2014年07月

「永正合戦記」それぞれの違いは、第二次永正合戦後の山内首藤氏がどうなったかについての記述の違いに尽きます。

「永正A」は、主戦派を磐井郡日形郷に追放することで、若い当主千代若丸知貞はそのままに、しかし登米行賢の讒言によって七尾城を逐われ、呆気なく滅亡。知貞は相馬氏を頼り、かの地で没します。

「永正B」は、山内首藤知貞と家臣らは磐井郡日形郷に落ち延び、山内首藤氏はここに滅亡したと主張します。

「永正B」わけても「桃生領主山内伝」においては、山内首藤千代若丸をはじめ、江田清通主従や主戦派諸将らは、国分氏の領内に亡命し、宮城郡実沢山野内城(仙台市泉区実沢・北中山)に落ち延びます。

成長した千代若丸は刑部少輔定俊と名を改めますが、永禄年間(1558~70)に合戦で討死し、その子供達が寺崎氏を頼って磐井郡日形郷に落ち延びた、とあります。

しかし、山野内城の合戦当時の城主は須藤刑部少輔定信といい、その命日は天正12年(1584)7月4日。事情は不明ですが結城七郎なる武将と合戦となり、山野内城は落城、須藤定信は宮城郡西田中郷杭城山(仙台市泉区)に逃れます。しかしそこでも敗れ、一族郎党は自害して果てたとあります。

宮城郡須藤氏は、山内首藤氏の分家として1355年(北文和4年・南正平10年)、須藤刑部定安よりこの地を治めてきましたが、それぞれの子孫である須藤定信と山内首藤知貞とは遠い親戚であっても全くの別人であり、誤った説だと判明します。

「河北町史」は、「永正A」が主張する第三次永正合戦いわゆる登米行賢の騙し討ちは、編者首藤頼広の作為ではないだろうかと主張しています。その根拠は、一家にとって最大の事件であるのに、月日が書かれていないからだというのです。
しかし、逆に詳しく月日が示されているほうがかえって怪しいように感じますし、3回も敗けたという恥辱をわざわざ書かないようにも思われるのですが。

結論から言えば、「河北町史」が否定する第三次永正合戦は存在したとおいらは考えます。

その理由の一つに、行方郡小高(福島県南相馬市小高区)曹洞宗小高山同慶寺に「修善堂記」が遺されていたことが挙げられます。

父山内首藤貞通より継承された「修善堂記」を、知貞は所持していました。

登米行賢の讒言により、七尾城を逐われた千代若丸は、相馬氏を頼り、かの地で生涯を終えます。「修善堂記」はまさに、相馬領内の禅寺に保管され、やがて子孫である編者首藤頼広の手に渡るのです。

5に続きます。

葛西氏研究をしていて非常に痛感することは、後世の系図と同時記録が合致しないことが多い、というより、合致するほうが珍しい、ということでしょうか。

金右馬允が何者なのか、その子孫の家に伝わる系図は何も語ってくれません。同時記録と後世の系図が子孫の家に両方存在しているにも関わらず、です。

「金右馬允書状」の右馬允・虎之助父子を永正9年(1512)の金野是鹿・重鹿父子とするならば、系図から、金野豊後守是鹿は初め是国と名乗り、葛西重清の次男で後に15代太守となる葛西晴胤に仕え、大永6年(1526)冬、外交使節として上洛し、時の12代将軍足利義晴に謁見。たまたま狩猟に居合わせて鹿を射止めたことを記念して“鹿”の字を名前につけることにしたと、びっくりするような逸話を載せています。

金右馬允は“持”とサインしていますので、実名は持国か是持か、そんな名前だった可能性もあります。

結論から言えば金右馬允は助命されました。

絶望的な籠城戦の中に、もはやこれまでとばかりに所懐を手紙にしたためて、飛脚もとい、ボンドガールのいない007に託したわけですが、ここに急転直下、敵将本家江刺重任、元良春継の計らいで、使者富沢重氏と狼河原信通のネゴシエーションにより、山内首藤軍は降伏、七尾城は開城します。

会えないと覚悟した息子・虎之助との再会はいかばかりであったことでしょう。

大永6年は葛西晴胤の時代ではありませんが、外交使節を任されるまでに名誉回復が成されたのでしょう。偶然将軍の鹿狩りに同行することとなり、3頭を射止め、鹿の文字と、その鹿の角が8つに枝分かれしていたので、これを家紋に定めます。

一方で同時記録が存在しない末永能登守は後世の編纂物にあちこち顔を出していますが、これとて末永能登守の実在と存在を可能性はともかく、確実に証したことにはなりません。

佐藤正助氏によれば、末永能登守は笞打刑の処罰を受けて元良郡最知村(気仙沼市最知)に移された、と記されています。

しかしこれは、「末永系図・巻物」の能登守宗春の後継者・清継の項にある“天正末年葛西大崎没落の節、元良郡最知村にて笞身罰”を取り違えたものと見られます。もっとも、末永清継こと能登守師清は天正年間には既に没していたようですし、後述しますが葛西滅亡時には末永氏はかなりしたたかに振る舞って難を逃れたらしいので、笞打ち刑に遭ったとは考えられません。

天正ではなく永正で、3代能登守清継ではなく初代能登守宗春であると考えれば、この辻褄の合わない記述は、末永能登守宗春が永正合戦敗戦後に受けた罰と捉えることが可能です。

主が去った登米郡吉田郷(登米市米山町)には、葛西重信こと重清(14代晴重)の近臣で磐井郡小梨館主(岩手県一関市千厩町小梨)小梨西城兵庫助信綱の叔父主馬助吉重が入部したものと小梨西城氏の系図から考証されます。70余町(約70ヘクタール)の領地が与えられ、殿様からの一字も拝領したようです。

吉田郷だから吉重なのかは定かではありませんが、そうであったにしても戴き物の重の字は上に冠して重吉と名乗らないのか、という疑問は湧いて来ます。

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「金右馬允書状」がしたためられた時期を、旧志津川町の郷土史家・佐藤正助氏は第二次永正合戦が起きた永正9年(1512)であると考証されています。

それに対し、旧河北町の郷土史家・故・紫桃正隆氏は、天文22年(1553)に勃発した葛西信胤の乱であると考証されています。
また、天文5年(1536)の可能性もあり、一つ一つ検証して見ることにします。

かつて磐井郡千厩茶臼館(岩手県一関市千厩町千厩)に割拠し、現在は岩手県一関市大東町沖田字天狗田に伝わる千厩金氏の系図に依れば、永正9年(1512)存命の金野氏当主は、右馬允国定88歳、その息子豊前守国家63歳、孫の豊後守是鹿39歳、曾孫の主馬重鹿17歳。

曾孫の顔が見れた国定爺さん、果報者です。だが、話題からはずれるので外してもらって、祖父の国家も違うので、金右馬允とその息子虎之助とは是鹿と重鹿の親子なのかな、と想定されます。

39歳の中年一歩手前のアラフォーと、ギリギリ元服してるだろうな、と思われる高2の息子は、年来の望みがかなわず無念に嘆く父と、その遺品の刀を託して成長したらよろしくと知人にお願いされた息子に合致するでしょう。

金野是鹿の妹は、山内首藤氏に味方した桃生郡牛田如来館主・葛西典厩の家臣・千葉対馬守信益の妻になったと記され、磐井郡がかつて鼎一揆に同調する勢力があったことを鑑みれば、手紙の発信者を金野是鹿と見なしても何ら不都合は生じません。

桃生郡飯野川で討ち死にした金図書が何者かはわかりません。しかし、偶然にも飯野川には今野姓が多いことを紫桃正隆氏、佐藤正助氏共に主張されています。

言伝てしたい相手の掃部とは、千厩から北に程近い磐井郡猿沢柴山館主(岩手県一関市大東町猿沢倉林)及川掃部と想定されています。

その柴山館の南隣の諏訪館主が受信者でもある中津山三郎右衛門。もしかすると寺崎常清の一族なのかも知れません。寺崎氏は太守軍として参戦していましたから、三郎右衛門は常清倫重親子ではないでしょう。

3に続きます。

「年次不詳8月28日付中津山三郎右衛門宛金右馬允書状」(以下「金右馬允書状」)に曰くー

脚力に託して連絡申し上げます。輪渕、かん取、森山、女川では少なからず大勢が討死しました。籠城も今日か明日限りとの思いで戦っているところです。

弔い合戦の件(金家の行く末のこと?)、よろしくお願いいたします。虎之助のこと、今後は何とぞ貴殿にお願い申し上げます。このこと、直にお話しすればよかったのですが、それも出来ず、残念に思います。

図書も飯野川辺りで討死したらしく、心もとなくしております。後詰め応援に来る者もなく、助けが欲しいところです。

掃部殿へもよろしくお伝え願います。かねがねお話ししていました、年来の望みも空しく朽ち果ててしまい、これも運命と思って納得しております。

このようにおいとま乞いさせていただくものです。

8月28日、持(花押)

追伸、見苦しいようではありますが、この刀一腰、虎之助に渡して下さい。このこと成長後によろしくお伝え下さいますよう、お願い申し上げます。以上。

中津山三郎右衛門様へ、金右馬允より。ー



岩手県一関市大東町沖田字天狗田の金野家に系図とともに伝わる文書です。

絶望的な籠城戦のなかで、まだ年端もいかない息子のために、知人にあれこれ託し、懇願する様が幾星霜の時を経ても尚、読む者の胸を打つ内容です。また、年来の望みとは一体何なのか、これも興味をそそらせます。

輪渕とは石巻市和渕、かん取も和渕の川向かいにある旧桃生郡神取、女川は牡鹿郡ではないほうの、石巻市北上町女川を指します。

森山とは当初、葛西滅亡時に戦場となった森原山を指すものと考えられてきましたが、8月28日の日付と合致しないことや、他の3つの地名が北上川のほとりにある地名であることを考えれば、大森臥牛館を意味するものと考えられています。

脚力とは飛脚、すなわちこの手紙を中津山三郎右衛門に渡すべく、金右馬允から託された人物で、もちろん名前はわかりません。

旧志津川町の郷土史家・佐藤正助氏は、“蟻の這い出る隙間もない十重二十重の包囲陣をかい潜って、形見の刀と手紙をもって逃げのびた007の如き忍者がいたことにも限りないロマンを感じ、郷土史研究者の醍醐味を感じる”とその著書「葛西中武将録」にて記しておられます。

しかしここで厄介な問題が発生します。金右馬允とはどのような人物で、この書状はいつ、いかなる状況で書かれたものなのか、3つの異なる解釈が考えられ、しかもその3説ともそれなりに説得力がある、ということなのです。

2に続きます。

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