトやウマなどにごく稀に発生する突然変異の結合双生児ではないかと見られます。

流石の頼朝も気味が悪いと思ったか、伊沢家景に陸奥国津軽郡外ヶ浜(青森県)に放てと命じます。

どのような外観だったかは不明ですが、奇形の馬は歩行には問題はなかったようで、陸奥国志田郡(大崎市)まで辿り着いた時に、地頭伊佐為宗の家人が余りの不気味さに耐え兼ねてこれを射殺してしまいます。

8月2日、横山時広の甥のトバッチリを喰らう形となった源範頼は逆意は無いとの起請文を頼朝に提出しますが、源姓で署名したのがケシカランとか、だったら何て署名したらいいんだよって言いたくなるよな、身内なのに有り得ない言い掛かりをつけます。

そうこうしている内に、館の下に範頼の郎党が忍者のごとく潜んでいるのが見つかり、捕縛されます。頼朝は範頼についてどう考えているか探るためと言うんですけど、頼朝がでっち上げたとしか思えません。

8月12日、頼家、実朝ときて今度は精神を病んでいた大姫が病臥します。頼家の天然痘が感染ったのでしょうか。

単なるトバッチリで遂に進退窮まった範頼は8月17日、静岡県伊豆市の真言宗(現曹洞宗)福地山修禅万安禅寺、通称修禅寺に流罪となり、その日の内に自決したとも、梶原景時、または宇佐美祐茂(工藤祐経弟)と狩野宗茂(工藤祐経従兄弟)に暗殺されたとも言われます。享年43歳。

これを受けて芋づる式に範頼の家人達が討たれ、範頼の郎党になっていた曽我兄弟の同母兄弟・原小次郎が惨殺されます。

更に大庭景義と岡崎義実が突然の出家を余儀なくされます。

頼朝挙兵の初期メンバーとして鎌倉幕府の重鎮、長老格とも言える大物2人の出家は、範頼に連なっていたゆえの連座なのか、実は曽我兄弟の黒幕だったからなのか、疑問は尽きません。
こうして曽我兄弟の工藤祐経暗殺事件に絡み、常陸国(茨城県)関係者、とくに源範頼周辺が理不尽にも血の粛清を受けました。葛西清重が常陸国新治郡小栗御厨(茨城県筑西市協和)を拝領したのは、騎馬の手綱捌きが見事だったからなどではなく、元の領主であった小栗重成が恐らく狂死という名目で一連の常陸人脈の粛清を受け、その後釜に頼朝にとって”隔たりが無い関係“の御家人を配置した結果だったのではないでしょうか。

いよいよ源頼朝が猜疑心の牙を露わにしたような粛清事件ですが、軍事政権であった幕府とは、平時には将来の禍根となりそうな存在に例えその意志、すなわち犯意、野心が無くても、たばかってでも敵と見做して滅ぼしていかなければ政権を保てない、そんな宿命を持っていたのです。

それは血で血を洗う、無益な流血を700年間、続けなければならないということを歴史的に意味していました。

範頼の子供達は出家させられましたが、その子孫を称する吉見氏が各地に根を下ろし、石見国(島根県)に移動した一族は周防大内氏に仕え、陶晴賢の乱では毛利元就と連携しながら弔い合戦をし、結局毛利家臣となっています。

薩摩藩島津氏は関ヶ原での敗戦のリベンジを誓い、曽我どんの傘焼きなるイベントを催し、影裏に牙を瀏々と研いでいたようです。これが明治維新の原動力になったことは言うまでもありません。

赤穂浪士討ち入りもそうなんですけど、美談の裏には政治的にキナ臭いものがあるというのが鉄則です。そもそも美談じゃねーし。よくこんな三文芝居に首ったけになれるよなー、ストレス溜まってんのか日本人はって思いますな。

18に続きます。

奇しくも巻狩の最中に本懐を遂げた兄弟は仇討ちを大声で騒ぎ立てたために、宿所は果たして大騒ぎとなり、海野幸氏など名だたる御家人が暴れ回る曽我兄弟のために負傷し、運の悪い者は落命します。

やがて兄の祐成は仁田忠常に討ち取られます。

弟の時致はさらに不可解なことに、頼朝の居場所目掛けて突撃を敢行し、頼朝は迎撃体制に入りますが、大友能直が間に立ちはだかり、狼藉者を引っ捕らえます。

事の発端は土地に絡む約束不履行と詐欺事件で、殺ったら殺り返すでこじれていくという、典型的ヤクザな展開。

伊東祐親に土地を横取りされ、離婚を余儀なくされたことに腹を立てた工藤祐経は、祐親を狩猟の最中に暗殺しようとして刺客を放つも、長男祐泰だけが巻き添えとなって射殺されてしまいます。

この事件の背後には、伊東祐親の3女八重に産ませた長男千鶴丸を殺害されたことへの報復として、源頼朝が工藤祐経に祐親暗殺を唆したという説があるのですが、真偽はともあれ、未亡人となった妻横山時重の娘(安倍貞任を梟首した横山経兼の曾孫で、平泉藤原泰衡の首を晒した横山時広とは姉妹)は曽我祐信と再婚したことは前述しました。

曽我時致が源頼朝の命を狙ったのは、曽我兄弟の祖父伊東祐親にとって頼朝は意趣ある人だから、というのです。八重の強制離婚と千鶴丸殺害、祐泰射殺、そして北条宗時戦死、そして伊東祐親自害、次男祐清も戦死と、意趣どころか泥沼の遺恨合戦です。

源頼朝は曽我時致の態度に段々感動するようになったとあるのですが、それがもし本当なら源頼朝は有り得ない馬鹿野郎です。無論それは工藤祐経殺害は表向きの理由で、兄弟の本当のターゲットは工藤祐経を影で唆したとされる頼朝なのかも知れないのですから。

実は曽我兄弟は父を喪った幼い頃から父の仇を討つ為に生涯を賭けたと云われていますが、本当にそうなのかと疑いたくなる部分もあるにはあります。
継父の曽我氏の所領は狭く、相続すべき土地が無いと知った兄弟は北条時政に接近しています。

筥王丸時致はその北条時政を烏帽子親に一字を拝領、鎌倉幕府御家人として活動していて(第八章10参照)、果たして父を殺された恨みを毎日抱いていたのかは疑問です。

伊東氏の没落はかつて義理の親子となりながらも傘下に置かれる恐れがあった北条氏にとっては得になります。

一方、工藤氏と曽我氏は対立関係にあったとされます。

陰謀家北条時政が若い刺客を育成し、仇討ちという大義名分のもと政敵を葬ろうとしたのでしょうか。
因みに曽我兄を討った仁田忠常は北条時政の郎党であり、祐成は口封じのため抹殺処分されたのではないかと感じます。

一方で時致は仇討ちついでに頼朝まで葬ろうとしたのか、または頼朝も北条時政と同じ黒幕の立場で、曽我弟はその報告に上がろうとしただけなのか。

捕まった曽我時致は助命しようかと頼朝は思いますが、工藤祐経の息子の嘆願により処刑されます。

曽我兄弟の仇討ち、というよりは曽我兄弟事件、ないし工藤祐経暗殺及び源頼朝暗殺未遂事件と呼んだ方が妥当な一件は思わぬ方向へと飛び火します。

常陸国久慈郡(茨城県)の武士が仇討ちにびびって逃げた罪で所領を没収され、筑波郡(茨城県)の多気氏も八田知家に騙されて潰され、更にその累は常陸国に強い影響力を持ち、曽我兄弟の同母兄弟を郎党にしていた6弟範頼にまで及ぶのです。

「保暦間記」によれば、曽我兄弟の仇討ち騒動で源頼朝の生死が不明となり、ショックを受けた政子に範頼が、“私がいるのでご安心を”と励ましたのが反意ありと疑われたとあります。

しかし、頼朝に取って代わるような野心も行動も、人脈さえ無いことは、「吾妻鏡」を読む限りでは一目瞭然なのです。ましてや義経のように具体的な行動も皆無です。しかも「吾妻鏡」にはこのようなやり取りは、不可解にも記載が無いのです。

17に続きます。

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