「登米寺池龍源寺所蔵小野寺系図」によれば享禄2年(1529)8月18日、登米郡寺池城代(岩手県一関市)小野寺美濃守道茂に長男(次男とも)道行が誕生します。
福地首藤氏の系図によれば、桃生郡福地館山館主(石巻市福地)福地首藤周防守俊兼の長男で、長兄の桃生郡横川釣ノ尾館主(石巻市福地字横川)須藤播磨守宗俊の婿養子となった上総介信俊に次男俊勝が誕生します。
享禄3年(1530)1月30日、越後国(新潟県)守護代長尾為景に4男景虎が誕生します。母は古志長尾房景の娘虎御前。葛西清重の長庶子時清の女系子孫で、清重から数えて13代目の子孫に相当します。
後に上杉謙信と名乗るこの人物は無数に拡散された葛西清重DNA保持者、子孫末裔の中で最も有名な英雄と言えるでしょう。
米倉氏の系図によれば、元良郡米倉獅子が館主(気仙沼市本吉町津谷)米倉上野介尚持(重持)の次弟で元良郡大谷堀合館主(気仙沼市本吉町後田)因幡守長持に長男久持が誕生します。母は不明。
享禄4年(1531)6月4日、細川高国は京都を再び奪還しますが、堺幕府との決戦に敗れ、呆気なく自害して果てます。享年48歳。最期の地となった摂津国川辺郡大物郷(だいもつ・兵庫県尼崎市大物町)は、かの源義経が船出を試みるも、嵐で難破した場所でもあります。(第7章41参照)
裏切り者の細川尹賢もその裏切り先で仲違いを惹き起こし、7月24日、殺害されます。享年不明。因果応報でしょうか。奸佞の臣に相応しい最期と言えましょう。
6に続きます。
福地首藤氏の系図によれば、桃生郡福地館山館主(石巻市福地)福地首藤周防守俊兼の長男で、長兄の桃生郡横川釣ノ尾館主(石巻市福地字横川)須藤播磨守宗俊の婿養子となった上総介信俊に次男俊勝が誕生します。
享禄3年(1530)1月30日、越後国(新潟県)守護代長尾為景に4男景虎が誕生します。母は古志長尾房景の娘虎御前。葛西清重の長庶子時清の女系子孫で、清重から数えて13代目の子孫に相当します。
後に上杉謙信と名乗るこの人物は無数に拡散された葛西清重DNA保持者、子孫末裔の中で最も有名な英雄と言えるでしょう。
桃生郡中野郷(石巻市)の天台宗平沢山龍源寺は、日和山葛西満重が文明15年(1483)4月に再興したにも関わらず、無住寺になっていたようで、この年、尾張国(愛知県)の曹洞宗高僧天以乾済(1461~1555)が弟子を引き連れ、上品山頂に庵を作って布教活動していたのを、14代太守晴重はこの僧侶を招いて5月、曹洞宗桁渕山龍源寺と改宗し、再々興しています。
桃生郡の龍源寺が廃れていたと同時に、登米郡の元祖天台宗桁渕山柳源寺も三郡鼎足一揆と関連したものか、衰退していたようです。それが再興されるのは次の天文年間に入ってからです。
9月16日、登米太郎行賢の長男蔵人行信が没します。父の出家によって家督を継いで15年目の出来事でしたが、奸佞の士登米行賢がいつ、どのような最期を遂げたのか、史料は悉く沈黙しているのです。
男沢及川氏の系図によればこの年は、磐井郡流荘男沢鷹取館主(岩手県一関市花泉町老松)男沢及川豊後守重俊に次男信成が誕生します。母は不明。長兄重吉は後に17代太守葛西晴信の執事、「葛西真記録」では宿老となり、晴信の偏諱を受けて越後守信吉と名乗ります。
桃生郡の龍源寺が廃れていたと同時に、登米郡の元祖天台宗桁渕山柳源寺も三郡鼎足一揆と関連したものか、衰退していたようです。それが再興されるのは次の天文年間に入ってからです。
9月16日、登米太郎行賢の長男蔵人行信が没します。父の出家によって家督を継いで15年目の出来事でしたが、奸佞の士登米行賢がいつ、どのような最期を遂げたのか、史料は悉く沈黙しているのです。
男沢及川氏の系図によればこの年は、磐井郡流荘男沢鷹取館主(岩手県一関市花泉町老松)男沢及川豊後守重俊に次男信成が誕生します。母は不明。長兄重吉は後に17代太守葛西晴信の執事、「葛西真記録」では宿老となり、晴信の偏諱を受けて越後守信吉と名乗ります。
小梨西城氏の系図によればこの年は、磐井郡小梨館主(岩手県一関市千厩町小梨)小梨西城遠江守景綱が没します。享年71歳。長男兵庫助行綱こと信綱が跡を継ぎます。
新館千葉氏の系図によれば、新館千葉重高の4男で、寺崎常清の従弟にあたる左馬助重光が享年53歳で討死したとあるのですが、どのような戦争だったかははっきりしません。前年の江刺郡横瀬郷(岩手県奥州市江刺区藤里)の合戦でしょうか?それとも翌年に勃発した合戦でしょうか?長男右馬助通次が跡を継ぎ、磐井郡流荘中村郷(岩手県一関市花泉町花泉)の住人となります。
新館千葉氏の系図によれば、新館千葉重高の4男で、寺崎常清の従弟にあたる左馬助重光が享年53歳で討死したとあるのですが、どのような戦争だったかははっきりしません。前年の江刺郡横瀬郷(岩手県奥州市江刺区藤里)の合戦でしょうか?それとも翌年に勃発した合戦でしょうか?長男右馬助通次が跡を継ぎ、磐井郡流荘中村郷(岩手県一関市花泉町花泉)の住人となります。
米倉氏の系図によれば、元良郡米倉獅子が館主(気仙沼市本吉町津谷)米倉上野介尚持(重持)の次弟で元良郡大谷堀合館主(気仙沼市本吉町後田)因幡守長持に長男久持が誕生します。母は不明。
享禄4年(1531)6月4日、細川高国は京都を再び奪還しますが、堺幕府との決戦に敗れ、呆気なく自害して果てます。享年48歳。最期の地となった摂津国川辺郡大物郷(だいもつ・兵庫県尼崎市大物町)は、かの源義経が船出を試みるも、嵐で難破した場所でもあります。(第7章41参照)
裏切り者の細川尹賢もその裏切り先で仲違いを惹き起こし、7月24日、殺害されます。享年不明。因果応報でしょうか。奸佞の臣に相応しい最期と言えましょう。
6に続きます。