2015年06月

伊達氏伝統の宿痾となった親子相剋。最後には息子が勝利するというのも恒例となっていますが、あくまで伊達氏の立場で論じますが、晴宗が勝利して良かったな~と思います。

なぜ稙宗が勝利するとまずいのか?それは後継者の問題が噴出してくるからです。

稙宗が勝利すれば当然、家督相続予定者である晴宗は廃嫡されるでしょう。そうなれば晴宗の次男が相続することもなくなるでしょうし、さらにその長男が日の目を見ることもありません。よくて親族として本家に準ずる一生を過ごすことになったでしょう。そうなれば渡辺謙さんの出番も、ダース・ベイダーの鎧兜も、指の間に刀を何本も構えたイケメン武将とか、そういうのが全て無くなる訳ですから、後世の歴史好きには大打撃になったことでしょう(そうなのか?)。

まぁそれは冗談ですけど、晴宗廃嫡後の家督を稙宗はどうするつもりだったのでしょうか。

伊達稙宗にはわかっているだけで14人の男子がいます。わかっている、というのは、わからなくなっている子供の有無が推測されるからです。

極楽院宗栄という山伏の養子になった人物。いつしか存在を忘れられ、江戸時代、子孫が稙宗の証文を藩に提出して始めて伊達家の公式記録に認知された事情がありました。

ということは、母親の身分が低いなどの理由で、系図に載らなかった隠し子的な伜もいたんでしょうけど、それらは考えてもしょうがないのでおいといて、今系図にある14人の男子たち、他家に養子に出された葛西晴清、大崎義宣、村田宗殖、亘理元宗、実元も晴れて上杉に養子入り叶ったでしょうから、これらは勿論、後継者候補からは除かれます。早世した玄蕃丸、桑折宗貞、亘理綱宗、七郎、そして出家した大有康甫らは当然除外となります。

消去法で残ったのは宗澄、宗清という息子達ですが、ひょっとしたら稙宗はこの二人を家督のスペアとして残していたのでしょうか。

仮に稙宗が勝利し、晴宗が廃嫡され、宗澄か宗清が伊達家の正式な家督になった時、昨日まで庶子として部屋住み、冷や飯喰らい、ニート、自由気儘だが浮かばれることのない人生を、好むと好まざるとに関わらず、してきた人物が、今からそなたは伊達家家督って言われて、よっしゃやるぜってなる程、戦国乱世は甘くはありません。本人達がよくとも、家臣領民や、種馬パパが撒き散らして親族化せしめた大名領主どもが新しい後継者を是と認めなければ、常に内憂外患の恐れに悩まされることでしょう。

意外にも稙宗には伊達家のその後を託せる男子に事欠いていました。その点でも幼少の頃より後継者として帝王学を仕込まれ、いわば高校大学の年齢で大名デビューを果たした晴宗を置いて、伊達家家督はあり得なかったのです。

28に続きます。

稙宗派の田村隆顕に対して、晴宗派は芦名盛氏が和睦交渉に動いたようです。まず周辺の二階堂照行、田村、白河結城晴綱など、周辺各領主達の和平から取り組みます。

本宮次郎宗頼・左衛門大夫直頼父子の復帰工作も同時に行われたようですが、これは叶わなかったようです。

天文17年(1548)9月6日、伊達稙宗、晴宗父子の和睦が成立しました。

伊達稙宗は晴宗に正式に家督を譲り、伊具郡金山城(丸森町)に近辺5か所の村を領地に与えられ、隠居しました。この時稙宗還暦60歳。晴宗は30歳。稙宗は当年取れば61歳ですが、誕生日が来ていなかったのでしょう。秋か冬の産まれということになります。

ここから「世次考」は按ずるに、と始まって延々と天文洞の大乱を総括します。少し付き合いましょう。

ー天文11年6月、伊達父子の間に姦臣の讒言が原因で、たちまち天地ひっ繰り返るような大内乱となった。しかも姦臣だけでなく、各地の大名領主らも私利私欲を顕して、怨恨や禍いを巻き起こした。単に一朝一夕の出来事なんかではない。戦禍は広まることはあっても止まることを知らなかったからだ。これは時代の変革によるものだろうか。
なんということだろう、この大乱は身分に関わらず親子兄弟親戚に至る迄敵味方に別れて敵対し、戦闘し、ひいては東北地方の大名領主達の争乱にまでなって、年を経る毎に連戦止まなかった。
天文11年から17年の夏迄、両者互いに領地知行の証文を乱発した。今それ全部は載せられないが、代表的なものだけを記しておいた。ー

その後、稙宗と晴宗の居城の変遷、稙宗派と晴宗派の面々の紹介、和睦に至る迄の過程などが延々延々綴られ、凄く言い訳めいた結論が、名誉責任編集長伊達綱村と、“或るひと”との脳内仮想対談において行われます。

ー或るひとが言う、先祖の争い事を、子孫が忌憚なく記事にするのは親不孝じゃないですか、と。
余いわく、そうだ、確かに争乱で終われば後世に恥を晒すだろう。もとより激しく忌み嫌うものである。しかし、もはや非や過ちを悔い改め、孝養の道を全うするならば、骨肉相剋を記載しても名誉に伝えられるのではないか。しかもこの内乱は世の知る所、様々な書籍にも記されている。更にはその後、和解して親子の情を戻したことは知られていない。だから余は敢えて隠し通さない。没ネタにすることもしない。むしろ詳しくその顛末を顕すのだ。ー

ふ~ん、あっそぅ、て感じです。
更にその後、稙宗が和歌をよくし、京の公卿に添削を頼んでいたことが記され、こうして京のセレブとロビー活動してたんだな~、と邪推したくなることを記した後、現存する稙宗製和歌が少ないことを惜しみつつ、隠居後も知行の証文を発行しながら、金山城に没したことが記されるのです。

27に続きます。

「B類系図」によれば天文16年(1547)春、15代太守葛西晴胤の3男親清が江刺讃岐守重国の養嗣子になったと記します。

しかし、江刺重国なんて人物、元祖にも本家にも記載が無く、詳しい事はわかりません。

田村郡三春城主(福島県三春町)の田村左衛門佐隆顕は小国の主ながら、文武に秀で、為政者として優れた名君だったと伝わります。

そんな優れた為政者が、芦名氏史上最高の名君とされた芦名盛氏と対立した理由はわかりません。

9月2日に発令された細川晴元から伊達晴宗への停戦勧告に刺激を受けたのでしょうか、それとも稙宗派の旗色が悪くなるに及んで、稙宗派に残された道は和睦しかないと判断したのでしょうか、はたまた領内の内部分裂にお手上げになってしまったか、ここへ来て田村隆顕は和睦工作を開始します。

既にその情報は15代太守葛西晴胤の耳に入っていたようで、前述の「推定天文17年(1548)3月14日付薄衣刑部大輔宛葛西晴胤書状」には、大乱の終息が近いことを匂わせていました。

その翌日の3月15日付け本宮次郎宗頼(左衛門大夫直頼?)宛て伊達晴宗書状には、その田村隆顕の和睦工作について言及があり、15代太守晴胤は早い段階で和睦近しの情報をキャッチしていたことが判明します。

伊達晴宗は伊具郡金山城(丸森町)に逃げた伊達稙宗と、行方郡中村城主(福島県相馬市)相馬顕胤との連絡を断とうとしたか、亘理郡坂元郷(山元町)、行方郡谷地小屋郷(福島県新地町)を攻略し、相馬勢100人を討ち取ります。

磐前郡大館城主(福島県いわき市)岩城左京大夫重隆に居候している本宮宗頼・直頼父子には、ここで田村、二本松畠山氏(本宮氏の本家筋)への挟み撃ちを促しています。

更に伊達晴宗は相馬顕胤が中村にいるが、別に問題はないよ、と吐き捨てています。

相馬顕胤はこの時41歳の不惑を迎えていました。長男盛胤二世と懸田俊宗の娘との間に長男義胤二世が誕生し、ジイジになっていました。懸田俊宗の妻は伊達稙宗の娘ですが、相馬盛胤二世に嫁いだ娘はその腹ではないようです。

大兵肥満のプロレスラーのような体躯に恵まれ、有能な大将として呼び声高い相馬顕胤も、「世次考」にかかると何だか凡庸の謗りを免れません。文章になると途端に燃える奴、ネットなんかにもいますけど、晴宗のヤツ、少し盛ってるのかも知れません。

ちなみに相馬側から見た晴宗像は、“温厚で大人しいが勇猛さや猛々しさに欠ける、そして知恵も人徳も浅薄だ(「伊達秘鑑」)”なんだそうです。

田村隆顕の和睦工作に最も難色を示しているのが本宮宗頼・直頼父子です。このまま停戦となれば、本家二本松畠山氏に奪われた所領は帰って来ないのではないかと疑念を持ち、それについて晴宗と幾度も書状のやり取りをしています。

5月3日、13代将軍足利義藤(義輝)は書状を発行し、親子が戦争するのは甚だ宜しくない、急ぎ和睦せよ、との命令を下します。幕臣大舘晴光が使者として下向します。

26に続きます。

意外にも伊達父子の和睦を望んでいた15代太守葛西晴胤。おいらだったら勝手に潰し合って衰退、滅亡してくれりゃあいいんだがって毒づきますがね。そうしてくれたほうが葛西氏の発展のためにはなるんだから。まぁ、晴胤がそう腹黒く考えたとしても、証拠に残ってしまう文書には認めないでしょうが。

柏山伊勢守明吉と薄衣刑部大輔宛の2つの文書には“晴胤”と直筆署名が記されています。年次欠ですが、天文17年(1548)と推定されますので、葛西高信が晴胤と改名したのは天文16年(1547)が正しいと考えられるのです。

遠田郡不動堂城(美里町)に拠った大崎義宣は、大崎義直の度重なる攻撃を受け、ついに降伏のやむ無きに至り、玉造郡岩出沢館(大崎市岩出山)に身柄を移されて後、長岡郡小野郷(大崎市古川小野)の小野御所に、恐らくは幽閉されていたものと見られます。

小野御所跡近くに建つ旧曹洞宗(現単立)天神山梅香院の寺伝によれば3月15日、大地震が発生し、大崎高兼の一人娘で義宣の正妻が、倒壊した屋形の下敷きとなり、享年23歳で没した、とあります。

しかし、「伊達正統世次考・巻9下・稙宗子女」によれば、翌天文18年(1549)8月3日に台風により倒壊した館の下敷きとなって亡くなったことが記されます(後述)。

梅香院の寺伝は、大崎義宣正妻の3回忌に義宣が没した、と記してありますので、恐らくは3回忌に合わせる目的で天文17年死没としたのかも知れません。(第24章4、第25章38参照)

ただこの年は、大崎義直に待望の男子が産まれた年でもありました。

大崎義直は初め、無双の美女と評された寺崎常清の末娘と結婚していましたが、僅か18歳で早世したために、13代副太守葛西宗清の娘と再婚していました。ですが、年配になってからの出産は恐らく、更に若い妾に産ませたのかも知れません。

ともあれ45歳にしてようやく実子に恵まれた義直。めでたさの中にようやく目の上のたんこぶを消す機会が訪れた、といったところでしょうか。義宣の存在価値は義直に実子がいないことで辛うじて保たれていたわけですから。

現存する2通の文書からは窺えませんが、大崎義直は人格に問題のある人物だったと伝わります。

片や、伊達家からの養子・義宣は意外なほど“デキル”男だったことがわかりました。

しかしそれは、義直が凡将だったゆえに、義宣が活躍出来る場所が自然と顕れたということではなかったでしょうか。その点、葛西晴清が大した活躍も残せぬまま暗殺されてしまったのは、晴胤が優れた策謀家だったからと推し量れるのです。

養家の姫と結婚したことは、既に暗殺された葛西晴清に同じですが、夫婦仲のほどもまた、晴清同様わかりません。

義直も義宣も、実子に恵まれないという点では同じですが、若く能力に富んだ夫婦に期待の目が向けられていたことでしょう。

しかし、その均衡は崩れました。緊張の糸が激しい音を立てて切れようとしていました。

二人の養子のたどった運命はその後の葛西と大崎の最期と、その後の歴史の記され方にまで影響を与えます。

25に続きます。

末永師清率いる氏族的政治集団のインテリジェンス活動によって、葛西殿こと15代太守葛西晴胤が晴宗派としての旗色を鮮明にしたということでしょう。策謀家晴胤は稙宗派ではないにしても、晴宗派というわけでもないという態度でいたわけですが、ついに芦名盛氏が晴宗派に属したことによって晴宗派有利の展開が確実となり、稙宗派の旗印であった葛西晴清を抹殺することで晴宗派入りを表明したのです。

「中目文書・年次欠1月30日付黒川下総守(景氏)・修理大夫(稙国)宛大崎義直書状」によれば、黒川景氏・稙国父子が、留守景宗(晴宗派)と家臣村岡内蔵助(稙宗派)の派閥争いについて、和睦を仲介したことを労い、義直や葛西晴胤にも協力を依頼してきたことに対しても承認する考えを示し、使者中目兵庫が詳細を述べる旨、記しています。

黒川父子の任官が天文15年(1546)3月12日、黒川氏の晴宗派転向が天文16年(1547)12月6日、その後葛西晴胤と大崎義直は天文18年(1549)より連年合戦し、天文21年(1552)4月15日に景氏が没することから考証し、天文17年(1548)の書状と推定しています。

今まで曖昧な態度を取り続けた15代太守晴胤ですが、今回は本気で決意したようです。

2月24日、15代太守晴胤は晴宗派の、恐らく葛西氏から半ば独立していたと見られる柏山伊勢守明吉と、その息子と思われる平三郎(長男明国か次男明宗)に、出馬を催促する書状を署名、花押つきで送っています。

年次欠2月24日付柏山伊勢守宛葛西晴胤書状に曰く、“思いの他延期させたのは訳あってのことである。それはこたび、晴宗に味方することにし、万難排し、出陣する覚悟を決めた。仕度を整え、出陣願いたい。
伊達氏の内紛が解決しない結果となっても、我等がどう動くかが重要になるであろう。
(意味不明のため、中略)
南方戦線は金山城に逃げ込んだ稙宗を捕まえるべく、中野宗時が米沢へ伝達し、後日晴宗が金山城に出陣する予定である。そう言うことなので急ぎ出馬してもらいたい。事あるごとに相談したく思う。
追伸、来る3月7日、出陣の日と決めた。共に戦えるなら、末代迄の本望である。”

葛西晴胤の強い決意が伝わる書状です。

伊達晴宗によって伊達郡西山城(福島県桑折町)を逐われた稙宗は、伊具郡金山城(丸森町)へと逃れ、晴宗は奪還した西山城を破却の上、出羽国置賜郡米沢城(山形県米沢市)に本拠を移しています。

15代太守晴胤は予定通り3月7日に出陣したようで、その14日、薄衣刑部大輔に書状をしたためています。

年次欠3月14日付薄衣刑部大輔宛葛西晴胤書状に曰く、“南方戦線の出馬について、再三申し渡した通り、速やかに味方するとの意思を表明してくれたことは、まことに悦ばしい。
晴宗とは子細申し合わせの上、16日、遅くとも24日には向かうつもりでいる。
油断なく仕度し、鎗働きすれば、評判は高まるであろう。伊達氏の内紛については、親子が和解し、家中が一つにまとまって、忠節を尽くすのが理想だ。
伊達氏親子の争いも終結が近いようだ。詳細については、また後で詳しく話したいと思う。”

薄衣刑部大輔とは、美濃入道系の上総介清正(?~1575)でしょうか、それとも常盛系の若狭守常憲(?~1589)でしょうか。

15代太守晴胤は、伊達稙宗と晴宗の親子が和睦することが理想的な解決法であると認識していたようです。

24に続きます。

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