「永正合戦記」それぞれの違いは、第二次永正合戦後の山内首藤氏がどうなったかについての記述の違いに尽きます。
「永正A」は、主戦派を磐井郡日形郷に追放することで、若い当主千代若丸知貞はそのままに、しかし登米行賢の讒言によって七尾城を逐われ、呆気なく滅亡。知貞は相馬氏を頼り、かの地で没します。
「永正B」は、山内首藤知貞と家臣らは磐井郡日形郷に落ち延び、山内首藤氏はここに滅亡したと主張します。
「永正B」わけても「桃生領主山内伝」においては、山内首藤千代若丸をはじめ、江田清通主従や主戦派諸将らは、国分氏の領内に亡命し、宮城郡実沢山野内城(仙台市泉区実沢・北中山)に落ち延びます。
成長した千代若丸は刑部少輔定俊と名を改めますが、永禄年間(1558~70)に合戦で討死し、その子供達が寺崎氏を頼って磐井郡日形郷に落ち延びた、とあります。
しかし、山野内城の合戦当時の城主は須藤刑部少輔定信といい、その命日は天正12年(1584)7月4日。事情は不明ですが結城七郎なる武将と合戦となり、山野内城は落城、須藤定信は宮城郡西田中郷杭城山(仙台市泉区)に逃れます。しかしそこでも敗れ、一族郎党は自害して果てたとあります。
宮城郡須藤氏は、山内首藤氏の分家として1355年(北文和4年・南正平10年)、須藤刑部定安よりこの地を治めてきましたが、それぞれの子孫である須藤定信と山内首藤知貞とは遠い親戚であっても全くの別人であり、誤った説だと判明します。
「河北町史」は、「永正A」が主張する第三次永正合戦いわゆる登米行賢の騙し討ちは、編者首藤頼広の作為ではないだろうかと主張しています。その根拠は、一家にとって最大の事件であるのに、月日が書かれていないからだというのです。
しかし、逆に詳しく月日が示されているほうがかえって怪しいように感じますし、3回も敗けたという恥辱をわざわざ書かないようにも思われるのですが。
結論から言えば、「河北町史」が否定する第三次永正合戦は存在したとおいらは考えます。
その理由の一つに、行方郡小高(福島県南相馬市小高区)曹洞宗小高山同慶寺に「修善堂記」が遺されていたことが挙げられます。
父山内首藤貞通より継承された「修善堂記」を、知貞は所持していました。
登米行賢の讒言により、七尾城を逐われた千代若丸は、相馬氏を頼り、かの地で生涯を終えます。「修善堂記」はまさに、相馬領内の禅寺に保管され、やがて子孫である編者首藤頼広の手に渡るのです。
5に続きます。
「永正A」は、主戦派を磐井郡日形郷に追放することで、若い当主千代若丸知貞はそのままに、しかし登米行賢の讒言によって七尾城を逐われ、呆気なく滅亡。知貞は相馬氏を頼り、かの地で没します。
「永正B」は、山内首藤知貞と家臣らは磐井郡日形郷に落ち延び、山内首藤氏はここに滅亡したと主張します。
「永正B」わけても「桃生領主山内伝」においては、山内首藤千代若丸をはじめ、江田清通主従や主戦派諸将らは、国分氏の領内に亡命し、宮城郡実沢山野内城(仙台市泉区実沢・北中山)に落ち延びます。
成長した千代若丸は刑部少輔定俊と名を改めますが、永禄年間(1558~70)に合戦で討死し、その子供達が寺崎氏を頼って磐井郡日形郷に落ち延びた、とあります。
しかし、山野内城の合戦当時の城主は須藤刑部少輔定信といい、その命日は天正12年(1584)7月4日。事情は不明ですが結城七郎なる武将と合戦となり、山野内城は落城、須藤定信は宮城郡西田中郷杭城山(仙台市泉区)に逃れます。しかしそこでも敗れ、一族郎党は自害して果てたとあります。
宮城郡須藤氏は、山内首藤氏の分家として1355年(北文和4年・南正平10年)、須藤刑部定安よりこの地を治めてきましたが、それぞれの子孫である須藤定信と山内首藤知貞とは遠い親戚であっても全くの別人であり、誤った説だと判明します。
「河北町史」は、「永正A」が主張する第三次永正合戦いわゆる登米行賢の騙し討ちは、編者首藤頼広の作為ではないだろうかと主張しています。その根拠は、一家にとって最大の事件であるのに、月日が書かれていないからだというのです。
しかし、逆に詳しく月日が示されているほうがかえって怪しいように感じますし、3回も敗けたという恥辱をわざわざ書かないようにも思われるのですが。
結論から言えば、「河北町史」が否定する第三次永正合戦は存在したとおいらは考えます。
その理由の一つに、行方郡小高(福島県南相馬市小高区)曹洞宗小高山同慶寺に「修善堂記」が遺されていたことが挙げられます。
父山内首藤貞通より継承された「修善堂記」を、知貞は所持していました。
登米行賢の讒言により、七尾城を逐われた千代若丸は、相馬氏を頼り、かの地で生涯を終えます。「修善堂記」はまさに、相馬領内の禅寺に保管され、やがて子孫である編者首藤頼広の手に渡るのです。
5に続きます。