天文5年(1536)5月下旬、満を持した伊達稙宗は腰を上げ、大崎義直はもとより、黒川郡の黒川景氏、宮城郡北部の留守相模守景宗、亘理郡の武石宗隆、深谷荘の長江宗武、宮城郡南部の国分弾正少弼宗綱(盛氏)、志田郡の遠藤左近将監光定ら、宮城県(当時)のそうそうたる面々を、恐らくは奥州守護職の名前で催促し、総勢3千の兵力で大崎領に進軍します。
「長泉寺過去帳」によれば6月20日、鈴木伊勢守重光なる人物が没したことが記されます。享年不明。葛西氏を出奔し、和賀郡(岩手県)の和賀氏の家臣となった後の六日入鈴木氏の一族と見られますが、詳細は不明です。
これと前後して6月上旬、奥州探題の名跡を喪った大崎義直を一応の旗印とした多国籍軍は、志田郡師山城(大崎市古川)を本陣に構え、志田郡古川城を囲みます。
城主古川刑部大輔持熙39歳以下弟孫三郎、四郎三郎、異母弟安童丸13歳、持熙長男又三郎直種17歳が自刃ないし戦死で散華しました。
安童丸の母親は前年4月下旬に夫で持熙の父・出羽入道の死に際し、尼になっていましたが、13歳になる少年の母親ですからまだ若い、30手前くらいの、そして武勇の女性だったのでしょう、息子の死を目の当たりにして激昂し、薙刀を振り回しながら敵軍を前に壮絶な切り結びを演じ、そのまま憤死を遂げたものと見られます。
かくして古川城は夥しい死者を出しながら落城しました。
一方で放火の天才・高泉木工権頭直堅は今度は自分の住まい・高清水館を焼き払って旧新田郡佐沼鹿ヶ城(登米市迫町)に逃走します。
葛西大崎二君にまみえていた栗原郡三迫岩ヶ崎館主・富沢直家が反乱軍として天文大崎内乱に噛んでいたゆえか、葛西家中でもこの内乱に関わっていた勢力がいたようで、その最たる事相が高泉直堅の佐沼鹿ヶ城遁走でした。
6月25日、戦陣に在った伊達稙宗は江刺郡岩谷堂館主(岩手県奥州市江刺区岩谷堂)元祖江刺左衛門督(重見)に書状を送っています。
元祖江刺重見は恐らく葛西義清還住問題において親伊達派として活動した人物であったのでしょう。懇ろな挨拶をつけて書き出しています。
その書状には、19日より古川城攻撃に入り、21日迄に古川一族郎党を討ち果たしたこと、高清水館主高泉直堅も佐沼にトンズラこいたこと、今現在、もとい書状を書いている時点で氏家氏の岩手沢館を攻撃すべく仕度をしており、さりとて伊達に内通する者が既にいるので陥落は時間の問題であること、これらを踏まえてキミも出陣してはどうかと何気に催促を煽っています。
天文大崎の内乱に援軍を出さなかったことでもわかるように、葛西氏は消極的な姿勢を取ったようで、殿様がうるさかったのか、単純に面倒臭かったのかわかりませんが、親伊達派の元祖江刺重見も出陣しなかった様子が窺えます。
伊達稙宗は続けてとんでもない事実を元祖江刺重見だけでなく、後世の我々にも明かしています。
22に続きます。
これと前後して6月上旬、奥州探題の名跡を喪った大崎義直を一応の旗印とした多国籍軍は、志田郡師山城(大崎市古川)を本陣に構え、志田郡古川城を囲みます。
城主古川刑部大輔持熙39歳以下弟孫三郎、四郎三郎、異母弟安童丸13歳、持熙長男又三郎直種17歳が自刃ないし戦死で散華しました。
安童丸の母親は前年4月下旬に夫で持熙の父・出羽入道の死に際し、尼になっていましたが、13歳になる少年の母親ですからまだ若い、30手前くらいの、そして武勇の女性だったのでしょう、息子の死を目の当たりにして激昂し、薙刀を振り回しながら敵軍を前に壮絶な切り結びを演じ、そのまま憤死を遂げたものと見られます。
かくして古川城は夥しい死者を出しながら落城しました。
一方で放火の天才・高泉木工権頭直堅は今度は自分の住まい・高清水館を焼き払って旧新田郡佐沼鹿ヶ城(登米市迫町)に逃走します。
葛西大崎二君にまみえていた栗原郡三迫岩ヶ崎館主・富沢直家が反乱軍として天文大崎内乱に噛んでいたゆえか、葛西家中でもこの内乱に関わっていた勢力がいたようで、その最たる事相が高泉直堅の佐沼鹿ヶ城遁走でした。
6月25日、戦陣に在った伊達稙宗は江刺郡岩谷堂館主(岩手県奥州市江刺区岩谷堂)元祖江刺左衛門督(重見)に書状を送っています。
元祖江刺重見は恐らく葛西義清還住問題において親伊達派として活動した人物であったのでしょう。懇ろな挨拶をつけて書き出しています。
その書状には、19日より古川城攻撃に入り、21日迄に古川一族郎党を討ち果たしたこと、高清水館主高泉直堅も佐沼にトンズラこいたこと、今現在、もとい書状を書いている時点で氏家氏の岩手沢館を攻撃すべく仕度をしており、さりとて伊達に内通する者が既にいるので陥落は時間の問題であること、これらを踏まえてキミも出陣してはどうかと何気に催促を煽っています。
天文大崎の内乱に援軍を出さなかったことでもわかるように、葛西氏は消極的な姿勢を取ったようで、殿様がうるさかったのか、単純に面倒臭かったのかわかりませんが、親伊達派の元祖江刺重見も出陣しなかった様子が窺えます。
伊達稙宗は続けてとんでもない事実を元祖江刺重見だけでなく、後世の我々にも明かしています。
22に続きます。