安倍頼時が最期を迎えた胆沢郡鳥海柵。発掘調査によれば政治機能を備えた安倍氏の中枢部ともいうべき施設だったようですが、そのまま安倍氏の本拠地だったのではないでしょうか。
安倍頼時の3男宗任(1032~1108)は字を鳥海三郎といい、どうやら清原氏の娘を母とする嫡男ではなかったかと考察されています。
ちなみに安倍頼時の長男は安東太郎良任といい、盲目となったため、出家して井殿(いのとの、せいどの)と名乗り、叔父で僧籍にあった良照の養子になりましたが早世、良照は4男境講師官照を養子に迎えています。
「前九年合戦絵巻」にも厨川次郎こと貞任が兜を着用しているのに対し、宗任は笠を被っているのは、生母嫡庶の違いを表わしているからだ、とのことですが、さりながら安倍氏の家督が貞任(もしくは宗任との二頭立て)になったのは、貞任が優秀な軍事指揮官であり、類稀なリーダーシップを備えたカリスマだったからではないでしょうか。
そのことは貞任の名を冠した地名や、貞任にまつわる伝説、貞任の子孫を名乗る家系の存在から、朝敵ながら人気の高い東北人だったことをもって容易に想像出来ます。
「今昔物語集」には、宗任の語ることとして、父頼時らと共に胡国を探検する話があり、胡国とは北海道ないし北アジアの何処かと見られるのですが、北アジアの未開未知の民族についての見聞ないし伝聞を安倍氏に仮託した物語で、実話ではないでしょう。
源頼義は安倍頼時殺害を勲功として朝廷に申請しますが、なかなか認めてもらえません。そりゃそうだよ、安倍富忠の騙し討ちが偶々功を奏したのですから。オメーの実績じゃねーだろって。
天喜5年(1057)11月、源頼義軍は金為行が篭る磐井郡河崎柵(一関市川崎町)に攻撃を仕掛けんと進軍、その途次、黄海(きのみ・一関市藤沢町)で安倍貞任軍と大会戦となります。いわゆる黄海の合戦です。
折しも大雪の中での行軍であり、雪に不慣れな源頼義軍が雪に慣れてる筈の安倍軍に何故に無謀とも言える戦いを挑んだのかは謎とされていました。
功を焦ったのか、一族のリーダー頼時を喪って家中にガタが来てると予測したのか、まさか雪の日に攻めて来ないだろうとの相手の油断を突こうとしたのか。
それよりもおいらは安倍富忠に恩賞が出なかったことが影響してるのではないかと推測しています。
安倍富忠がその後どうなったかは記述がないため不明ですが、貞任なら報復の兵を差し向けたでしょう。
安倍貞任当主就任時点で、周囲には安倍富忠、金為時、官軍と、包囲網が形成されていました。
親の仇討ちと包囲網突破を兼ねて安倍富忠を討伐していたとしたら?
源頼義としては戦術上何らかの軍事行動を起こす必要性があったのではないでしょうか。
26に続きます。
安倍頼時の3男宗任(1032~1108)は字を鳥海三郎といい、どうやら清原氏の娘を母とする嫡男ではなかったかと考察されています。
ちなみに安倍頼時の長男は安東太郎良任といい、盲目となったため、出家して井殿(いのとの、せいどの)と名乗り、叔父で僧籍にあった良照の養子になりましたが早世、良照は4男境講師官照を養子に迎えています。
「前九年合戦絵巻」にも厨川次郎こと貞任が兜を着用しているのに対し、宗任は笠を被っているのは、生母嫡庶の違いを表わしているからだ、とのことですが、さりながら安倍氏の家督が貞任(もしくは宗任との二頭立て)になったのは、貞任が優秀な軍事指揮官であり、類稀なリーダーシップを備えたカリスマだったからではないでしょうか。
そのことは貞任の名を冠した地名や、貞任にまつわる伝説、貞任の子孫を名乗る家系の存在から、朝敵ながら人気の高い東北人だったことをもって容易に想像出来ます。
「今昔物語集」には、宗任の語ることとして、父頼時らと共に胡国を探検する話があり、胡国とは北海道ないし北アジアの何処かと見られるのですが、北アジアの未開未知の民族についての見聞ないし伝聞を安倍氏に仮託した物語で、実話ではないでしょう。
源頼義は安倍頼時殺害を勲功として朝廷に申請しますが、なかなか認めてもらえません。そりゃそうだよ、安倍富忠の騙し討ちが偶々功を奏したのですから。オメーの実績じゃねーだろって。
天喜5年(1057)11月、源頼義軍は金為行が篭る磐井郡河崎柵(一関市川崎町)に攻撃を仕掛けんと進軍、その途次、黄海(きのみ・一関市藤沢町)で安倍貞任軍と大会戦となります。いわゆる黄海の合戦です。
折しも大雪の中での行軍であり、雪に不慣れな源頼義軍が雪に慣れてる筈の安倍軍に何故に無謀とも言える戦いを挑んだのかは謎とされていました。
功を焦ったのか、一族のリーダー頼時を喪って家中にガタが来てると予測したのか、まさか雪の日に攻めて来ないだろうとの相手の油断を突こうとしたのか。
それよりもおいらは安倍富忠に恩賞が出なかったことが影響してるのではないかと推測しています。
安倍富忠がその後どうなったかは記述がないため不明ですが、貞任なら報復の兵を差し向けたでしょう。
安倍貞任当主就任時点で、周囲には安倍富忠、金為時、官軍と、包囲網が形成されていました。
親の仇討ちと包囲網突破を兼ねて安倍富忠を討伐していたとしたら?
源頼義としては戦術上何らかの軍事行動を起こす必要性があったのではないでしょうか。
26に続きます。