2014年11月

「登米寺池龍源寺所蔵小野寺系図」によれば享禄2年(1529)8月18日、登米郡寺池城代(岩手県一関市)小野寺美濃守道茂に長男(次男とも)道行が誕生します。

福地首藤氏の系図によれば、桃生郡福地館山館主(石巻市福地)福地首藤周防守俊兼の長男で、長兄の桃生郡横川釣ノ尾館主(石巻市福地字横川)須藤播磨守宗俊の婿養子となった上総介信俊に次男俊勝が誕生します。

享禄3年(1530)1月30日、越後国(新潟県)守護代長尾為景に4男景虎が誕生します。母は古志長尾房景の娘虎御前。葛西清重の長庶子時清の女系子孫で、清重から数えて13代目の子孫に相当します。

後に上杉謙信と名乗るこの人物は無数に拡散された葛西清重DNA保持者、子孫末裔の中で最も有名な英雄と言えるでしょう。

桃生郡中野郷(石巻市)の天台宗平沢山龍源寺は、日和山葛西満重が文明15年(1483)4月に再興したにも関わらず、無住寺になっていたようで、この年、尾張国(愛知県)の曹洞宗高僧天以乾済(1461~1555)が弟子を引き連れ、上品山頂に庵を作って布教活動していたのを、14代太守晴重はこの僧侶を招いて5月、曹洞宗桁渕山龍源寺と改宗し、再々興しています。

桃生郡の龍源寺が廃れていたと同時に、登米郡の元祖天台宗桁渕山柳源寺も三郡鼎足一揆と関連したものか、衰退していたようです。それが再興されるのは次の天文年間に入ってからです。

9月16日、登米太郎行賢の長男蔵人行信が没します。父の出家によって家督を継いで15年目の出来事でしたが、奸佞の士登米行賢がいつ、どのような最期を遂げたのか、史料は悉く沈黙しているのです。

男沢及川氏の系図によればこの年は、磐井郡流荘男沢鷹取館主(岩手県一関市花泉町老松)男沢及川豊後守重俊に次男信成が誕生します。母は不明。長兄重吉は後に17代太守葛西晴信の執事、「葛西真記録」では宿老となり、晴信の偏諱を受けて越後守信吉と名乗ります。

小梨西城氏の系図によればこの年は、磐井郡小梨館主(岩手県一関市千厩町小梨)小梨西城遠江守景綱が没します。享年71歳。長男兵庫助行綱こと信綱が跡を継ぎます。

新館千葉氏の系図によれば、新館千葉重高の4男で、寺崎常清の従弟にあたる左馬助重光が享年53歳で討死したとあるのですが、どのような戦争だったかははっきりしません。前年の江刺郡横瀬郷(岩手県奥州市江刺区藤里)の合戦でしょうか?それとも翌年に勃発した合戦でしょうか?長男右馬助通次が跡を継ぎ、磐井郡流荘中村郷(岩手県一関市花泉町花泉)の住人となります。

米倉氏の系図によれば、元良郡米倉獅子が館主(気仙沼市本吉町津谷)米倉上野介尚持(重持)の次弟で元良郡大谷堀合館主(気仙沼市本吉町後田)因幡守長持に長男久持が誕生します。母は不明。

享禄4年(1531)6月4日、細川高国は京都を再び奪還しますが、堺幕府との決戦に敗れ、呆気なく自害して果てます。享年48歳。最期の地となった摂津国川辺郡大物郷(だいもつ・兵庫県尼崎市大物町)は、かの源義経が船出を試みるも、嵐で難破した場所でもあります。(第7章41参照)

裏切り者の細川尹賢もその裏切り先で仲違いを惹き起こし、7月24日、殺害されます。享年不明。因果応報でしょうか。奸佞の臣に相応しい最期と言えましょう。

6に続きます。

「末永系図」において師清は不可思議な存在と言えます。

「門崎布佐」の一種、「千葉栄氏蔵葛西代々継図」や、「登米龍源寺蔵末永系譜」では、末永氏の初代に師清の名前を配し、師清の居場所には別名の清継、またはその誤記と思われる清純という名前が記入されています。

逆に「河南」など、初代を師清とせず、先の系図で2代目とされていた葛西清重の4男時重を初代とする系図においては、師清の名前が宗春の後継者として記述されています。

「平葛西末永両家系・巻物」では、“初代師清”を葛西清重の弟と解釈しているようですが、この“初代師清、戒名浄歓”とはすなわち、本者の末永師清(清継)をベースに、遠祖たる葛西清重や、磐井郡門崎布佐を領地とした千葉常観胤親らをモデルとする、複合されて成立した人物であることが判るのです。

末永氏の系図の最初の部分がこうして合成されたことは、“スヱナガ・コード”として既に述べました。しかしそれが、師清ないし宗春でなければならなかった理由については、激動の時代の当主をクローズアップしたかったとしか言い様がないのです。

末永師清が立志し、相馬盛胤二世が誕生し、新しい世代へと脱皮しつつあった享禄2年(1529)は、大崎氏と黒川氏において代替わりがあった年でもあります。
すなわち、大崎氏9代当主・左京大夫義兼が享年不詳で没し、長男で10代当主・彦三郎高兼は父に先立ち没していましたので、次男で寺崎常清、葛西宗清の娘婿でもある左京大夫義持こと義直が11代目を相続します。

既に大崎義直は「余目旧記」成立時の永正11年(1514)には家督を譲られていたようです。居所を追われるなど、半世紀に亘って苦難の領国経営を続けてきた義兼は、隠居生活を経てその波乱と苦悩に満ちた生涯を閉じましたが、期せずして次の苦難の半世紀をこの義直が過ごす破目になるのです。

「源姓大衡氏譜・族譜」によれば享禄2年(1529)3月17日、黒川氏5代当主宮内大輔氏矩が没します。享年64歳。実子無く、従属先の伊達家臣で信夫郡飯坂館主(福島県福島市飯坂町)飯坂弾正清宗の長男とされる下総守景氏が養嗣子となって6代当主を継ぎます。

薄衣氏の系図によれば4月12日、薄衣上総介清貞が没します。享年71歳。長男内匠頭清宗が跡を継ぎます。

4月22日、コロンブスを真に受けたマゼランじゃなくてエルカーノの世界一周を受けたスペイン王国とポルトガル王国は間抜けにも、トルデシリャス条約(第15章27参照)に続き、地球にもう一本分割線が必要だということに今更気付き、そのもう一本を取り決めたサラゴサ条約を地球人の承認無しに勝手に線引きしてしまいます。これによって中尊寺金色堂から派生した黄金の国ジパングとされる東アジアの島嶼国はポルトガルの帰属するフロンティアとなり、鉄砲伝来の契機という、何とも皮肉な成り行きを呼び起こします。

7月8日、磐井郡鳥海東館主(岩手県一関市大東町鳥海)及川豊後守重純が、江刺郡岩谷堂館主(岩手県奥州市江刺区岩谷堂)元祖江刺左衛門督重見と江刺郡横瀬郷(岩手県奥州市江刺区藤里)で合戦し、討死を遂げます。享年69歳。長男大炊助重兼が跡を継ぎます。

及川重純は14代太守葛西稙信(晴重)に仕え、長男重兼は15代太守葛西晴胤(高信)に近侍し、老臣であった、と系図にはあります。

一方で及川重純を討ち取った元祖江刺重見は葛西高信とは義兄弟の間柄に相当するのですが、葛西高信の側室元祖江刺氏が死別したか、離縁したか、子供を産める年齢を過ぎたか、出生の記録が無くなると、変わって西舘兵庫助信常なる、信兼かその息子かとも思われる人物の娘との間に3女と4女が誕生しており、葛西氏と元祖江刺氏との縁はいささか薄くなっていたものと推察されます。

となれば横瀬郷の合戦の原因は、縁薄くなった元祖江刺氏と葛西高信との対立によるものと見られますが、ひょっとすると太守の家督を巡り、父晴重と次男高信が対立し、その結果引き起こされた代理戦争だったのではないかと邪推することも出来そうです。

5に続きます。

葛西宗清は自分の息子を末永氏に送り込んで良い意味で抱き込み、悪い意味で傀儡化を狙ったのでしょうか。それとも末永氏側が葛西宗清の息子を養子に望んだのでしょうか。

更に大胆に推理するなら、末永師清は末永氏、特に能登守宗春の血をひく葛西宗清の息子だったのかも知れません。
男系においては葛西宗清の息子、晴重の弟として、女系においては末永能登守かその一族の娘を母に、後妻亀卦川氏を養母とした、 敵対関係にあった者同士による、どちらでもあり、どちらでもない曖昧模糊にして一挙両得な混血児。大袈裟に言うなら「ジョジョ第5部」の主人公・ジョルノ=ジョバァーナのような。

新手のスタンド使いだったかどうかという冗談はさておき、末永師清の出自が極めて複雑怪奇だったことは確かです。

しかしながらそのような糸の乱れの中で、現在の気仙沼市最知を本拠地に3万石と称されるような強大な勢力を築き、気付けば葛西氏の家老にまで登り詰める才覚を持っていました。

運もあったでしょうが、大不忠者の家柄であった末永氏を押しも押されぬ権門に生まれ変わらせた実力者であったことは間違いありません。

謀叛人としてその悪名を欲しいままにした初代末永能登守、宗春。無念の早世を遂げた2代目末永能登守、清勝。彼等の遺産を胸に、3代目末永能登守の産まれながらの闘いが始まろうとしていました。

末永師清が何時産まれたかについては不明ですが、家督を相続してより約半世紀を生き抜いたので、先代清勝が没した当時は物心つくかつかないかの幼少の年齢だったかと思われます。

思春期に入り、青年期を迎えつつあった末永師清にとって、既に想い出噺、昔語りとなった先代能登守宗春や養父能登守清勝の存在よりも、実父葛西宗清が梨郷館の変で討死したことのほうが鮮烈な記憶として五体に刻まれたやも知れません。

この時受けた経験がその後の末永師清の政治スタンスを決定づけたと言っても過言では無いでしょう。若き末永氏の当主・五郎三郎師清は、実父を亡き者にした伊達稙宗とは終生対立し続けたのです。

それともう一つ、これは師清が年少だったことに起因した結果と思われるのですが、一族が結束したスタイルで活動していた様子が窺えるのです。このことは伊達稙宗が自筆の書状で“末永一類”と表記していることから判明します。

4に続きます。

ここで一旦話を末永氏に戻します。

大永元年(1521)12月10日に末永能登守清勝が39歳の若さで早世すると、末永氏当主の名跡は末永能登守宗春の養嗣子とされる五郎三郎師清なる人物に継承されます。

末永師清について「末永系図」は、葛西14代太守晴重の弟であると記しています。

これは極めて異例の記述です。何故なら、養子で来た人物は通常、実父を記すものだからです。

末永師清の実父は一体誰だったのでしょう。“兄”とされた14代太守晴重は、江刺重親の3男で養子に入った人物ですが、江刺重親の4男に師清などという人物は存在しません。

ということは13代太守、政信ないし宗清の息子ということになります。

おいらが導き出した結論を言えば、末永師清の実父は葛西宗清だったのではないでしょうか?でなければ末永系図の13代目にわざわざ宗清そのものを書き記す理由なんか無いんですから。

「末永系図」に秘められたスヱナガ・コード最大のトップシークレット事項、それは末永師清が葛西宗清の実子であり、その子孫は伊達のDNAを受け継いでいる、という極めて重大な事実でした。

しかしながら、その重大な事実を暗号化してしまった理由とは何でしょう?謙虚だから?いえいえ就職活動の履歴書として作成された家系図にそんな惻隠の情は無意味です。

思うにこれは、秘匿しといたほうが無難と、自ら規制した結果ではないでしょうか。末永清連や能登守宗春が謀叛人であったことが記述されていない、消極的に隠蔽されているわけですから、最終的に謀反人となり、あまつさえ伊達本家に刃向かった葛西宗清は特に、暗号化し、隠匿しといたほうが、就職的には都合が良いと判断したのではないでしょうか。

繰り返しますが、これは非常に重大な事実です。末永氏は伊達氏と血縁関係にあるということですから。勿論仮説であり、空想や想像のたぐいを脱しないレベルの噺です。それこそ末永師清の子孫と、みきおさんや泰宗さん以下、伊達家の方々の遺伝子を鑑定すればわかるのかも知れませんが。

葛西宗清には正室日和山満重の長女の他に、側室千葉刑部こと亀卦川師胤の娘がいました。師清という名前が母方祖父と父親からの一字ずつというのがわかります。

しかし、葛西宗清の息子とするには余りにも末永氏の匂いがし過ぎるのです。五郎三郎とは葛西満信の5男であった清連、その3男であった清春を指すものと解釈出来ますし、別名である清継とは末永清連の乱で自刃し、世が世なれば能登守宗春ではなく、この人物が末永氏家督となる筈だった末永清連の嫡孫・孫二郎清次に因むと考えられるのですから。何より葛西宗清を暗殺しようとした末永宗春と同じ能登守の官職を名乗っている位ですから。

3に続きます。

父伊達尚宗に続き、叔父葛西宗清を謀らずも討った伊達稙宗。近親憎悪、骨肉相剋の内に、稙宗が何を想い、何を秘めたかは歴史書は何も語ってはくれません。そもそも伊達氏の正史が先祖の旧悪や恥部を曝す訳はないのですから。

伊達稙宗が葛西宗清を葬らんとするその前夜、自身の長女を相馬氏当主顕胤に嫁がせています。

最上攻めの陣中で伊達稙宗と初めて邂逅した時、相馬顕胤はわずかに9歳の少年でしたが、ちびまる子ちゃんと同い年とは思えない見事な男っぷりに、稙宗はいたく気に入ったようで、男にとって最大の恋人と云われるその長女と結婚させて公私交えての取り込みをしています。

享禄元年(1528)12月31日、伊達稙宗は祖父成宗の宿老であった船生右馬助の妻に、出羽国置賜郡下長井荘白兎郷(山形県長井市)の所領を安堵しています。

船生右馬助は梨郷館の変で戦死したようで、当主亡き後の未亡人に領地を保障したものと見られます。船生未亡人にとっては悲しみの中に有り難い年越しになったでしょうか。

黒沢氏の系図によれば、磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢越中守信資に次男信昌(信久)が誕生します。母は3妻柏山若狭守元方の娘。

柏山元方は胆沢郡百岡大林館主(岩手県金ケ崎町永栄)柏山氏の当主かその一族と見られますが、詳細は不明です。

元祖松川氏の系図によれば、磐井郡松川館主(岩手県一関市東山町松川)松川五郎左衛門胤康に長男信康が誕生します。母は及川筑後守重康の娘。及川重康については、系図にその名前が無く、詳細は不明です。

相馬氏の系図によれば享禄2年(1529)、相馬顕胤に長男が誕生。後に父の名前だった盛胤と名付けています。父顕胤22歳、母屋形御前24歳、姉さん女房の父稙宗は42歳。随分若いおじいちゃんだ。まぁ徳川家康も40手前でじいちゃんになりましたが。

となれば相馬氏の食客になっていた山内首藤知貞も一家を構えて父親になっていたでしょうか。30手前の壮年ですが、葛西宗清の没落についてどのように感じていたか、興味深いところです。

伊達氏の正史たる「世次考」は梨郷館の変は勿論記す筈は無いのですが、それに伴う恩賞記事があり、後世の学者、研究家に任せ、というか、丸投げしています。それを歴史家の良心が成したギリギリの選択と解釈するも、歴史家としての使命を捨ててカマトト、狸寝入りの無責任と裏読みするも自由です。

この年の2月23日には犬松丸こと湯村美作守に出羽国置賜郡下長井荘女島郷(山形県川西町尾長島)と思われる所領を、12月28日には太斎四郎右衛門の所領(所在地不明) を安堵しています。

また、享禄年間には、伊達氏分家の桑折景長に下長井荘内に所領を与え、置賜郡小松館主(山形県川西町)となったようです。

湯村、船生、太斎、桑折…梨郷館の変で葛西宗清討伐に参加した面々が所領安堵の記録から炙り出されて来ます。

2に続きます。

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