2016年01月

源義家の裁定に清原家衡は不満を持ち、事あるごとに清衡を讒言しますが義家は相手にしません。そればかりか清衡を贔屓するばっかりで取り付く島もありません。

そうこうしている内に源義家は家衡に清衡の屋敷・豊田館に同居するよう命じます。

応徳3年(1086)、清原家衡は密かに手下に命じ、清衡を暗殺しようとしますが、清衡は事前にこれを察知し、草むらの中に隠れて難を逃れたものの、家衡は館を焼き払った挙句、清衡の妻子眷属を皆殺しにしてしまいます。

源義家の裁定からかれこれ3年が経っていました。正直何を今更、という感が否めないでもありません。

安倍合戦における阿久利川事件を、その不可解さをもって謀略ではないかと考える向きは少なくありません。

また、清原合戦における真衡頓死を、やはり暗殺だと疑う向きも少なくありません。おいら個人の意見としては、この二つの事件は陰謀ではないかと見ています。

しかしながら清衡襲撃事件を謀略だ、と疑う人はおいらの知る限りでは余り見受けられません。阿久利川事件や真衡頓死を謀略と疑うなら、この事件も陰謀ではないかと疑ってみる価値はあるというにも関わらず、です。

まず清原家衡自身に不満を感じる蓋然性がありません。先程も述べたように、三郡といっても何処と何処と何処なのか、はっきりしないのです。それに、今までさしたる所領を持っていたかどうかもわからない、謂わばニートのような若者が突如として、村とかではなくて、瘠せても渇れても郡を三つも貰えたのなら、破格の待遇でしょう。シカトされた成衡に比べたらラッキーなほうです。

ラッキーついでに、国家に準じて戦った成衡よりも国家に反逆した家衡のほうが好待遇だったという事実を忘れてはなりません。しかも成衡は源義家の義弟なのです。不満を持つことさえおこがましいし、実戦経験から義家に逆らえばどうなるかも身に沁みてわかっている筈です。

更に殺害すべき対象者は父親違いながら一つ屋根に住んでた同腹の兄弟なのです。もっとも、兄弟だからといって必ずしも仲良しこよしでないことは古今東西枚挙に暇はありませんけど、もっと具合の悪いことには、清衡の妻は清原一族、もしかすると腹違いの姉である可能性があるのです。

清原家衡は我儘で欲望肥大のままに血の繋がった兄と姉を手にかけようとしたのでしょうか。

周りの家来達はどうだったのでしょう。本人らがその気はなくとも、周りが対立したために仲違いした例もあるにはあるのですが、真実を語ってくれるものは何一つありません。

そして二人の母親である有は?あまり考えたくはありませんが、この頃母親は亡くなっていた可能性が高いのではないでしょうか。存命であれば争い合う兄弟間の抑止力になったでしょうから。

21に続きます。

26歳になった源義家が東北を去ろうとした康平7年(1064)、清衡は9歳の童子、家衡は産まれたばかりの赤ん坊に過ぎませんでした。

それから約20年後、3人は奇しくも戦場で、敵味方として再会を果たします。

それは、久し振りだな、大きぅなったな、お前達、といった感慨深い再会ではなかったでしょう。特に清衡にとって義家とは父や伯父を殺害した男の長男なのですから、違った意味で含む所ありだった筈です。

清原真衡亡き後、取り敢えず源義家は奥六郡を折半し、清衡と家衡に分け与えます。

ここで真衡の養嗣子成衡は無視されました。正確な意味で清原の血類ではないのですから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれません。それとも奥六郡以外に所領を与えられていたのか、そうだとしても家督相続の対象から除外されたことは明らかです。

物の本には、岩手、紫波、稗貫の北三郡を家衡に、和賀、江刺、胆沢の南三郡を清衡に与え、家衡の勢力範囲を仙北三郡と合わせ、清原家家督を継がせたけれども、北三郡は土地が瘠せているために家衡は不満を覚えた云々…とあるのですが、それを証すような一次史料が、実は存在しないことが判明します。

ですから折半された奥六郡の取り分が紫波、稗貫、和賀と、江刺、胆沢、岩手だった可能性もありますし、更に山北三郡は家衡の取り分ではなく、清原家家督でもなかった可能性もあるわけです。

このことは家衡が後に清衡を襲撃する不可解な事件を起こす原因でもあるので、なおざりには出来ません。

清原家衡が兄清衡の処遇に不満を持って讒言したというのなら、清原清衡の取り分は少なくとも胆沢と江刺である可能性が高いです。江刺郡豊田館とは祖父五郡太大夫藤原頼遠の所領の一つ、下総国豊田郡に因み、胆沢郡には鎮守府が置かれているからです。

鎮守府がある胆沢郡を所領とすることは、清原清衡が源義家の威光を傘に、北東北全域を下風に置くことを意味していました。すなわち、清原であって清原でない亜流の者が清原家中を取り仕切る仕組みになってしまったのです。

源義家にしてみれば、カリスマ亡き後の清原家中にはどう頑張っても痼が残り、やがて新たなる混乱が発生することがわかり切っていたので、それを見越した上で、自分の意のままになる傀儡を立てることにしたのでしょう。

その前提で抜擢したのが清原清衡だったわけです。

後に世界遺産に認定されるまでになる仏法楽土平泉の始祖となった藤原清衡。当時の清衡に栴檀は双葉より芳しとばかりに、大器の片鱗を見せていたかどうかは不明です。全く無能だったわけではないでしょうが、義家にとって当時の清衡は御し易い人物に見えたのではないでしょうか。

20に続きます。

国司軍の加勢を得た真衡軍でしたが、反乱軍が優勢となります。

そこへ図ったようにナントカの味方が颯爽と現れ、進退可否の通牒を突き付けます。

清原清衡と家衡は歴戦の勇者に尻込みして、退却しようとしましたが、ここで清衡の親族・重光なる人物が、東北人の鬱積したルサンチマン根性を程良く代弁するかのようなアジテーションを行います。

いわく、天皇だがらっておっかねがるには値しねぇ、ましてや国司ぐれぇでや、と。

重光、まさに長広舌です。これは「陸奥話記」における安倍頼良の名言“人倫の世に在るは皆妻子のためなり。貞任愚かといえど父子の愛、棄て忘るること能はず。一旦誅に伏さば、吾何をか忍ばんや。(中略)たとえ戦さ利あらずとも、吾が伜の死すること、また可ならずや”に相当する大演説と言えましょう。

しかし、重光の爆弾発言がいまいち虚しく響くのは、避けたかった戦を余儀なくされた安倍頼良ほどの悲壮感が無いのと、かの張本人がその後呆気無く討死してしまうからでしょうか。

因みに光厳上皇の牛車に対し、“院と云うか、犬と言うか、犬ならば射てまえ”とほざいて狼藉を働いた土岐頼遠の事件が「奥州後三年合戦記」編纂の5年前、興国3年(南康永元年・1342)に発生しています。

源義家軍に瞬殺されてしまった重光。清衡の親族ということは、父方の藤原氏なのでしょうか、それとも母方の安倍氏なのでしょうか。はたまた父方祖母の出羽平氏?勿論清原氏の線もないでは無いですが、如何せん姓がないのでわかりません。

国司源義家の前に軍勢は総崩れとなり、清衡と家衡は一頭の馬に跨って遮二無二敗走します。

源義家に弓引いてただで済む筈の無い兄弟でしたが、ここで思いもかけない僥倖に巡り会います。

出羽国に進軍した清原真衡がその途中、病に侵されて頓死(急逝)を遂げるのです。

ということは脳卒中か心臓発作?急性食中毒ということも考えられます。

勿論、暗殺という線も考えられない訳ではありません。この時点で清原真衡は敵だらけだったのですから。

清原真衡の死因が暗殺なら犯人は誰なのかも気になるところですが、このことは期せずして国家への反逆者となってしまった清原清衡と家衡の兄弟が放免されるきっかけとなりました。

国司に刃を向けたのは重光が煽動したせいでして、我々は国家に対する野心なぞ更々ありませんと、張本人が死んだことをいいことに、結構虫の良い言い訳をするのですが、源義家は敢えて二人を許します。

良くも悪くも絶大な権力を握った当主が亡くなると、例外無く訪れるのが、後継者争いに端を発する分裂騒動です。

19に続きます。

この時期に源義家が父頼義以来、丁度30年振りに陸奥守兼鎮守府将軍として赴任して来た理由は、現時点では判明していません。異腹の妹が清原氏に輿入れするので、その絡みでしょうか。

であるならば、源義家の陸奥守兼鎮守府将軍就任は案外、清原真衡の推挙ないし政治工作の結果なのかもしれません。この時源義家45歳。

源義家を出迎えた清原真衡は“三日厨”と呼ばれる豪奢な官官接待でおもてなしします。さながら国家の優等生の面目躍如といった所でしょうが、この点だけを見ても、義家の陸奥守兼鎮守府将軍就任に真衡の懇望を推測してしまうのですが、穿ち過ぎでしょうか。

新任の陸奥国司様ご一行には、従類として豊島常家が加わっていました。この時43歳。

清原真衡の本拠地は不明ですが、江刺郡豊田館から胆沢郡白鳥村を経た先と考えると、胆沢郡衣川(奥州市衣川区)が妥当ではないでしょうか。

後年、藤原清衡が本拠地を置いた磐井郡平泉はその衣川の南隣に位置します。平泉藤原氏政権、といっても奥羽清原氏政権の後継者として自立発展した結果での政治体制が、旧政権の本拠地からさして遠くない場所に築かれたと考えるのは些か早計でしょうか。

ついでにいうと、胆沢郡白鳥村はもしかしたら鉄が採れるのではないでしょうか。白鳥とはヤマト朝廷から派遣された象徴的刺客、アサシン、テロリストであるヤマトタケルの最期の伝説にちなみ、ヤマトタケルを奉じて白鳥神社を勧請した人々は産鉄に関わった職人集団であり、これら白鳥信仰を構える地域には当然ながら鉄が採れるからです。陶器職人の八幡神社に類似するでしょうか。

当時の東日本は鉄資源が希少で、高需要低供給のゆえに価格も高値で取り引きされたそうです。武門にとって、鉄資源の収奪は、酒呑童子の伝説一つ取っても、ライフワークといっても過言ではありませんでした。

東北の富と資源を狙って、垂涎の狼が乗り込んで来ましたが、不思議な程にこのケダモノはイニシアチブを取りません。凡将かと思える程に。

三日厨の後、清原真衡は逆らう者は撃つべきのみ、とばかりに吉彦秀武討伐に出羽国へと進発します。

その留守を突いて清衡と家衡の兄弟が真衡館に攻め寄せます。

館には真衡の妻と養子の成衡夫妻が在居していて、真衡の妻が源義家の郎従で三河国(愛知県)出身の兵藤正経とその娘婿・伴助兼に助勢を請います。奥六郡の検問をしていたとありますが、恐らく反乱軍の押さえとして留め置いたのでしょう。

舅婿は清原小太郎成衡と協力し、清衡家衡軍と戦います。

と、ここからは「奥州後三年記」の記述が抜け落ちるため、「康富記(後三年絵ダイジェスト版)」だけの記述に頼らざるを得なくなります。

18に続きます。

ともすれぱ吉彦秀武は、夫婦養子を迎える時点でこれに反対し、聞き入れられないとなるや謀反を決意し、事前に計画を練っていたのかもしれません。

一口に挙兵といいますが、即断即決で旗揚げ出来るというものではないでしょう。合戦の帰趨は直属の家来である従類だけてなく、徴発された農民兵が主体の伴類をどれだけ集められるかに掛かっていたことは、自称天皇宣言で民衆の支持を失って忽ちの内に敗死した平将門を見ればわかります。

それと、武具や兵糧は?こうした事を踏まえると、囲碁で長待ちさせられたのにキレて、衝動的に挙兵したというよりは、密かに計画していたと考えるのが合理的なのではないでしょうか。

更に吉彦秀武は、クーデターに協力してくれそうな人物を物色し、自ら勧誘に訪れ(「康富記」)、または使者を送り(「後三年記」)ます。

謀反の協力者として吉彦秀武が白羽の矢を立てた人物、その名を清原清衡と家衡といいました。

一般に同腹の男兄弟では兄よりも弟の方が体格が優れていると、医学的に言われるので、清原四郎家衡は、スマートだった兄清衡よりも一回り恵まれた体躯だったと思われます。

弟家衡が結婚していたかどうかは今となってはわかりませんが、一方の兄清衡は清原一族の娘、多分武貞の娘と結婚し、家庭を築いていました。

清衡と家衡の母・有がいつ亡くなったのか、全く不明ですが、もし、存命だったとしたら、わざわざ館にまで押し掛けて大演説を奮う海千山千を、どういう面持ちで見ていたでしょう。

また、清衡と家衡の周囲にも家族や従者、傅役のような人達がいた筈ですが、彼等はまた、乾坤一擲のような謀反の誘いを、どのように考えていたのでしょう。

結論を言えば、二人は吉彦秀武に与同することに決めました。

このことは清原の一族として地道だが浮かばれなくなるかもしれない人生を歩むよりは、多少大博打でも覇権を握れる機会に賭けようと決断したことになります。

吉彦秀武のクーデター計画は、まず秀武の自邸に火をかけ、出羽国の本拠地に戻って挙兵する。清原真衡が居館を発って吉彦討伐に向かった居留守を突いて清衡と家衡の兄弟が挙兵するというものでした。

そうとは知らない清原真衡が出羽国山本郡荒川(秋田県大仙市)で挙兵した吉彦秀武討伐に出発すると、江刺郡豊田館(岩手県奥州市江刺区)で兄弟は兵を挙げ、向かう途中の胆沢郡白鳥村(岩手県奥州市前沢区)を焼き討ちします。

これに驚いた清原真衡は慌てて引き返し、戦線は膠着状態に陥りました。

こうして永保3年(1083)は秋を迎え、ここで東北の歴史にとって嫌な時に嫌な奴が現れます。

その男の名前を源義家といいました。

17に続きます。

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