続いては和睦の宴を暗殺計画と勘違いし、そのまま京都まで箱根駅伝ばりにトンズラぶっかまし、朝廷には誣告罪で拘留され、将門らから臆病者と嘲笑われた源経基。
56代清和天皇の第6王子・貞純親王の長男であるから、清和源氏で文句無いだろうとドヤ顔で言い切りたいところです。
ところがどっこい、源経基の孫・頼信が永承元年(1046)、八幡大菩薩すなわち応神天皇陵の誉田八幡宮に奉納したとされる願文の古い写し「石清水八幡宮祠官田中家文書・源頼信願文案」によると、「頼信の父親は多田新発意(しんぼち・出家した人・満仲)、その父は経基、その父は元平親王、その父は陽成天皇、その父は清和天皇云々」とあり、清和源氏の額面は初代経基から覆されます。
ただし、くだんの文書は案(コピー)なので、説得力不足だとも言われますし、領地の相続を示した系図だとも言われるんですけど、領地の相続だったら応神天皇まで遡りますかね。
煩瑣になるので西暦で表示しますが、清和天皇の生年は850年、没年は880年。
第1王子の陽成天皇が868年産まれ949年没。
第6王子の貞純親王が873年産まれから916年没。
陽成天皇第3王子の元平親王は生年が諸説あり、891、895、897年で、没年が958年。
源経基の生年はこれも諸説あって890年、893年、897年、914年、917年。没年は958年、961年。
源満仲は911年産まれ997年没とされますが、父経基より年上になったり、息子達とは年が離れ過ぎだったりするのですが、出家した時60歳くらいだったとする記録から類推し、920年代の産まれと見られます。
長男頼光が948年か954年の産まれ、3男頼信が968年産まれとなりますから、場合によっては無理はないかなと。しかしながら元平親王と源経基との関係については後で詳しく論じたいと思います。
余談ですが、諡号の通り、冷静沈着な仏道修行者であった清和天皇に比べ、息子は問題児であったようで、乳母の子である源益(まさる・?~883)をどういう理由か知りませんが、宮中で殴殺するという事件を犯し、半ば強制的に退位させられ、後を継いだ57代光孝天皇の後を継いだ58代宇多天皇を指して、アイツはオレ様の家臣だったヤツだぜ、と毒づいた、史上5指に入る愚帝であり、その諡号陽成とは陽気になる、即ちキチガイになる、という意味があるのです。
6に続きます。
56代清和天皇の第6王子・貞純親王の長男であるから、清和源氏で文句無いだろうとドヤ顔で言い切りたいところです。
ところがどっこい、源経基の孫・頼信が永承元年(1046)、八幡大菩薩すなわち応神天皇陵の誉田八幡宮に奉納したとされる願文の古い写し「石清水八幡宮祠官田中家文書・源頼信願文案」によると、「頼信の父親は多田新発意(しんぼち・出家した人・満仲)、その父は経基、その父は元平親王、その父は陽成天皇、その父は清和天皇云々」とあり、清和源氏の額面は初代経基から覆されます。
ただし、くだんの文書は案(コピー)なので、説得力不足だとも言われますし、領地の相続を示した系図だとも言われるんですけど、領地の相続だったら応神天皇まで遡りますかね。
煩瑣になるので西暦で表示しますが、清和天皇の生年は850年、没年は880年。
第1王子の陽成天皇が868年産まれ949年没。
第6王子の貞純親王が873年産まれから916年没。
陽成天皇第3王子の元平親王は生年が諸説あり、891、895、897年で、没年が958年。
源経基の生年はこれも諸説あって890年、893年、897年、914年、917年。没年は958年、961年。
源満仲は911年産まれ997年没とされますが、父経基より年上になったり、息子達とは年が離れ過ぎだったりするのですが、出家した時60歳くらいだったとする記録から類推し、920年代の産まれと見られます。
長男頼光が948年か954年の産まれ、3男頼信が968年産まれとなりますから、場合によっては無理はないかなと。しかしながら元平親王と源経基との関係については後で詳しく論じたいと思います。
余談ですが、諡号の通り、冷静沈着な仏道修行者であった清和天皇に比べ、息子は問題児であったようで、乳母の子である源益(まさる・?~883)をどういう理由か知りませんが、宮中で殴殺するという事件を犯し、半ば強制的に退位させられ、後を継いだ57代光孝天皇の後を継いだ58代宇多天皇を指して、アイツはオレ様の家臣だったヤツだぜ、と毒づいた、史上5指に入る愚帝であり、その諡号陽成とは陽気になる、即ちキチガイになる、という意味があるのです。
6に続きます。