2015年09月

続いては和睦の宴を暗殺計画と勘違いし、そのまま京都まで箱根駅伝ばりにトンズラぶっかまし、朝廷には誣告罪で拘留され、将門らから臆病者と嘲笑われた源経基。
56代清和天皇の第6王子・貞純親王の長男であるから、清和源氏で文句無いだろうとドヤ顔で言い切りたいところです。

ところがどっこい、源経基の孫・頼信が永承元年(1046)、八幡大菩薩すなわち応神天皇陵の誉田八幡宮に奉納したとされる願文の古い写し「石清水八幡宮祠官田中家文書・源頼信願文案」によると、「頼信の父親は多田新発意(しんぼち・出家した人・満仲)、その父は経基、その父は元平親王、その父は陽成天皇、その父は清和天皇云々」とあり、清和源氏の額面は初代経基から覆されます。

ただし、くだんの文書は案(コピー)なので、説得力不足だとも言われますし、領地の相続を示した系図だとも言われるんですけど、領地の相続だったら応神天皇まで遡りますかね。

煩瑣になるので西暦で表示しますが、清和天皇の生年は850年、没年は880年。

第1王子の陽成天皇が868年産まれ949年没。
第6王子の貞純親王が873年産まれから916年没。

陽成天皇第3王子の元平親王は生年が諸説あり、891、895、897年で、没年が958年。

源経基の生年はこれも諸説あって890年、893年、897年、914年、917年。没年は958年、961年。

源満仲は911年産まれ997年没とされますが、父経基より年上になったり、息子達とは年が離れ過ぎだったりするのですが、出家した時60歳くらいだったとする記録から類推し、920年代の産まれと見られます。

長男頼光が948年か954年の産まれ、3男頼信が968年産まれとなりますから、場合によっては無理はないかなと。しかしながら元平親王と源経基との関係については後で詳しく論じたいと思います。
余談ですが、諡号の通り、冷静沈着な仏道修行者であった清和天皇に比べ、息子は問題児であったようで、乳母の子である源益(まさる・?~883)をどういう理由か知りませんが、宮中で殴殺するという事件を犯し、半ば強制的に退位させられ、後を継いだ57代光孝天皇の後を継いだ58代宇多天皇を指して、アイツはオレ様の家臣だったヤツだぜ、と毒づいた、史上5指に入る愚帝であり、その諡号陽成とは陽気になる、即ちキチガイになる、という意味があるのです。

6に続きます。

武士という資格を与えられた者達、それは幾つかの例外を除き、平将門の乱の鎮圧に関わった3人の軍事貴族、藤原秀郷を祖とする秀郷流藤原氏、平貞盛とその一族を祖とする桓武平氏高望流、わけても伊勢平氏と坂東八平氏、源経基を祖とする清和源氏経基流の子孫及びその郎党に限られました。

百済王国の第三王子(架空)を祖とする多々良大内氏、秀郷に同じ藤原北家魚名流の利仁流藤原氏や、後に伊達氏となる伊佐中村藤原氏、同じく自称藤原氏の井伊氏や山内首藤氏、文官貴族から登用され、戦国時代に島津氏となる惟宗氏などはその例外に属しますが、それとて源頼朝の長庶子を自称した島津氏初代・惟宗忠久や、娘が源頼朝の側室となった伊達朝宗こと伊佐常陸入道時長などは、そうすることによって武士の資格を得たものと解釈することが可能です。

返せば、武士の資格を得るためには、養子や義兄弟の契を結んだり、系図を仮冒(パクること)したり、あるいは郎党になる以外に方法がないことになります。

この内最もポピュラーだが、後世の史家にとっては兎に角迷惑極まりないなのが系図の仮冒でしょうか。

系図の仮冒は19代允恭天皇の昔からあったようで、その信憑性を確かめる為に、現代ならDNA鑑定といきたいところですが、有り得ない宗教に支配されていた時代ですので、盟神探湯(くがたち)といって、沸騰した水の中に片手を突っ込ませる。でもって八百万の神々の御加護がって、あるわけ無いんですけど、火傷しなければ真だという、古代人は素朴さゆえに無茶苦茶なことをしていたんですけど、葛西氏の系図調べていると、熱湯どころか燃やしてしまいたくなりますね。

冗談はさておき、武士の資格を得た3つの軍事貴族の家柄をそれぞれ燃やす、のではなかった、検証していきましょう。

まず最初は軍功一番、従四位下を賜った田原(俵)藤太こと藤原秀郷。藤原北家魚名流、すなわち、藤原北家の祖・房前の5男・魚名(うおな)という、DQNだが黄熊(ぷぅ)のごとく読めない名前ではない人物の子孫であると系図にはあります。

おいらが高校時代、趣味で系図の写本をしていた頃に世話になった太田亮(あきら・1884~1956)編著「姓氏家系大辞典」によれば、実は秀郷は鳥を捕ることを生業とした一族・鳥取氏の出自であり、秀郷が藤原氏というのは仮冒である、と断言しています。

武士の資格を得たい為に、秀郷の子孫を自称する家系が引きも切らず、利仁流に比して、秀郷流藤原氏の家系図は混乱が尽きません。

5に続きます。

おいらが義務教育の頃は、武士とは武装農民である、という説が主流だったように記憶しています。

やがて武士とは非合法をもってヤクザのような存在だとする説が流布するようになり、極端なものでは職業的殺人者と主張する説さえあります。

藤原明衡(989?~1066)作と云われる「新猿楽記」は、猿楽見物に来た人々の素性を主軸にストーリーが展開していく物語ですが、そこに描かれる農民と武士とは明らかに異なる存在で、農民が武装することは多分に有り得たとしても、それをもって武士階級の起源に結び付けるには、いささか薄弱な説であることがわかります。

それから武士とヤクザ、非合法な存在であるとか、確かに共通点が無いわけではありませんが、単純に非合法な存在が国軍を持たない国家の軍事力として一千年紀もの長きに渡って存在し、政権を担うまでに成れるものでしょうか。時代の流れの中で次第に成し崩すという日本独特の慣習が政権獲得を赦したにしても、です。

律令制度を作った天武天皇の時代、日本には唐帝国と新羅王国という外敵が最たる軍事的脅威でした。

桓武天皇の時代になって、両国がやがて脅威ではなくなったことも軍制の解体に一役買うわけですが、その頃の軍事的脅威は東北地方のエミシとされました。

天武天皇から孝謙天皇までの所謂天武朝時代における対エミシ政策は、寛容な国家体制への編入を進めていて、反乱を起こすどころか、牡鹿郡の有力豪族・丸子改め道嶋宿禰嶋足(?~783)が中央政界で取り立てられるなどの出来事があったほどです。

がしかし、天智天皇系の桓武天皇が即位して、日本式中華思想を導入して日本天皇こそが世界の中心であるかのような国是が定まると、それまでの政策は反転され、エミシを蝦に当て字してそこに東の野蛮人を意味する夷をつけた蔑称・蝦夷にとって、差別と弾圧の嫌な時代が古代東北地方に現出します。

アテルイ公とモライ公は怨霊になる資格さえ与えられぬまま河内国杜山で斬首されますが、怨霊になった早良皇太子よりも百千万億倍の脅威となった東北エミシの前線基地として捉えられた関東地方では、ポスト国軍たる軍事力が求められ、ことに降伏した蝦夷いわゆる俘囚らが伝える、騎馬戦法、弓射術、刀剣技術をミックスした新しい武芸武術をお家芸とする軍事貴族とその軍事組織が、桓武天皇によって臣籍降下させられた家系を主軸に、古代におけるフーテンの寅さんのような人々を従えて構築されます。

朝廷は時代の落し物のような、現代風に言えばスキマ産業的な存在に対し、武士という新たなる資格を与えました。次の時代、中世の日本を牽引した権力・武士とはこうして発生したのではないかと考えられています。

4に続きます。

鳴くよウグイス、平安京遷都に始まる平安時代400年のスタートを切った桓武天皇は、日本の古代史のみならず、日本の歴史を通じても数少ない独裁者の一人です。

即位後の桓武天皇の治世は傲慢尊大なまでの強権主義に基づき、闘争と謀略、見栄と色欲に満ち、常に猜疑と恐怖に苛まれていました。

軍事と呼ばれた東北エミシ侵略は、アテルイ公こと大墓公阿弖流為と、盤具公母礼の謀殺でカタをつけ、無用の怨恨を後世に遺しました。

造作と称された宮都建設は、責任者の暗殺による穢れへの忌避により、二度に渡って行われ、結果として莫大な費用がかさみ、結局右京は完成を見ずに中途で放棄されました。

皇統の存続に必須不可欠と称してド派手なハーレムが形成され、増え続ける皇族の養育費に耐え兼ね、臣籍降下と銘打った捨て子政策が多用されました。

修羅と畜生と餓鬼に懊悩するミカドは、伝教大師最澄の主張を採用し、仏教諸宗派を法論によって統一し、法華経随一を国家の宗旨として採択するに及んで、ようやく心身の安定がかなうのです。

日本の収支の実態に見合わない国家運営は、各地で頻発した農民の逃散や戸籍の偽造によって律令制度を根幹からゆるがし、税収はおろか、軍事制度さえ危うくなってしまいます。

軍制はやがて、農民主体の軍団から地方豪族主体の健児(こんでい)に徴兵をシフトし、税収は逃亡農民を確保して大規模な農村経営をする荘園からの年貢によって代行されました。

中央集権の律令体制はやがて、地方委任の王朝政治へと変化していき、延喜2年(902)、律令制度は事実上崩壊し、国軍の編成もまた、停止します。

明治6年(1873)、徴兵令が発布されるまでの約970年、日本には軍事力はあっても、国軍を持たないという奇妙な事態が続いたのです。

全国においては治承寿永の内乱、蒙古襲来、関ヶ原の合戦等、葛西史上においては北畠顕家遠征軍、三迫の大会戦、明応永正の戦乱などなど、戦いの主役は国家の軍隊に属する人々ではありません。

国家が軍隊を運営出来なくなった時、ちょうど陶作部が律令制度成立前夜に民営化したように、軍事力もしかるべき存在に民営化、外注化したのです。

このような世界史上極めて異例の現象を、日本史では武士の発生と呼び慣わしているのです。

3に続きます。

「将門記」に曰くー

平将門と申し上げますその御方は、柏原こと桓武天皇の5代の末裔、3代目高望王の孫にあたられます。

将門の御父上は陸奥鎮守府将軍平良持と申します。

下総介平良兼は良持の弟、将門の叔父に当たられます。

で、その良兼とは延長9年(931)、いやはや何と申しますか、女人を巡る争論がございまして、叔父と甥の間柄で対立が生まれたのでございます。ー



原文は“いささか女論に依りて”とあって、格調を持たせようとして堅苦しく表現するもんだから却って苦笑を禁じ得ないのです。

武士の黎明期に忽然と勃興した軍記物語というジャンルは、この「将門記」を以って嚆矢とし、質実剛健なストーリーなのにその記念すべきスタートはやっぱオンナ絡みかぁ、という展開は、男のどうしようも無い本質が皮肉たっぷりに顕れていて、失笑を誘っちまうのです。



また、「陸奥話記」に曰くー

安倍頼時が周囲に語っていうには、人間がこの世に生ぎでんのは全て妻子の為なんだぞと。

貞任がいかなバカタレでも親子の愛は棄てたり、忘れたりは出来ねぇんだ。それで刑に処されたとて納得しろってぇのがや?ー



軍記物語の特徴は視点が敗者の側に立っているという点です。

汚い罠に嵌められた貞任に事寄せて、自らの家族論について熱弁を振るう頼時。古代東北にこんな熱血の一族がいたことを知った時、俄然強い興味が押し寄せたのを記憶しています。

軍記物の世界観にかかれば、神格化、理想化された英雄である源頼義、義家親子風情は笑っちゃうほど凡庸な武将なのです。ヤマトタケルがその実、残忍卑劣なテロリストであったように、所詮英雄の正体なんてそんなものなのかもしれません。



旧志津川町の郷土史家、葛西氏研究の泰斗として多数の出版をものされた佐藤正助氏。そのデビュー作「葛西四百年」はその後の葛西氏研究を志す者にとって必ず通る必読の書となっています。

その一節に、昭和51年(1976)の大河ドラマ「風と雲と虹と」を挙げられ、平将門の乱の渦中で目立たず静観をしていた末弟の良文が最後の勝利者として残り云々と記しておられます。

おいらが産まれて間もない時の作品である「風と雲と虹と」は現在、映像全てが残っている最初の大河ドラマ作品ですが、おいらは全く見ていませんのでどういう作品なのかはわかりません。

将門の革命に際し、平良文がどう動いたのかを示す記録はありませんでした。しかし、何もしないで静観してたわけではありません。平良文は始めの内は将門に味方していましたが、たまたま陸奥守、鎮守府将軍に任官して胆沢郡に赴任し、秋田城介の要請を受け、かの地で勃発したエミシの反乱の鎮圧に従事していたことが判明しています。

2に続きます。

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