2015年01月

天文5年(1536)5月下旬、満を持した伊達稙宗は腰を上げ、大崎義直はもとより、黒川郡の黒川景氏、宮城郡北部の留守相模守景宗、亘理郡の武石宗隆、深谷荘の長江宗武、宮城郡南部の国分弾正少弼宗綱(盛氏)、志田郡の遠藤左近将監光定ら、宮城県(当時)のそうそうたる面々を、恐らくは奥州守護職の名前で催促し、総勢3千の兵力で大崎領に進軍します。

「長泉寺過去帳」によれば6月20日、鈴木伊勢守重光なる人物が没したことが記されます。享年不明。葛西氏を出奔し、和賀郡(岩手県)の和賀氏の家臣となった後の六日入鈴木氏の一族と見られますが、詳細は不明です。

これと前後して6月上旬、奥州探題の名跡を喪った大崎義直を一応の旗印とした多国籍軍は、志田郡師山城(大崎市古川)を本陣に構え、志田郡古川城を囲みます。

城主古川刑部大輔持熙39歳以下弟孫三郎、四郎三郎、異母弟安童丸13歳、持熙長男又三郎直種17歳が自刃ないし戦死で散華しました。

安童丸の母親は前年4月下旬に夫で持熙の父・出羽入道の死に際し、尼になっていましたが、13歳になる少年の母親ですからまだ若い、30手前くらいの、そして武勇の女性だったのでしょう、息子の死を目の当たりにして激昂し、薙刀を振り回しながら敵軍を前に壮絶な切り結びを演じ、そのまま憤死を遂げたものと見られます。

かくして古川城は夥しい死者を出しながら落城しました。

一方で放火の天才・高泉木工権頭直堅は今度は自分の住まい・高清水館を焼き払って旧新田郡佐沼鹿ヶ城(登米市迫町)に逃走します。

葛西大崎二君にまみえていた栗原郡三迫岩ヶ崎館主・富沢直家が反乱軍として天文大崎内乱に噛んでいたゆえか、葛西家中でもこの内乱に関わっていた勢力がいたようで、その最たる事相が高泉直堅の佐沼鹿ヶ城遁走でした。

6月25日、戦陣に在った伊達稙宗は江刺郡岩谷堂館主(岩手県奥州市江刺区岩谷堂)元祖江刺左衛門督(重見)に書状を送っています。

元祖江刺重見は恐らく葛西義清還住問題において親伊達派として活動した人物であったのでしょう。懇ろな挨拶をつけて書き出しています。

その書状には、19日より古川城攻撃に入り、21日迄に古川一族郎党を討ち果たしたこと、高清水館主高泉直堅も佐沼にトンズラこいたこと、今現在、もとい書状を書いている時点で氏家氏の岩手沢館を攻撃すべく仕度をしており、さりとて伊達に内通する者が既にいるので陥落は時間の問題であること、これらを踏まえてキミも出陣してはどうかと何気に催促を煽っています。

天文大崎の内乱に援軍を出さなかったことでもわかるように、葛西氏は消極的な姿勢を取ったようで、殿様がうるさかったのか、単純に面倒臭かったのかわかりませんが、親伊達派の元祖江刺重見も出陣しなかった様子が窺えます。

伊達稙宗は続けてとんでもない事実を元祖江刺重見だけでなく、後世の我々にも明かしています。

22に続きます。

宮城県史に誇る放火魔・高泉木工権頭直堅の行き過ぎた戦術により、遠田郡百々館主(大崎市田尻大沢)百々弾正少弼直孝の手引きで、ほうほうの体で伊達領に亡命した元奥州探題大崎義直。迎えたのは現奥州守護職伊達稙宗。

父義兼同様懐に逃げ込んで来た窮鳥を見て、憐れんだのか、蔑んだのか、はたまたほくそ笑んだのかは定かではありませんが、稀代の策士は意外にも巧遅で、大崎義直を手元に留め置いたまま、3か月間、実質放置します。

その間にも留守居役の百々直孝から再三に渡る救援要請があり、米谷熙正が家族もろとも血祭りに上げられたことを始め、味方が日に日に不利に追い込まれていくさまを切々と書状に記しています。

伊達稙宗の援軍が遅れたのは軍役とか、準備が滞ったのかと思いきや、他にやる事があって忙しかったからではないかと見られます。

天文5年(1536)4月14日、前年の棟上日記に続き、分国法「塵芥集」が制定されるのです。

一見“ゴミ”と名付けて、そこらじゅうのありとあらゆる物事という意味を持たせた奇抜なタイトル。
「世次考」には、「御成敗式目」のそれに良く言えば準拠、悪く言えば剽窃した起請文を載せていて、警察や刑法、地頭の権利等170か条に及ぶ日本史上最大の分国法として、日本史の教科書にも登場するこの法典が成立したことで伊達稙宗は、斜陽の幕府権威を利用しつつ、独自の領国支配体制を確立し、東北地方に先駆けて戦国大名への脱皮を図ろうとしたにも関わらず、自ら制定した塵芥集によって己の政治生命を縮めることになろうとは、後述しますが、皮肉な話です。

これより前の3月10日、12代将軍義晴に待望の長男義藤(義輝)が誕生します。母は近衛尚通の娘。

また3月は、磐井郡赤荻(岩手県一関市)の赤荻清定が各地を巡礼し、武蔵国秩父郡白久郷(埼玉県荒川村)の臨済宗建長寺派瑞龍山法雲寺に、奥州葛西住赤荻伊豆守平清定と記した札を納めています。

更に4月4日、相馬盛胤、顕胤の賓客になっていた山内首藤伊勢守知貞が、行方郡鹿島(福島県南相馬市鹿島区)にて病没します。享年38歳の若さでした。戒名は無際自得。墓所は恐らく行方郡小高郷(福島県南相馬市小高区)の曹洞宗同慶寺ではなかったでしょうか。後に子孫首藤頼広が「永正合戦記」を含む「首藤氏系譜」作成に当たり、種本とした「修善堂記」がここに所蔵されていて、当時の住職・雷峰から譲り受けているからです。

山内首藤知貞が「修善堂記」を肌身離さなかった可能性は前述しましたが、その理由は、知貞が生涯を閉じた正にその地に知貞が所持していたとしか考えられない書籍が遺されていたからです。

3人の男子に恵まれた知貞の長男は伊達氏に仕官し、やがて仙台に移り住み、頼広へと繋がって行きます。次男は桃生郡に戻り、江戸時代はそこの肝入として続きました。

山内首藤知貞は38年という短い生涯に於いて、子孫頼広を通じて結局一言も発することはありませんでした。編者首藤頼広をして知貞を一言も発言させなかった理由、それは今もって山内首藤氏の歴史最大の謎と言えるのです。

21に続きます。

一族と共に日和山城を退去した末永五郎三郎師清。その向かう先は本拠地の元良郡最知村末永西風館でしたでしょうか。その胸に去来したものは何であったか、想像に及びません。

そのあとに4年振りに葛西領に戻った牛猿丸義清。数え年で20歳となり、成人式は福島県伊達市ではなく、宮城県石巻市で迎えることとなったこの若者の前途は、見ているこっちが哀れと言いたくなるほど荊楚の道でした。

稙宗父ちゃんに同意する葛西家臣はいるといっても、どれほど自分に役に立ってくれるかは全くの未知数でしたし、そもそも葛西領では数少ない血縁であり、同年代の叔父と甥にあたる末永師清には徹底的に嫌悪されまくっているわけですから、実質四面楚歌もいいところだったのではないでしょうか。

城に入れば面従腹背の養父と、妻が控えていましたが、久しぶりに再会した若妻、お待ち申し上げておりましたと、感涙に咽んだか、まだ生きてらしたんですね、どっかいい男ゲットして再婚しよって思ってましたのに、と吐き捨てられたか、男女の秘め事をあれこれ詮索していたら義清所用の馬に蹴飛ばされるでしょうか?

岩手県一関市大東町大原の曹洞宗寺院・亀峯山長泉寺の過去帳によれば天文4年(1535)8月4日、磐井郡大原山吹館主(岩手県一関市大東町大原)で、第二次永正合戦・七尾城攻略戦で四番隊の隊長を務めた大原飛騨守信胤が没します。享年51歳。長男薩摩守(系図では飛騨守)信光が跡を継ぎます。
なお、大原氏の系図によれば、大原信胤は永禄4年(1561)11月9日に享年74歳で没したと記しますが、極めて同時記録に等しい過去帳が信憑性が高いと思われます。

10月8日、3代古河公方足利高基が没します。享年51歳。長男晴氏が4代古河公方を継ぎます。

ところ変わって大崎義直は、長岡郡宮沢郷(大崎市古川)に本陣を構え、玉造郡泉沢館主(大崎市岩出山下野目)の新田安芸守頼遠の攻撃にかかります。

そこへ新田頼遠に協力している玉造郡岩出沢館主(大崎市岩出山)氏家又十郎直継が、庶兄太郎左衛門高継に反逆され、自害に追い込まれ、岩出沢館を乗っ取られます。

突然の氏家氏のお家騒動は、大崎義直の策謀でしょうか。これによって新田頼遠ら反逆者一党は館を捨てて逃亡してしまいます。

殺害されたという氏家直継ですが、その後の記録にも姿を現すので、自害は誤報であり、どこかへ雲隠れしていたものと見られます。

反乱軍の志田郡古川館主(大崎市古川)古川刑部大輔持熙の家老米谷熙正は、諌言を遮られてよりは、古川城付近の屋敷に籠り、出仕しなくなっていました。

米谷熙正なりのけじめのつけ方なのでしょうが、そうなると口さがない噂が立つようになるのは浮き世の常で、米谷は返り忠(謀反に対する謀反)を企んでおりますぞ、との疑惑が持ち上がり、明けて天文5年(1536)1月、古川持熙は米谷熙正を攻撃。そこへ、大崎義直が米谷熙正の援軍に駆け付けます。

そこへ2月2日、氏家安芸守という人物が挙兵し、氏家高継を岩出沢館から追放してしまいます。こちらの方は本当に生死不明になってしまいます。

9代探題大崎義兼の3男で大崎西殿こと栗原郡高清水館主(栗原市高清水)高泉氏を継いでいた木工権頭直堅が、古川持熙救援の兵を挙げ、主君で次兄の義直に従う者達の城館、屋敷や街に放火し、大崎義直を撹乱動揺させようとしたところが、馬鹿なことに味方の邸宅まで燃やしてしまう間抜けぶりを発揮しますが、とりあえず、大崎義直は父義兼がそうしたように、すたこらと伊達領に出奔してしまったのですから、結果オーライというところでしょうか。

20に続きます。

葛西義清の還住を妨害することで実父の仇敵に一矢を報いようとした末永師清とその一類。

葛西義清に来られると折角勝ち得た家督の座を手放さないといけない葛西高信。

両者の利害は一致していました。

確証はありませんが、策謀家の高信や末永一類ならば、義清拒否で日に影に協力関係にあったことは明らかです。

末永一類が反伊達派の急先鋒として日和山城を舞台に大立ち回りを演じていた頃、葛西高信は日和山城にはいなかった様子が窺えます。それは単に出掛けて留守にしていただけなのか、危険を避けるために城から退去していたのか、はっきりしませんが、15代太守高信を矢面に立たせないようにすることで後々高信有利に運ばせようとする狡猾な策略だったのではないでしょうか。

この策略は葛西高信、もしかすると末永師清のアイディアだったのかも知れませんが、葛西義清還住を阻止出来ればそれで良し、失敗しても高信には泥がかからないように仕込まれていたのです。

既に葛西家中には伊達稙宗に協力してくれる勢力が集っていたようです。これらが親伊達派を形成し、伊達稙宗の意向に沿って、葛西義清還住に尽力していたであろうことは想像に難くありません。

しかし、結果的に葛西義清の還住を成功に導いたのは、全く外部の人間、偶然にも末永師清と同じ官職名の国分能登守宗政だったのです。

両者が差し向かった時、師清が既に能登守を名乗っていたかどうかは定かでありませんが、その席上、義清還住の条件として高信を太守として認めるかわり、義清を高信の夫婦養子とし、高信の次の太守とすることで妥結をみたようです。

潮時とみた師清以下末永一類は日和山城を退去します。 福島県滑里川、もとい岩瀬郡新城の合戦から年明けた天文4年(1535)、7月13日の時点で葛西義清の還住叶わぬながら、水面下で暗闘を演じていた伊達稙宗と末永師清とその一類。
そこへ国分宗政の仲介が入って末永一類は日和山城を退去し、葛西義清の還住が決定。
8月27日、そこへ葛西高信が日和山へ帰城し、 この問題は一応伊達稙宗の思惑通りに落着し、後は新城の合戦の後始末が残っていると、富塚仲綱が9月22日に石川郡三芦城主(福島県石川郡石川町)石川駿河守稙光に宛てた書状から偶然、末永一族の動向が炙り出されたのです。

「B類系図」によると、葛西義清が葛西領に帰還出来たのは、天文10年(1541)また13年(1544)の2月と記されていますが、岩瀬郡新城の合戦を勘案した時、天文4年12月だったのではないかと推測されるのです。

19に続きます。

当ブログにおきましては、ご訪問者様のべ4500名を達成し、感謝感激雨あられでございます。ここにつつしんで御礼申し上げとます。

マイナーかつマニアックな郷土史がテーマのこのブログ、やはり滅ぼされし歴史の無念は一人でも多くの方に読んでいただくより他はなく、たとい自己顕示と言われようとも、何としても読んでいただきたい、そんな想いに駆られつつ、一文字一文字に魂を込めていきたいと考えています。そろそろ戦国時代もたけなわなので、それなりに興味を持っていただけるかと思う次第です。



さて、今年20になるかならないかという方が、麻原彰晃が空中に浮かんでる(と麻原がほざいている)写真を見て、これ何?と呟いていたのを見た時、あぁそっかー、産まれてない時代のことだから知らなくて当然なんだよなー、と驚きもしたが、同時に衝撃を受けた。

おいらに置き換えてみれば、それはオイルショックでトイレットペーパー売り場に殺到する群衆の映像だったり、三億円事件のモンタージュ写真を見て、これは何?って聞いてしまうようなものなのかも知れない。

ちょうど20年前の平成7年(1995)ていう年は、戦後50周年とか言われて過去の戦争や歴史に対する反省だか清算だか、兎に角ピリピリした論調がやな感じに日本の空中を覆っていた年だったなぁと、記憶している。平成バブル景気と銘打たれた、長く安逸を貪るだけの経済が破綻しかけ、それでも喰って遊ぶだけの余裕があった時に阪神大震災が起きた。

こういっちゃ何だけど、当時のロシアが本気でチェチェンを侵略したのかなって思った。それくらい、現実の日本で起きたこととは到底信じられなかったな。

だからあの笑っていいともが凄く神妙で物々しく進行しているのを見て初めて、あぁ大災害が起きた、って自覚した。日本が経済破綻しても、侵略されても、明日見てくれるかな?って言ってそうな能天気な番組って印象で見てたからね。

あれから20年経って、いいともが終わったのは意外だったけどさ、阪神大震災について、色々な意見が様々なメディアを発信源に伝えられているけど、おいらは一切見ないことにした。テレビもネットも、の震災関連の記事は敢えてスルーしてる。

そんなところでなるべくオリジナルの意見、もちろんそれが正鵠を得た意見かどうかは別なんだけど、災害関連の記事ってのは違う意味で怖いなって思ってる。

東日本超巨大地震の時がそうだったんだけど、震災翌日にはプレイ・フォア・ジャパン、日本のために祈るとか言ってて、よくこんな未曾有の災害時に洒落たキャッチコピー考えてる余裕あんなって、背筋がぞっとしたもんな。

あるテレビ局の女性アナウンサーが“あー何か笑える”って失言したらしいけど、本当に其処の女子アナなのか不明だし、仮にそうだとしても、そもそも嗅覚も触覚もない、視覚だけの状態からでは率直なところ、バーチャルリアリティ、ゲームかシミュレーションか何かにしか見えなかったんでしょ。

湾岸戦争の画像がそうだったよね、爆発音とか悲鳴とか、焼け焦げた死臭とか、ある筈なんだけど、よく出来たグラフィックにしか見えない。アメリカの野郎、巧くやりやがるなって思ったものな。

震災でまずはっきりしたのは、日本は安全ではないという、いわゆる安全神話が揺らいでしまったことだよな。

そして、その2ヶ月後に発生した邪教の狂信者どもが毒ガスをばら撒いたことで安全神話の崩壊ははっきりしたように思う。これに関してはどう考えているんだか、阪神大震災について意見を述べておられる方々に、無礼千万を承知で問うて見たい。一概に比較するのは剣呑かも知れないけど、こっちのほうが日本の歴史そのものに与えた影響はでかいと思うよ。

何せ当時、邪教オウムを礼賛した輩が結構いたんだよ。芸能人、知識人。その空中に浮いてるっていうただ胡座かいてジャンプしてるだけの他愛もないインチキ写真もあるのにさ、あんたらは邪教だって面と向かってバッサリ切り捨てる者がいなかったか、いてもかき消されていたもんな。

こうした信教の自由を履き違えてタブー化された、なあなあで我関せずで野放し的な接し方がこいつらに邪悪外道を突き進ませた事実は否めないんだよ。馬鹿なテレビ局が対立する弁護士のインタビュー映像を求めに応じてホイホイ見せて悲劇が起きた。ワイドショーのニュース化、ニュースのワイドショー化が進んで両者の垣根が低くなったがゆえの事件と、評された。垣根が低くなって節度を喪ったが故に弊害が起きる図式はここ20年間枚挙にいとまはない。

よせばいいのに、地元の新聞社が各宗にアンケートを取っていた。まさか昔僧兵でもって武装してましたとか、一揆してましたとか、言うわけないんだから。

しかし狂信化した邪教が世の中を乱す、という構図はSF漫画ではよく言われたことだった。にも関わらず人を幸せにする筈の宗教が何故って、戦後民主主義の衆愚な部分を抽出したような意見が日本を飛び交った。

おいらから言わせれば、やっぱ税金払わせるべきって思うね。18万法人の大多数が信者で儲けるって連中だもの。宗教法人を親会社にして税金逃れした狡猾な食品会社があった。だから金の出入りとか活動を実態調査して公開出来るようにして邪教の根を絶やすしかない。涅槃経にもあったけど、邪教の首をはねていいのは昔の話で、今はそんなことすれば神格化されるから、兵糧攻めにして飢えさせ、醜い正体を曝させるほうが効果的なんだよ。

戦後の50年で敗戦国日本は奇跡的な復活を遂げ、世界に冠たる経済大国となった。だけど軍事を疎かにしたいびつな繁栄は、近隣諸国を嫉妬と羨望と国民の不満をそらすスケープゴートとしての反日国家にならしめた。様々な領域の水準は高くとも、個々バラバラで目標のない、夢や希望を持つことに一種の恥を感じる、日雇い感覚の人生に堕ちていたところへ、わずか一年間でありとあらゆる価値観がひっくり返り、幻想になっちゃった。そういう意味で第2の敗戦と呼ぶべき年だったのではないかという意見は、20年経った今でも変わらないし、未だに清算され、解決していないように感じるんだよ。

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