2016年04月

乳母山内尼に哀願された源頼朝は終始無言でしたが、山内首藤経俊の生殺与奪を握っているキーマン・土肥実平に命じて唐櫃を持って来させ、中から石橋山の合戦で着用した鎧を出して山内尼に見せます。

すると鎧の袖に矢が刺さっていて、葛巻のところには何と“滝口三郎藤原経俊”の文字が。

頼朝がその名を読み上げると山内尼は遂に進退窮まり、退出します。

しかしながら源頼朝は育ての親の哀訴を受け入れることにしました。山内首藤氏の屋台骨は正に山内尼によって守られたのです。

一方で山内首藤氏の家名を汚した経俊は頼朝の御家人の列に加わります。京極高次以上のホタル武者か、徳川家康にとっての孕石主水といったところでしょうか。利害関係が発生しないのを良い事に、高をくくって相手を馬鹿にしたら、その相手が何時しか自分より偉くなって、後で痛い目に遭う。対人関係に良くある話ですな。山内首藤経俊を見てると他人様には謙虚に接するのが一番だなってつくづく思うのです。

治承5年(1181)閏2月4日、平清盛がマラリアにより高熱に魘(うな)されながら没します。享年64歳。平将門から鎌倉幕府成立に至る迄の武家自治政権樹立の為の試行錯誤の中で、武家政治の正に先駆者となり、その後の時代に大きな影響を与えました。

ちなみに平清盛の遺言は「平家物語」によると“頼朝の首を墓前に据えよ”ですが、「吾妻鏡」によれば“東国の鎮圧”でした。

源頼朝といっても平泉藤原氏、越後の城氏、甲斐駿河の武田氏、遠江の安田氏、信濃の木曽氏などなど、東国に割拠する群雄の一つに過ぎません。吾妻鏡が正しいと見ます。

3月6日、熊野別当湛増による伊勢神宮へのイザコザについて、伊勢神宮側は御家人・中八維平を通じ、源頼朝に嘆願しています。

源頼朝の6弟で遠江国で養われていた範頼、8弟乙若丸、円成から改名した義円がいつ頃頼朝に合流したのかは記述が無いため不明です。

平重衡(清盛5男)、維盛や、平盛綱と盛久(清盛の側近盛国の息子達)らを指揮官とする平家軍は官軍として東征します。

これに対し源氏方の新宮行家は、あわよくばこの合戦で一旗挙げてやろうと企み、義円らを連れて美濃国安八郡墨俣川(岐阜県大垣市墨俣町)を挟み、布陣します。

3月10日、新宮行家は富士川の合戦の顰みに倣って奇襲をかけようとしたところ、更に義円が抜け駆けします。

足並みバラバラ、稚拙な戦法では平家軍に歯が立たず、義円は戦死し、行家もすたこら逃げます。

割とあっさり亡くなった義円に、頼朝や義経がどのように感じたのかは不明です。

22に続きます。

源頼朝と葛西清重の妻との秘めた接待は、腹の底の見えないむさ苦しい野郎どもと命を張ったり、削ったり、遣り獲りしたり、駆け引きしたり等、極限の激闘の最中に営まれたと考えると、また違った姿形に見えてきます。

実際のところは葛西清重の人となりに期待しての下賜であるにも関わらず、「吾妻鏡」の編者は、そこに夜伽の話を挿み込むもんだから、何だか清重がかみさんを人身御供にして領地を得たみたいで男尊女卑感が並々でないし、現代的価値観と相容れないという意味で“異常”な行動に見えるのです。

ですがしかし、存外主従の絆を深めるため、多忙の主君を御饗(おもてな)しするため、御家人として忠義の覚悟を見せるため云々と考えると、結果として妻女の貞操一つで国が救われ、民が助かるわけですから、「吾妻鏡」が記すように“結構”なことなのではないでしょうか。

葛西三郎清重は先に葛西を名乗った千葉常胤の弟の養子になったとか、妻を飯田、江戸、畠山から迎えたとかいう「B類系図」の説を一切合切斥けると、この当時、さほど身分の高くない先妻との間に長庶子小三郎こと三郎太郎時清と名乗る3、4歳の幼児と、正室千葉常胤の娘との間に何人かの子供がいたようです。

源頼朝の女性関係で知られるのは、頼朝の乳母・比企尼の長女・丹後局で、前夫惟宗氏との子供島津忠久、再婚相手安達盛長との長男景盛が頼朝の落胤であるといわれますが、後世の説のようです。また、大友能直の母が源頼朝の妾で、能直が隠し子だったというのも大友系図の勝手な主張のようです。

源頼朝は多摩郡にある武蔵国府(東京都府中市)に入り、寺社の擁護や安堵を行い、7弟醍醐禅師全成を河内源氏の祈祷寺たる天台宗山門派長尾山威光寺(神奈川県川崎市多摩区長尾)の住職に任命します。恐らく武蔵国の宗教勢力の統括責任者としての任命でしょう。

この時代の人々は黙って耐えるという真似はせず、能弁に自らを主張していました。

治承4年(1180)10月6日に鎌倉入りした源頼朝によって占領された山内荘は、論功行賞が行われた10月25日、土肥実平に与えられていました。

滝口三郎こと山内首藤経俊は拘束されて母方の従兄弟に当たる土肥実平の元にいたようですが、11月26日、源頼朝は経俊を斬罪にするよう内々に命令します。

経俊の母で頼朝の乳母である山内尼こと摩々局という西洋の母みたいな名前の女性がそれを知り、愚息の助命嘆願に訪れます。

山内尼は、先祖首藤資通“入道”が源義家に仕え、為義の乳母になってよりこの方、代々数えきれない忠義を源氏に尽くし、特に夫俊通に至っては平治の乱で討ち死にしたことを挙げ、経俊が大庭景親に加担したのは平家を気にしたからであって仕方が無かった、どうか赦してもらえませんでしょうか、とつらつら述べて助命を求めるのです。

21に続きます。

源頼朝が末弟義経と対面を果たした、駿河国と伊豆国(静岡県)のやや境目に当たる駿河国駿河郡黄瀬川(静岡県沼津市大岡)を西の境界線と定めた頼朝は返す刀で東進し、三浦義澄、千葉常胤、上総広常による討伐嘆願を受け、平家方に付いていた常陸源氏佐竹一族の棟梁で平泉藤原清衡の外孫でもある佐竹隆義が、京都大番役で不在の隙を突いて、電光石火の勢いで佐竹領を襲撃します。

その際、佐竹家臣で新治郡岩瀬郷(茨城県桜川市)領主岩瀬与一太郎幹景が、清和源氏同士滅ぼし合うことの非を頼朝に諌言したとあるのですが、頼朝は元々佐竹氏に圧力はかけてもここで一気に滅ぼそうとはせず、佐竹氏を常陸国北部、いわゆる奥七郡に追い遣る程度に留め、嘗て平将門が焼き討ちした茨城郡常陸国府(茨城県石岡市)を抑え、那珂川(茨城県水戸市、ひたちなか市)で常陸国南部の勢力圏を確定し、下野国(栃木県)を始めとする北関東と、背後に控える未来の仮想敵国・平泉藤原氏との動向を何時でも監視出来るようにしつつ、東の境界線を定めます。

佐竹隆義の長男義政が頼朝の暗殺指令を受けた上総介広常によって騙し討ちされます。隆義の次男秀義が急遽嫡男となり、父子はその後断続的に頼朝支配領域に領地奪還の戦いを挑みますが、那珂川の防衛ラインを越えられません。

その前線に岩瀬幹景の本拠地や、後に葛西清重の所領になる新治郡小栗御厨(茨城県筑西市協和)があるのですが、後に鎌倉武士団の御家人に加わる岩瀬幹景の愁訴を受けて佐竹氏を滅ぼさなかった話は、平将門をベースにした高度な関東支配戦略が説話化、寓話化したものに過ぎません。

常陸国信太郡でどこにも味方せず、せっせと領地経営に専念していた源頼朝の3番目の叔父志田義広が、10番目の叔父新宮行家を伴い面会に訪れますが、反りが合わなかったのか、戦列には加わりません。

源頼朝は茨城県筑西市から東京都葛飾区まで、わずか2日の強行軍で、治承4年(1180)11月10日、葛西清重の館に止宿します。

葛西清重の本拠地葛西御厨は、点在する微高地に居住空間や墓域が設けられ、多くを占める低湿地帯には田畑が広がり、領域を囲む河川と湾を利用して海上交通や漁撈が営まれていたものと考えられています。

そこで源頼朝は葛西清重の歓待を受けるのですが、冒頭に示した如く、未婚の若い女性と称して自身の妻を夜伽に差し出すという、吃驚仰天な行為に及んだことが「吾妻鏡」に記されるのですが、夫清重と共に一枚の肖像画に収まっている“清重の妻”というのも系図によって諸説マチマチで、「B類系図」には、江戸重継(秩父重弘の弟、重長の父)の娘、相模国鎌倉郡飯田郷(横浜市泉区)の飯田家継の娘、武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)の畠山重能(秩父重弘の息子、妻は江戸重継の娘)の娘と多彩ならぬ多妻ぶり。因みに「笠井」では千葉常胤(妻は畠山重能の娘)の娘であると記されます。

面白いことに、江戸重継の娘、畠山重能の娘、千葉常胤の娘と女系3世代で結ばれるのですが、この内江戸重継と千葉常胤は葛西清重から見て義父というよりはじいちゃん世代、畠山重能はまぁ父ちゃん世代なので、血の繋がらない年の差夫婦だった可能性が高いです。いずれにしても頼朝は江戸氏の血を引く(もしくは可能性がある)妻を持つ若武者に江戸重長暗殺指令、ないし所領没収を持ち掛けたことになります。

頼りない系図の中でも「笠井」が割と信憑性が高いと見られるので、清重の妻は千葉常胤の娘である可能性が高いです。

いずれにしても、妻を源頼朝の夜伽に差し出すに際して葛西清重は、頼朝と妻を肉体的に共有することで、源頼朝の門葉藩屏(同族)になろうとしたのでしょうか。門葉となって、頼朝公やその御子孫をお護り奉りますと。

そんな真偽不明な考証はさておき、葛西御厨の主清重に源頼朝は、武蔵国橘樹郡丸子荘(神奈川県川崎市中原区)を与えます。このことは、丸子荘を扼する多摩川を武蔵国の西の境に、豊島、葛西一族が蟠踞する太日・隅田川を東の境と認識決定し、江戸前(東京湾)の水運を統括する役目を葛西清重に委任したと解釈出来ます。謂わば江戸前湾岸警備隊長でしょうか。これによって源頼朝支配領域の中核部としての武蔵国が水運の上から認識確立されたのです。

葛西清重が丸子荘を足掛かりに、多摩川流域に影響を及ぼすようになると、付近からの人材登用が行われるようになり、その中から橘樹郡末長(神奈川県川崎市高津区)を名字に冠する一族が発祥したのが末永氏であり、葛西氏と縁付くことで葛西清重の末裔となり、あたかも葛西氏の一族が縁あって末長に住して名乗ったかのごとくになってしまった。末永氏の由来とは案外そんなところなのかも知れません。

勝手な想像ですが、系図の仮冒は源平藤橘・菅伴在紀、山内首藤氏が藤原氏を自称しながら大碓命に繋がる上代の家系だったように、案外末永氏も平姓葛西氏よりも遥かに古い家系であったかもしれません。

20に続きます。

源義経は都屈指の美女だった常磐御前を母に、源義朝の9男として誕生しました。

平治の乱に参戦した一武将に過ぎない源義朝の幼い遺児達は、異母兄らが配流されたのに連なって全て僧籍に入れられます。

常磐御前の再婚相手の縁故を辿ると、平泉藤原秀衡の義父藤原基成に繋がります。平泉藤原氏の通商、貿易、外交、謀略を担うインテリジェンスエージェント・金売り吉次に導かれ、奇貨として留め置かれます。

いや、案外平家の許諾を得て預り囚人として引き取ったのかもしれません。東北の風土には訳ありな人を割と優しく匿うという気質があるようです。それは最近だと、大人達のカネに巻き込まれて悪評がついた大卒選手を、地元初の球団が敢えて登用したり、東北を舞台に東日本超巨大地震をテーマの1つとした朝ドラのヒロインが故あって芸能界を干された後に地元イメージキャラクターとして登用したような例でしょうか。

平泉藤原氏は兄の元に参戦したがる源義経に難色を示しますが、結局認めたんだそうです。



土肥実平からこんな若造が来てますけど、と知らされた源頼朝は、伝聞だけで義経だろうと判断し、面会します。

物語や小説、ドラマなんかになると、ああ、雑仕女の子か、と言い、少し眼を潤ませただけで、俺様の馬を曳け、と家来扱いしたとありますが、「吾妻鏡」を読む限り、そんな場面はひとっつもありません。ズバリ、書いてないです。

源頼朝は、清原合戦の折、駆け付けてくれた義光のようだと涙ながらに感動し、心ゆくまで語り合ったと記されます。


実は頼朝は義経をただの弟と扱わず、自分に何かあった時の血のスペア、後継者候補と定めたようなのです。九条兼実の日記「玉葉・文治元年(1185)10月17日条」には”父子の義“とあり、所謂猶子であったのではないかとされています。

この時点で頼朝には男子がありませんでした。次男頼家が誕生するのはこの2年後です。

ただし、このことは「玉葉」は兎も角、「吾妻鏡」にとっては不都合な真実だったようで、まるっきり記述がありません。そりゃあそうでしょう、突然東北から出て来た弟というのがいきなり後継者扱いされるわけですから、鎌倉武士団、ひいては頼朝の息子を産む立場にある北条一族にしてみれば面白くない筈です。

さて、義経が鳴り物入りで鎌倉入りしたことで醍醐禅師全成の存在感が霞んでしまったように感じます。

そう、義経の前にその同母兄全成の存在を、凡百の書籍のたぐいは無視ないし忘却しているのです。

頼朝と義経の再会の場には何らかの形で全成が関わっている筈なんです。佐藤継信・忠信兄弟(平泉藤原秀衡の血縁に当たる)のような郎党がいた義経に対し、全成は正に独りで駆け付けています。義光のようだ、はまず全成にかけてあげるべき言葉ではないでしょうか。いや、もしかすると、この場には全成が同席していて、二人に対し、義光云々と言ったのかもしれません。

でも、義光って言われてもなぁ、この当時、佐竹、足利、新田、武田に安田、挙げ句木曽とまぁ河内源氏がバラバラなのは、義光が義忠を暗殺したのがそもそもの原因なわけですから、言われて必ずしも嬉しい喩えじゃないんですよね。でも、もしかすると頼朝は、やがてこいつらは俺様を裏切る、と見越した上での発言なのかもしれません。頼朝って天下人になるだけあって人を見る目はありますから。

治承4年(1180)10月23日、相模国府(神奈川県)に戻った源頼朝は論功行賞を行い、ついでに捕虜となった敵の武士を斬罪ないし自害せしめます。

その際処刑場に選ばれたのが、鎌倉から湘南海岸を江ノ島方面へ、何だかサザンの歌みたいですけど、江ノ島が見える辺りにある片瀬川辺。これは後に龍ノ口処刑場へと発展します。その第一号となったのが大庭景親でした。兄の景義が助命嘆願した形跡はありません。

また、石橋山の合戦で頼朝御家人佐奈田与一義忠を討ち取った廉で捕虜となった長尾為宗を与一の父岡崎義実に、弟定景を三浦義澄の預り囚人とします。

19に続きます。

治承4年(1180)10月13日、駿河国富士郡大石ヶ原(静岡県富士宮市)まで進出した北条時政と甲斐源氏の軍勢は、長田忠致ら平家軍の動きを察知し、待ち伏せして平家方の武士達を虐殺し、その首を富士川の畔に並べ、晒しものにします。

都からやって来た平家の討伐軍は、兵も兵糧もままならない状況に加え、味方の無惨な敗北を見るや、撤退を考えます。折しも抜け駆け狙いの甲斐源氏武田信義軍が夜襲をかけようと川を渡ろうとしたところ、水鳥がワーッと羽ばたきます。

しまった!というのが攻め手側の率直な感想ではないでしょうか。奇襲がばれるわけですから。

平家の討伐軍は、この水鳥の羽音を敵襲と勘違いして戦わずして逃亡云々と、ものの書には記されているんですが、実際敵襲だろうって。

そして平家の軍勢は逃亡などが相次ぎ、4000が1000に減ったとあり、この時既に撤退した後だったのではないでしょうか。実際富士川での戦死者は報告されておらず、追撃した時に殿軍の将を討ち取ったとしか書かれてませんので。

抜け駆けを狙って平家の陣中に雪崩れ込んだら、運のいいことにもぬけの殻。勝てば官軍、言いたい放題ですから、さては水鳥の羽音を勘違いして逃げたずら~と、武田軍は自らのドジを隠すかのように宣伝したのがこの合戦の真相なのではないでしょうか。

それを後世の物語作家は驕る平家の凋落と源氏の勃興を鮮明な色分けでもって、諸行無常のテーマを前面にアピールしたのでしょう。

かくして東海地方にエアーポケット、空白地帯が生まれます。駿河国は武田信義に、遠江国(静岡県)は武田信義の叔父安田義定に与えられます。

鎌倉武士団にとって武田一族と安田義定は、平家や信濃国(長野県)で挙兵した木曽源氏義仲に対する緩衝材(クッション)となるどころか、ややもすれば鎌倉さえ凌駕する独立勢力を構築します。

源頼朝は炯眼だなと思うのは、敢えて西進して上洛を目指しません。西国は不作と飢饉で社会不安が蔓延していました。そこを進めば先細りになってしまうのは自明の理です。

振り返って源頼朝を支持する第一層は、平家政権によって利権を奪われた“坂東平氏”でした。北条や三浦、千葉と上総、豊島や葛西とてその例に漏れません。ある説には、葛西御厨の成立は、下総国衙と対立した葛西清重が、頼朝の顰みに倣って伊勢神宮に寄進したのだとも云われるくらいです。
源平合戦なんていうからこういった事情も見えなくなる。
源頼朝とて関東武士団に担がれたミコシに過ぎないのです。それを誰よりも痛感していたのが頼朝自身だったのです。

西の国境線は取り敢えず確定しました。武田と安田を平家や木曽義仲という“狡兎”に対峙する“走狗”に任命して。

大庭景親の娘婿の縁で父兄と袂を分かっていた佐々木義清が頼朝に降ります。

更に、源頼朝に面会を求める若武者がいました。男の名前は源義経。

念の為書きますが、そんなにドラマチックな場面ではないですよ。

18に続きます。

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