2014年03月

後でまた述べますが、「修善堂記」は子孫の首藤頼広の手に入り、畢生の大著「首藤氏系譜」の種本の一つとなります。

「首藤氏系譜」には桃生郡山内首藤氏の実質的先祖となった経通以来の当主名が並ぶのですが、経通の子・成通はともかく、隆知、秀知、秀章、忠清、矩清と、頼通に至る迄の当主名が山内首藤家の通字である「通」が冠されておらず、本当にこの通りの名前なのか、実に怪しいのです。

頼広の伜・首藤知平は、そんな父の解釈に異議あったらしく、自ら編纂した「首藤先祖之事聞伝并考之覚」には、諱は不明である、と記していますが、かの頼通をも不明の範疇に入れていますので、こちらも正確とは言えません。

いずれにしましても、「修善堂記」の原本が存在していれば問題は一気に解決するのですが、残念ながら原本は今に残っていません。

「中舘系図」によれば永正8年(1511)、元良郡朝日館主(本吉郡南三陸町志津川)元良播磨守春継の次男で、朝日館内の中舘に居住し、中舘常陸介と名乗り、更に元良郡牧ノ内館主(南三陸町歌津伊里前)となっていた信常に長男信家が誕生します。母は河島蔵人安宗の娘。河島安宗については不明。

ー永正9年(1512)、清通らが千代若丸に勧めて言うには、貞通とうちゃんは去年籠城したさい、食べ物が無くなって、葛西氏にご先祖からの土地を分けて降参し、家臣になった。もしこのままでい続けたなら、本当に葛西の家来にされてしまう。今、葛西氏は無暴な政治で家臣や民の忠誠心は低くなっている。ここで挙兵して領地を取り返し、防御を固め、軍勢を集め、国境を守れば、山内首藤家が盛り返すのは容易なことだ。ー

江田清通の千代若丸への進言は、評定の席で改まって語ったというよりは、普段から話し合い、準備を進めてきたものでしょうか。

ー千代若丸は清通の進言をその通りだと納得したので、清通は秘かに登米太郎行賢(登米郡登米城主)と連絡を取り合った。行賢と千代若丸とは義理の伯父と甥の間柄にある。これら叔父二人の策動に、千代若丸は反対せず、受諾した。ー

旧桃生町教育委員会は千代若丸が清通の進言を受諾したその理由を、若年で年長者に逆らえないからだ、としています。その管轄下にワルで荒れた中学があったにも関わらずそんな学説が出て来ようとはって、おっとっと!毒舌が過ぎたわい。

むしろ若年の自分に成り代わって父の無念を晴らし、山内首藤の屋台骨をもう一度立て直して欲しいという積極的な願望があったと見てもいいのではないでしょうか。

6に続きます。

“鎌倉の、山の内こそこいしけれ、今は行くべき俊通もなし”

「桃生領主山内伝」に記される、山内首藤氏家督を追放された山内首藤貞通の歌ですが、これ本当に貞通の作品なのかな~とおいらは疑ってます。

発祥の地・鎌倉山内に行きたいけれど、そんな時間(とし)も余裕(みち)もない様を、先祖の山内首藤俊通の名前に掛けた歌ですが、これから高野山に登る途中通るとは言え、偲ぶいとまも無く、落魄の身では恥ずかしくて顔向け出来ない辛さはいかばかりでしょうか。

ともあれ、東日本超巨大地震のちょうど500年前、山内首藤貞通が出家して高野山に登る時、後継者の長男千代若丸は、奇しくも安倍合戦敗戦時における安倍貞任の長男千代童子と同い年の13歳。

山内首藤氏の隆盛期に生を享け、その栄耀と、果てしない戦いの中に多感な少年時代を過ごした千代若丸は、どのような人格を形成していたのでしょうか。
何不自由なくボンボンに育てられたのか、はたまた乱世に鍛えられながら逞しく育っていったのか、非常に気になるところですが、史料は一切沈黙しています。

いずれにしましても、永遠の別れを告げて旅立つ父を、中学一年の千代若丸はどのように見ていたのでしょうか。

ちなみに安倍貞任の長男千代童子は官軍の捕虜となり、その眉目秀麗な少年武者ぶりに、源頼義は命は奪うまいとしましたが、同盟者の清原武則の、後々禍根を残してはならないとの意見にほだされ、次男義綱の諌めも虚しく、斬首されてしまいます。

「陸奥話記」の唐突とも思える源義綱の登場に違和感を覚えたか、高橋克彦氏の小説「炎立つ」では、長男源義家の発言ということにしています。

清原武則の戦後処理に関する進言は決して間違ってはいないのですが、余りにも非東北人的な冷徹無惨な判断は、後々の出羽清原氏に対する不人気へと繋がっていきます。

首藤頼広編纂「首藤氏系譜・代々系脈図・知貞条」に曰く。

ー後柏原院の永正8年(1511)10月に父の貞通が遁世した時、千代若丸は13歳。家督を譲られ、受け嗣いで七尾城に住んだ。江田清通と福地頼重が補佐役に就いた。ー

父貞通から家督を継いだ山内首藤千代若丸はその際、累代の家宝やら様々な文物、権力等を相続したものと思われますが、その中に千代若丸の祖父義通が曾祖父頼通27回忌にあたる文亀2年(1502)1月20日、先祖9代を祀る礼拝堂の落慶に際して編纂された「修善堂記」も含まれていて、千代若丸は生涯この書物を手放さなかったようです。

5に続きます。

登米義賢の嫡男として、登米郡保呂羽城(登米市登米町)に誕生し、幼名を右源太、通称を太郎、官職名を越前守と称した登米行賢。

「永正合戦記」でも太郎の通り名で記されていますので、登米太郎行賢で記述したいと思います。

登米郡保呂羽城は、登米郡入部以降の葛西太守家が、平時の治府として使う寺池城に対して、有事の際に使う要塞として認識されていたようです。

保呂羽城が元々登米氏の本拠であったかどうかはわかりませんが、登米郡鼬沢の合戦で葛西氏の軍門に降った登米氏は、葛西氏の有事の城を管理する役目を担っていたのでしょうか。

一説に山内首藤氏の分家・小野寺氏の更に分家に当たる登米氏の当主・太郎行賢は、遠縁の山内首藤義通の娘を妻に迎え、貞通、義利、清通の山内首藤三兄弟とは義兄弟の関係にありました。

末永能登守と山内首藤貞通を結び付けたのは案外この男なのかも知れません。であれば末永能登守の本拠地は「永正B」が主張する牡鹿郡ではなく、登米郡だったと考えるのが妥当です。

それにしても登米太郎行賢は第一次永正合戦の際はどこで何をしていたのでしょうか?というより登米郡の武将達は山内首藤貞通の後詰めに何故現れなかったのでしょうか?
それとも江刺、薄衣、気仙郡の軍勢が南下する際に何らかの衝突抵抗を試みながらも、跳ね返されたのでしょうか?

落城前夜の山内首藤氏はその後の身の振り方について紛糾したようです。それは葛西太守宗清に降伏を願い出ることよりも、再び宗清に戦いをどうやって仕掛けるかという軍議ではなかったでしょうか。

山内首藤氏は翌年には葛西太守宗清に対し、再び宣戦布告していますので、和議が結ばれた時点で、来年までに戦う意志でいたことは間違いありません。

そうおいらが考える根拠の一つに、江田清通が出家しなかった事実が挙げられます。

桃生郡中島館主・江田七郎清通は、平生武略に通じ、と絶賛されるだけあって、太守軍への夜襲など、実戦では大活躍しました。おいらが宗清だったら、清通も出家するよう強制しますね。
しかし、清通が出家しなかったのは、再戦の切り札として山内首藤氏側が温存したのではないでしょうか。

葛西太守軍には表向き“夜襲でさんざん太守軍を手こずらせたのは次男の義利でして、清通はぼんくらで後見人の役にしか立ちませんから”と嘯いて義利が清通の身代わりとなって出家したとすれば?あくまで想像ですけど、そんな策略で葛西再戦の秘蔵っ子がほぼ現役の総大将として山内首藤氏を采配出来るのです。

4に続きます。

有名な追波川の芦原は近代に入ってからの名物ですが、当時としても芦原は河岸にあまねく拡がっていたことでしょう。川の手を皿貝と呼び、山の手を大嶺と呼んでいたものが、いつしか皿貝で一括されたのでしょう。

皿貝にはイラン人を彷彿とさせる頭蓋骨が発掘されたこともあり、山内首藤領、河北町ではわけても奥が深い地域と言えるでしょう。

気仙郡司金氏の血を引く生出という名前も珍しい名前ですが、隣村の桃生郡馬鞍の天野氏とも同族と言われています。ヲイデはヲトないしヲドの訛りでもあり、生出、小鋭、大土、烏兎等と記された山は仙台市太白区の由来にもなった太白山の旧名生出森はじめ各地に見られ、例外なくピラミッドを彷彿とさせる円錐形をしています。勿論鉄も採れたでしょう。

明応・永正の戦乱において御家の興亡を賭けた戦いを繰り広げた山内首藤氏と葛西氏ですが、元々両者は協調関係にありました。応永9年(1402)、登米郡鼬沢の合戦では葛西氏に山内首藤氏が加勢していましたし、五郡一揆結成のメンバーに両者とも加盟していました。「薄衣状」にも山内首藤氏が葛西太守に応援を出していたことが記されています。意外にも両者が対立したという記述を見つけることは非常に困難なのです。

伊達家からの養子・葛西宗清にとって山内首藤氏は、目の上のたんこぶか、喉に刺さった魚の小骨のように見えたようで、山内首藤知貞が産まれた当時の山内首藤氏は、葛西氏と何らかの対立を生じていたものか、葛西太守宗清に謀叛を企てながらしくじった末永能登守の“内助”要請に際して、戦国時代の遠い親戚・山内一豊の妻・千代よろしく許諾し、葛西宗清との全面対決に挑みます。

鎌倉幕府を壟断し、誅殺された奸佞の臣の血筋を引き、図らずも謀叛人になった祖父の事蹟に倣いながら、奇抜なパフォーマンスで祖父を超越した叛逆者となった末永能登守は、それ故に何が何でも生きて生き抜く必要性に自ずと迫られ、与同者を募り、立場は違うが、地域と利害が一致する三者を結び付け、一揆を形成します。

その中で末永能登守の弟筑後守は大森館主として登用され、山内首藤氏は否応なしに葛西氏との対決に突入するのです。

こうした末永兄弟と山内首藤氏との内助関係は、末永能登守独自の人脈コネクションなのかも知れませんが、ブローカーのような存在が間に立っていたことが示唆されています。

その人物の名前を、登米太郎行賢といいました。

3に続きます。

末永能登守の乱が勃発し、宮城県北の世相が俄に騒然となりつつあった明応8年(1499)、山内首藤知貞は刑部大輔貞通の長男として、桃生郡七尾城で誕生しました。その子供には、彼の末裔をして安倍貞任に例えられた父に、貞任の子千世童子を恰も想起させる千代若丸という幼名が、奇しくも与えられました。

第十七章1にも記しましたが、知貞の母親、貞通の妻となった女性は、桃生郡中津山館主(石巻市桃生町中津山)にして磐井郡峠苅明館主(岩手県一関市花泉町老松)中津山刑部大輔こと寺崎下野守常清の娘であり、寺崎常清の娘は他に二人、とんでもない所に嫁いでいます。葛西宗清の息子(後述)と、宗清の権臣・元良播磨守春継です。これだけ豪華な閨閥を築けたならば、永正合戦がどちらに転んでも寺崎常清にとっては安泰だったことでしょう。

知貞が産まれた当時の山内首藤氏は、世系最大の隆盛期にあったと見られ、交易と資源の辻に君臨する頭領、元締めでした。

こと山内首藤氏は製鉄産業を手厚く保護しました。山内首藤氏一族が製鉄技術者集団だったという伝承さえ生まれた程です。

知貞の大叔父左馬助頼重の本拠地・桃生郡福地は、福地水軍の本拠地であると同時に、物部氏の武器の神を祀る延喜式内社・賀茂小鋭神社を擁する一大製鉄地帯でした。ヲトの名は製鉄にちなむ名前です。

また、桃生郡皿貝には、応永年間(1394~1428)、気仙郡生出山(陸前高田市、住田町)の金弥五郎なる人物が山内首藤氏の招聘を受けて桃生郡大嶺村(石巻市皿貝北部)に450石を与えられて移住。その名も生出土佐守正頼と改めています。

皿貝とは奇妙な地名ですが、貝を皿の代わりに、精製された砂鉄を盛ったからとの説話が伝えられていますが、これは牽強附会で、アイヌ語で“芦が生える土地”を意味する“サル・カ・ウシ”の当て字ではないでしょうか。

2に続きます。

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