後でまた述べますが、「修善堂記」は子孫の首藤頼広の手に入り、畢生の大著「首藤氏系譜」の種本の一つとなります。
「首藤氏系譜」には桃生郡山内首藤氏の実質的先祖となった経通以来の当主名が並ぶのですが、経通の子・成通はともかく、隆知、秀知、秀章、忠清、矩清と、頼通に至る迄の当主名が山内首藤家の通字である「通」が冠されておらず、本当にこの通りの名前なのか、実に怪しいのです。
頼広の伜・首藤知平は、そんな父の解釈に異議あったらしく、自ら編纂した「首藤先祖之事聞伝并考之覚」には、諱は不明である、と記していますが、かの頼通をも不明の範疇に入れていますので、こちらも正確とは言えません。
いずれにしましても、「修善堂記」の原本が存在していれば問題は一気に解決するのですが、残念ながら原本は今に残っていません。
「首藤氏系譜」には桃生郡山内首藤氏の実質的先祖となった経通以来の当主名が並ぶのですが、経通の子・成通はともかく、隆知、秀知、秀章、忠清、矩清と、頼通に至る迄の当主名が山内首藤家の通字である「通」が冠されておらず、本当にこの通りの名前なのか、実に怪しいのです。
頼広の伜・首藤知平は、そんな父の解釈に異議あったらしく、自ら編纂した「首藤先祖之事聞伝并考之覚」には、諱は不明である、と記していますが、かの頼通をも不明の範疇に入れていますので、こちらも正確とは言えません。
いずれにしましても、「修善堂記」の原本が存在していれば問題は一気に解決するのですが、残念ながら原本は今に残っていません。
「中舘系図」によれば永正8年(1511)、元良郡朝日館主(本吉郡南三陸町志津川)元良播磨守春継の次男で、朝日館内の中舘に居住し、中舘常陸介と名乗り、更に元良郡牧ノ内館主(南三陸町歌津伊里前)となっていた信常に長男信家が誕生します。母は河島蔵人安宗の娘。河島安宗については不明。
ー永正9年(1512)、清通らが千代若丸に勧めて言うには、貞通とうちゃんは去年籠城したさい、食べ物が無くなって、葛西氏にご先祖からの土地を分けて降参し、家臣になった。もしこのままでい続けたなら、本当に葛西の家来にされてしまう。今、葛西氏は無暴な政治で家臣や民の忠誠心は低くなっている。ここで挙兵して領地を取り返し、防御を固め、軍勢を集め、国境を守れば、山内首藤家が盛り返すのは容易なことだ。ー
江田清通の千代若丸への進言は、評定の席で改まって語ったというよりは、普段から話し合い、準備を進めてきたものでしょうか。
ー千代若丸は清通の進言をその通りだと納得したので、清通は秘かに登米太郎行賢(登米郡登米城主)と連絡を取り合った。行賢と千代若丸とは義理の伯父と甥の間柄にある。これら叔父二人の策動に、千代若丸は反対せず、受諾した。ー
旧桃生町教育委員会は千代若丸が清通の進言を受諾したその理由を、若年で年長者に逆らえないからだ、としています。その管轄下にワルで荒れた中学があったにも関わらずそんな学説が出て来ようとはって、おっとっと!毒舌が過ぎたわい。
むしろ若年の自分に成り代わって父の無念を晴らし、山内首藤の屋台骨をもう一度立て直して欲しいという積極的な願望があったと見てもいいのではないでしょうか。
6に続きます。
ー永正9年(1512)、清通らが千代若丸に勧めて言うには、貞通とうちゃんは去年籠城したさい、食べ物が無くなって、葛西氏にご先祖からの土地を分けて降参し、家臣になった。もしこのままでい続けたなら、本当に葛西の家来にされてしまう。今、葛西氏は無暴な政治で家臣や民の忠誠心は低くなっている。ここで挙兵して領地を取り返し、防御を固め、軍勢を集め、国境を守れば、山内首藤家が盛り返すのは容易なことだ。ー
江田清通の千代若丸への進言は、評定の席で改まって語ったというよりは、普段から話し合い、準備を進めてきたものでしょうか。
ー千代若丸は清通の進言をその通りだと納得したので、清通は秘かに登米太郎行賢(登米郡登米城主)と連絡を取り合った。行賢と千代若丸とは義理の伯父と甥の間柄にある。これら叔父二人の策動に、千代若丸は反対せず、受諾した。ー
旧桃生町教育委員会は千代若丸が清通の進言を受諾したその理由を、若年で年長者に逆らえないからだ、としています。その管轄下にワルで荒れた中学があったにも関わらずそんな学説が出て来ようとはって、おっとっと!毒舌が過ぎたわい。
むしろ若年の自分に成り代わって父の無念を晴らし、山内首藤の屋台骨をもう一度立て直して欲しいという積極的な願望があったと見てもいいのではないでしょうか。
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