2015年10月

安倍頼時が最期を迎えた胆沢郡鳥海柵。発掘調査によれば政治機能を備えた安倍氏の中枢部ともいうべき施設だったようですが、そのまま安倍氏の本拠地だったのではないでしょうか。

安倍頼時の3男宗任(1032~1108)は字を鳥海三郎といい、どうやら清原氏の娘を母とする嫡男ではなかったかと考察されています。

ちなみに安倍頼時の長男は安東太郎良任といい、盲目となったため、出家して井殿(いのとの、せいどの)と名乗り、叔父で僧籍にあった良照の養子になりましたが早世、良照は4男境講師官照を養子に迎えています。

「前九年合戦絵巻」にも厨川次郎こと貞任が兜を着用しているのに対し、宗任は笠を被っているのは、生母嫡庶の違いを表わしているからだ、とのことですが、さりながら安倍氏の家督が貞任(もしくは宗任との二頭立て)になったのは、貞任が優秀な軍事指揮官であり、類稀なリーダーシップを備えたカリスマだったからではないでしょうか。

そのことは貞任の名を冠した地名や、貞任にまつわる伝説、貞任の子孫を名乗る家系の存在から、朝敵ながら人気の高い東北人だったことをもって容易に想像出来ます。

「今昔物語集」には、宗任の語ることとして、父頼時らと共に胡国を探検する話があり、胡国とは北海道ないし北アジアの何処かと見られるのですが、北アジアの未開未知の民族についての見聞ないし伝聞を安倍氏に仮託した物語で、実話ではないでしょう。

源頼義は安倍頼時殺害を勲功として朝廷に申請しますが、なかなか認めてもらえません。そりゃそうだよ、安倍富忠の騙し討ちが偶々功を奏したのですから。オメーの実績じゃねーだろって。

天喜5年(1057)11月、源頼義軍は金為行が篭る磐井郡河崎柵(一関市川崎町)に攻撃を仕掛けんと進軍、その途次、黄海(きのみ・一関市藤沢町)で安倍貞任軍と大会戦となります。いわゆる黄海の合戦です。

折しも大雪の中での行軍であり、雪に不慣れな源頼義軍が雪に慣れてる筈の安倍軍に何故に無謀とも言える戦いを挑んだのかは謎とされていました。

功を焦ったのか、一族のリーダー頼時を喪って家中にガタが来てると予測したのか、まさか雪の日に攻めて来ないだろうとの相手の油断を突こうとしたのか。

それよりもおいらは安倍富忠に恩賞が出なかったことが影響してるのではないかと推測しています。

安倍富忠がその後どうなったかは記述がないため不明ですが、貞任なら報復の兵を差し向けたでしょう。

安倍貞任当主就任時点で、周囲には安倍富忠、金為時、官軍と、包囲網が形成されていました。

親の仇討ちと包囲網突破を兼ねて安倍富忠を討伐していたとしたら?

源頼義としては戦術上何らかの軍事行動を起こす必要性があったのではないでしょうか。

26に続きます。

源頼義は安倍貞任の出頭を要求しますが、デッチ上げの不当逮捕令状に対し、最早万策尽くしても無駄、戦は避けられないと肚を決めた頼時が、一族配下に演説したのが本章冒頭の一節になります。

衣川の関を閉ざすということは、安倍一族率いるエミシはもはや朝廷の埒外にあるということを宣言したも同然でしょうか。

朝廷は既に新任の陸奥守を藤原良経(世尊寺流行成の3男)と定めていましたが、源頼義の任期延長が決まります。

ついに衣川の関に官軍が押し寄せるのですが、こうなると安倍頼時の娘と結婚した藤原経清と平永衡の立場が、極めて微妙なものとなりました。

一応両者は官軍側にいたのですが、平永衡が銀の兜を被っていたことがケチのつき始めとなってしまいます。

あれは敵に討たれないよう、解り安くするための目印ですぜ、と讒言する者があり、単細胞にも源頼義はそれを鵜呑みにして平永衡を手討ちにしてしまいます。

前車の覆るは後車の鑑と驚愕し、韓信彭越誅せられて寒心する黥布のごとく慄然とする藤原経清は、水魚の友を暗殺した腹黒い源頼義を捨てる決断をします。

その去り際が凄い。多賀城にいる官軍の家族を、間道(国道45号線?)を使って安倍氏が狙ってると流言蜚語を撒きます。

源頼義らは吃驚動揺し、経清永衡同様安倍一族ながら頼義に付いていた気仙郡司金為時を経清と共にしんがりに任命し退却、官軍が混乱している隙に乗じて安倍軍に安々と合流してしまいます。

金氏は気仙郡における伝統的な姓で他に類を見ません。
その由来は金鉱山に由来するとも、新羅の王族に由来するとも云われますが、全く謎です。

葛西家臣となった千厩金氏の「安倍姓金氏系図」によれば、金為時(1017~88)の父の次弟師道、三弟依方(系図では忠方)は安倍氏側に味方して戦死、一番上の叔母が頼時の父忠良の妻となり、三番目の叔母が後述する安倍富忠の妻であると記しています。貞任の義父で安倍氏側に味方した為行については不明です。

いずれにしましても、藤原経清は北上川の水を得た魚のごとく、策略家、革命理論家、安倍一族の軍師として痛快無尽にその頭脳を駆使し、悪主源頼義に煮え湯を呑ませ、臍を噛ませます。

戦乱と不作の内に年改まって天喜5年(1057)7月、更に刈り入れ目前が重なり、源頼義軍は兵糧不足に陥り、具体的な行動に出られません。

そこに金為時は義理の叔父に当たる、青森県下北半島から八戸市周辺を治めていたとされる安倍富忠を誘降し、頼時の背後を脅かします。

安倍頼時は、頼時にとっても義理の叔父・富忠の離反を思いとどまらせるべく説き伏せに向かいますが、待ち伏せされて合戦となり、流れ矢に致命傷を負い、胆沢郡鳥海柵(岩手県金ケ崎町西根)に退却し、そのまま命終を迎えます。

25に続きます。

平永衡と共に多賀城に宮仕えしていた藤原経清が、新任の陸奥守源頼義と権守藤原説貞のもとでどのように振る舞っていたかは小説の分野に託されるでしょう。

特赦後の源頼義の任期は驚く程平穏無事で、その最中の天喜3年(1055)、藤原経清の妻で安倍頼時の長女有が第一子を身篭ります。経清の年齢は不明ですが、若くして才能を開花させた人物であったように感じます。一方の平永衡と中夫妻については伝わっていません。

関所とは通常、国の境に設けられるものですが、唯一、国境ではない場所に設けられた関所が衣川の関でした。

陸奥守の管轄地域の北限は磐井郡までであり、胆沢郡から北は多賀城の出先機関とされた胆沢鎮守府の管轄だったのです。

胆沢鎮守府は多賀城の陸奥守に属していましたが、やがて並立する存在となりました。鎮守府は日本であって日本ではない地域を統括し、多賀城の管轄地域とは明確に線引きされていたのです。

天喜元年(1053)に鎮守府将軍を兼任した源頼義は天喜4年(1056)2月、陸奥守と共にその任期を終えて胆沢鎮守府から多賀城に向かい、衣川の関を越えて阿久利川の畔で夜営しているところ、不可解な騒動が勃発します。

藤原説貞の息子の陣所に何者かが襲撃をかけるのです。

藤原元貞と光貞の兄弟は、犯人は安倍貞任、動機は妹との結婚を断ったことによる怨恨と、ぶち上げます。

おいおいちょっとまて、既に貞任には女房子供がいて、今更昔話を蒸し返す理由はありませんし、過去に執着するような性分でもありません。そもそも縁談自体あったのかどうかも定かではありません。しかもウザイ陸奥守兼鎮守府将軍サマが平身低頭のうちに何事もなく離任してくれて清々したその矢先なのです。

源頼義という男は冷酷残虐と揶揄された清和源氏河内流歴代の中でも頼朝なみに飛び抜けた残忍さを持ったザ・武家の棟梁サマですが、理知的な頼朝に比べると頼義のそれは修羅が強いといいますか、直情径行にしてキレやすい性格だったように思われます。

「今昔物語集」の安倍合戦を扱った話には、これは儂に逆らったも同然と叫んだとあります。居並ぶ部下を前にアジテーションしたのかもしれません。

事件の舞台となった阿久利川はしばらく不詳とされてきましたが、一迫川沿いの、栗原市志波姫下里に、阿久戸という荷揚げする船着場を意味する地名があり、ここに比定され、読みもまた、アクリではなくてアクトだったのではないかと考証されています。

24に続きます。

源義家は幼名を不動丸または源太丸といい、祖父で清和源氏河内流の祖・頼信が誉田八幡宮に願文を奉納する前年の寛徳2年(1045)春、石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家との有名な名乗りを得ています。この時7歳。

この頃の清和源氏河内流家では応神天皇こと八幡大菩薩を氏神に設定したものと見られます。陶器造りの職人達が信奉したとされる八幡大菩薩ですが、頼信はどういう思いで八幡大菩薩に信仰のよすがを見出したのでしょう。祖父の罪を濯ぎ、孫の成人を見届けながら。

豊島武常には2人の男子があり、長男を太郎近義、次男を六郎常家といい、武蔵国豊嶋郡平塚城(東京都北区上中里平塚神社)を本拠地にしていました。

系図の作為かも知れませんが、父が名乗った六郎を受け継いでいるということは、嫡男は常家だったようです。

葛西清重以前の系図を見ていると親子の歳の差が30歳以上離れており、20歳前後で結婚させられていたような時代なのに些か奇異に感じてしまいます。もう一世代入るのかもしれませんが、邪推程度に抑えときます。

近義、常家の名前が示すように、主君かその息子から一字拝領しています。2人の元服は義家が元服した1046年以降、頼義が多賀城に赴任する1052年以前であると考えられます。ちなみに宮城県入りした義家は14歳、常家は12歳。

陸奥守源頼義が安倍氏征服の仕度を整えてる最中、降って湧いたようなニュースが舞い込みます。

藤原道長長女・上東門院彰子(988~1074)の病気平癒を祈願しての特赦が下り、安倍頼良の反逆罪も許されるのです。

古代東北エミシのリーダーであった安倍氏は、北アジアの産物を商品に、朝廷と交易関係にありました。朝廷はその交易で得た産物で儀式などを執行し、富の回転でお互いが共存共栄の関係にあったのです。

恐らく藤原登任はこれらお宝に目が眩んで無理無体な要求をしたのではないでしょうか。それが安倍氏の勢力拡大と相俟って、要求を飲まなかったことに対し、脱税横領とのインネンを吹っ掛けたのが、鬼切部の合戦勃発のバックグラウンドだったのではないでしょうか。

安倍頼良は後世の地元政治家や自らの遠い子孫に似ず、政治的駆け引きや経済感覚に優れた人物のようで、すぐさま源頼義のもとに馳せ参じ、末永能登守が頭を丸めたのとは異なり、同じ名前の読みでは恐れ多いですからと頼時と名を改め、上を下へのプレゼント攻勢で源氏武士を懐柔し、富の虜にしてしまいます。

一説に源頼義は無事に陸奥守、鎮守府将軍を務め上げることで出世の機会を得ようとしていたとあります。

しかし、軍事貴族・武士とは名ばかりの権門の爪牙に過ぎず、南関東に僅かな領地しかない、歯牙無いヤクザな河内流家が富と名声と出世を獲る手段、それこそが東北の齎す名産の独占だったようにおいらは思うのです。

23に続きます。

藤原経清を語る上で重要な通称・亘理権大夫。何となく修理大夫に似てるような気がしないでもありません。

ちなみに皇居の修繕の為に作られた令外官(律令とは別に新しく設けられた官職・検非違使など)修理職の長官・修理大夫の相当官位は従四位下なので、次官に当たる亮は従五位下に相当します。官位は下がるが、官職は長官に相当するという意味から権大夫という名乗りを許されたのかも知れません。

故郷に錦を飾る形で帰郷した経清は、国府多賀城(多賀城市市川)に出仕し、優秀な吏僚としての才覚をいかんなく発揮したものと見られます。

隣郡伊具郡の郡司・平十郎永衡(?~1056)、伊具国造が平氏を名乗ったのではないかと太田亮の「姓氏家系大辞典」にはあり、詳しい出自は不明ですが、経清とは同世代の同僚でかつ、有能な官吏もまた、国司の下で国府多賀城に勤務していました。

なぜ二人が有能かというと、遥か北に蟠踞するエミシの大豪族・安倍頼良(?~1057)の長女・有(ゆう)と、次女・中(なか)とそれぞれ結婚していたからです。

何処にでもあるような郡司にエミシを代表する家督が娘を嫁がせようと思うでしょうか。このことは既に二人が高名な人物であり、その噂を聞きつけての縁談ではなかったかと思うのです。

ついでに言うと頼良の次男・厨川次郎貞任(1029~62)の妻には陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の娘を求められたのでしょう。藤原説貞は経清同様五位以上の貴族藤原氏として登録され、経清同様国司藤原登任と共に国府多賀城に里帰りしていました。

とは言えこの縁談は断られ、安倍貞任は気仙郡司金為行の娘(千里?)と結婚し、また何人かの側室をもつ艶福家だったようです。

六箇郡、胆沢、江刺、和賀、稗貫、志波、岩手の所謂奥六郡のリーダーに安倍頼良という人物がいました。

各地と婚姻を進めながらしだいに勢力圏を拡げていきます。

そこに陸奥守藤原登任は妻の甥・秋田城介平繁成と連携し、安倍氏討伐を企てますが、玉造郡鬼切部郷(大崎市鳴子温泉鬼首)でボロクソに返り討ちされます。

エミシ独立勢力の樹立、しかしながら安倍一族が起した合戦は、ヤマト帝国に対する造反決起と認識されたのです。

源頼義、陸奥守就任。長男義家、次男義綱。そして豊島武常、武常の次男六郎常家がこれに随行していました。

奥州12年戦争、通称前九年の役、ここでは安倍合戦と呼びたく思います。

安倍合戦前夜、「陸奥話記」のバックグラウンドも何やら女論とトラブルの匂いがぷんぷんしますが、しかし、武家政権樹立の源流がここにあるという重大事件であったと、後々知るのです。

22に続きます。

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