2013年10月

永正元年(1504)8月、磐井郡小梨上館主(岩手県一関市千厩町)西城遠江守景綱の長男行綱が、13代惣梁葛西政信に近侍し、一字拝領して信綱と改名しています。 


9月9日、出羽国最上郡山形城主(山形県山形市)8代羽州探題最上左衛門佐義淳が没します。享年不明。長男修理大夫義定が9代羽州探題を継ぎます。

本家松川氏、鳥畑氏の系図によれば、磐井郡松川外館主(岩手県一関市東山町松川)本家松川越中守信胤の3男弾正忠胤持に長男胤堅が誕生します。母は千葉八郎左衛門尉胤長の娘。
千田兵庫助重篤の祖母が千葉主馬助胤長の娘、大窪佐々木信濃守泰綱の妻が千葉宮内少輔胤長の娘とありますがいずれも時代が合わず、不明。

田茂山佐々木氏の系図によれば、気仙郡田茂山館主(岩手県大船渡市盛町)田茂山佐々木信濃守泰綱の4男周防守基綱に長男長綱が誕生します。母は13代惣梁政信の娘。

この時期、13代正太守葛西惣梁政信は、消える前に一瞬だけ燃え盛る蝋燭の炎のように、あちこちで活躍しているのがわかります

すなわち、合戦崎首藤通貞や福地首藤俊兼への加増、佐藤信孝に至っては山内首藤氏のお膝元に所領を賜っている点は尋常な話ではありません。

この葛西政信が葛西宗清ないし重清に比定される可能性は低いでしょう。くだんの地域とその住人は、一揆でもって葛西宗清と干戈を交える関係にあったわけですから、禄を貰える道理はありません。 

と言うことはこの時期、佐沼城主であった葛西惣梁政信は、遂に葛西屋形宗清と対立し、三郡鼎足一揆の盟主として、末永能登守はいざ知らず、登米行賢や山内首藤貞通らに担ぎ上げられていたのではないでしょうか。

末永能登守にとって祖父方、祖母方双方の伯父に当たる葛西政信と、どのような関係にあったかを示す物は何一つ遺されていません。血筋が近いから仲が良いとは限らないことは、薄衣美濃入道が義弟常盛に造反され、葛西政信自身も甥の尚信を毒殺していることから見ても明らかです。

永正2年(1505)8月、志田郡松山郷(大崎市松山)で大崎義兼と遠藤盛行が合戦となっています。

会津郡(福島県)の芦名氏では、1500年代に入り、三橋氏など家臣らの反乱に悩まされていましたが、8月、父刑部丞盛高と長男遠江守盛滋との骨肉の争いが発生し、芦名四天の宿老でも佐瀬氏と富田氏が父方に加担して白河口(南会津郡下郷町?)で、筆頭・松本勘解由宗輔と源三(不明)が長男側に与同して耶麻郡綱取館(福島県北塩原村)を本拠にします。

見かねた白河郡白河城主(福島県白河市)白河結城宮内少輔顕頼が和議を斡旋しますが、不成立に終わります。

10月、父盛高と長男盛滋は耶麻郡塩川郷(福島県喜多方市塩川町)で激突しますが、不利となった盛滋は伊達尚宗を頼り、出羽国置賜郡長井荘(山形県)に出奔。

かつて父成宗と抗争し、芦名盛高を頼って出奔した尚宗が、今度は出奔した先の親子喧嘩を受け入れることになろうとは、何とも皮肉な巡り合わせですが、伊達尚宗は助力を求めて来た芦名盛滋にかつての自分を重ねたか、それとも芦名氏の内戦に介入してライバルの弱体化を狙ったか、盛滋を支援しています。

黒沢氏の系図によれば11月10日、磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢隠岐守信盛が没します。享年71歳。家督を譲った長男豊前守忠光は父に先立ち早世していたため、次男越中守信理が家督を継いでいます。
また、信理の長男隠岐守信統(越中守信資)に長男信定(信寛)が誕生しています。母は先妻千田主計重茂の娘。

千田重茂とは、磐井郡砂子田館主(岩手県一関市藤沢町)千田兵庫助重篤のことでしょうか。
信盛が曾孫の顔を見ながら没したかどうかは定かではありません。

この年は、山内首藤刑部少輔義通が没します。家督、隠退と都合30年余り、60代くらいでしょうか。名実共に山内首藤氏の最盛期を作り上げた当主が、最期に見た葛西宗清との衝突をどのように感じていたのか気になるところです。

6に続きます。

大籠首藤氏の系図によれば永正元年、まだ改元前なので文亀4年(1504)1月11日、寺崎刑部少輔常清の義理の甥で、桃生郡合戦崎館主(石巻市桃生町樫崎)合戦崎首藤相模守通貞は、13代惣梁葛西政信より、忠節抜きん出たとして磐井郡大籠郷(岩手県一関市藤沢町)2000苅(2町=約2ヘクタール)を宛がわれ、かの地に移動したと記されます。

山内首藤刑部大輔貞通に似せたような名前の合戦崎首藤通貞の次妹は、深堀新左衛門に嫁いだと大籠首藤氏の系図に記されています。深堀新左衛門とは小野寺東三郎通春を殺害した深堀重次のことと思われ、13代惣梁政信への忠勤というよりは、この事件の何らかの影響で大籠に移動した可能性があります。

なお、改元後の元号から、この文書は後世の写本と考えられます。

大籠首藤通貞の移動に関連したものでしょうか、2月4日、磐井郡狼窪館主(岩手県一関市室根町折壁)遠藤刑部丞時秀が上折壁伊賀守秀輔と合戦となり、流れ矢に当り、命を落としています。享年52歳。長男丹後守兼秀が跡を継ぎます。

上折壁氏の系譜ははっきり解明されていませんが、時秀の父と思われる時房の妻が上折壁中務丞秀時の娘とされています。

この合戦に絡んだか、2月、山内首藤刑部大輔貞通の叔父福地首藤左馬助頼重の次男周防守俊兼は、13代惣梁政信に仕えたことにより、磐井郡黄海約100町(約100ヘクタール)を与えられ、また、登米郡弥勒寺館主(登米市中田町上沼)佐藤信敏の3男新四郎信孝は、葛西政信に近侍したことにより、桃生郡中野郷(石巻市)に70貫の土地を与えられています。

2月30日、元号は永正と改元されます。

永正年間(1504~21)の始め、薄衣美濃入道と共に薄衣江刺の内乱を戦った元祖江刺美濃守隆見が没します。享年不明。息子と見られる左衛門督重見が跡を継ぎます。

5月、肥後国の名族菊池氏の分家・菊池蔵人武恒(?~1516)が葛西氏に仕官し、葛西重信はこれを本家江刺兵庫頭の家臣とし、江刺郡角掛郷(岩手県奥州市江刺区)、遠島桃浦浜(石巻市)に所領を与えています。

葛西重信とは、宗清の養嗣子重清の江刺氏時代の前名。重清は仕官を求めて来た菊池武恒を実家の兵庫頭、恐らくは長兄重任に預けています。

7月21日、気仙郡矢作郷(岩手県陸前高田市矢作町)で、磐井郡大原山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原刑部信明と、気仙郡高田館主(岩手県陸前高田市米崎町松峰)浜田安芸守基継が合戦となり、大原信明の家臣熊谷加賀守直恒が弓矢や投石によって戦功を挙げ、葛西重信から加増を受けています。

「薄衣状」に伯耆守として登場する大原信明と、西舘重信の4男で浜田氏に養子入りした基継がどのようないきさつで紛争に至ったか、そして家臣同士のいざこざに葛西太守がどのように関わったのかはわかりませんが、凱歌の上がった大原氏の家臣に、葛西重清は領地を褒美に与えています。

ともあれこの2つの出来事から、既に葛西重清が太守として采配を振るっている様子が見て取れます。

5に続きます。

福地首藤氏の系図によれば文亀2年(1502)、桃生郡横川釣ノ尾館主(石巻市福地字横川)須藤周防守通俊が没します。享年73歳。実子無く、桃生郡福地館山館主(石巻市福地)福地首藤将監俊長こと福地左馬助頼重の次男で養嗣子の周防守俊兼が跡を継ぎます。
また、その俊兼に長男信俊が誕生します。母は中野大学頭信友の娘。中野信友については不明。

「源姓大衡氏譜・族譜」によれば、信夫郡飯坂郷(福島県福島市)の伊達家臣飯坂弾正清宗の長男で後に黒川氏5代当主宮内大輔氏矩の養嗣子となる下総守景氏に長男稙国が誕生します。母は出羽国最上郡山形城主(山形県山形市)8代羽州探題最上左衛門佐義淳の娘。

葛西氏史に燦然と輝く名物男・薄衣経蓮入道こと薄衣美濃守清胤が没します。享年67歳。

この人物が遺した文物、血筋が後世に与えた影響は、1499年産まれの子供達の背景を見てもわかる通り、薄衣一族から葛西氏研究家に至るまで、絶大の一語に尽きました。紆余曲折、虚々実々の人生でしたが、晩年には曾孫の顔も見れたみたいだし。

どちらかというと、誤解と混乱のほうが大きなウェイトを占めていましたが、案外この男、油断ならない曲者だったように感じるのは偏見でしょうか。

曲者と言えば、細川勝元に矢を放って地元出羽国雄勝郡稲庭郷(秋田県湯沢市稲庭町)を追っ払われたと称した磐井郡流荘石畑館主(岩手県一関市花泉町日形)石畑小野寺四郎左衛門尉秀家。この子孫と、磐井郡深堀館主(岩手県一関市藤沢町黄海)深堀氏の北上川を挟んでの争いは、喧嘩をきっかけに始まりました。

文亀3年(1503)3月15日、石畑小野寺秀家の嫡孫肥後守充興の3弟東三郎通春は、深堀左衛門と口論となり、殺害されます。享年21歳。

この事件に際し、兄充興がどう対応したかはわかりませんが、この時の怨恨は10年後に爆発することになります。

南部氏の系図によれば5月24日、糠部郡三戸城主(青森県三戸郡三戸町)南部氏21代当主修理大夫信義が没します。享年42歳。長兄右馬頭政康が22代当主を継ぎます。

7月、会津郡(福島県)の芦名盛高の家臣三橋氏が、伊達尚宗の教唆で挙兵します。芦名盛高は義理の甥で、かつて父成宗に逐われて匿った伊達尚宗を攻撃するため、安達郡本宮郷(福島県本宮市)に出陣し、尚宗は越後守護上杉房能(1458~1507)に援軍を依頼します。

しかし、この時の手紙の書き方が傲岸不遜だったため、越後上杉房能は伊達尚宗に対し、無礼な奴だと怒っています。

もちろん、この爆笑(?)エピソードは「伊達正統世次考」には一切記されてはいません。仙台藩伊達氏から給料貰っているサラリーマン御用学者が雇い主の先祖を悪し様に書ける筈もありません。

黒沢氏の系図によればこの年は、磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢豊前守忠光が、隠居した父隠岐守信盛に先立ち早世します。享年49歳。実子無く、次弟越中守信理が跡を継ぎます。

4に続きます。

薄衣美濃入道と大崎義兼の策謀で元祖松川氏の領地に捩じ込まれた磐井郡長谷市館主(岩手県一関市川崎町門崎字波瀬市)波瀬市千葉下総守良親の次男良平。母は大崎家臣で栗原郡高清水館主(栗原市高清水)石川越前守の妹。

最後は、実父が薄衣美濃入道の異母弟江刺重親で、葛西宗清の後継者として養子入りした葛西重清の3男直信。直信は後に佐沼鹿ヶ城の城主となります。

佐沼直信の母親は黒川氏初代当主治部大輔氏直の次女であることが葛西黒川双方の家系図から判明するのですが、1471年に68歳で没した人物の次女って…?その後に産まれたとされる相川直泰は西暦1454年産まれなので、父親は氏直の長男氏基か、その4弟顕氏かと思われます。特に顕氏の母親は葛西持信の娘とありますから、可能性は高いかもしれません。

このことがきっかけになったのでしょうか、これ以後の葛西氏当主は黒川氏より頻繁に妻を迎えています。

一方で小梨西城氏の系図によれば明応8年(1499)3月7日、磐井郡小梨館主(岩手県一関市千厩町小梨)小梨西城遠江守広綱が没します。享年69歳。長男遠江守景綱が跡を継ぎます。

西日本が超巨大地震に喘いでいたころ、葛西領内では雪が溶けて新芽が芽吹くように、次なる世代、新たなる胎動が萌芽しつつありました。

そのような環境の中で、末永能登守は右手に刃、左手に毒を持って反骨気鋭の戦いを挑んだ…などと表現するのは些か書き過ぎでしょうか。

明応9年(1500)8月11日、葛西惣梁政信の長男信高が39歳の若さで没します。

死因は不明ですが、ひょっとすると、三郡鼎足一揆に絡んでの戦死だったのかもしれません。

「源姓大衡氏譜・族譜」によれば11月9日、葛西重清の義父と思われる黒川氏3代当主美濃守顕氏が没します。享年65歳。長男美濃守氏房が4代当主を継ぎますが、何と伊達尚宗の軍門に降ってしまいます。
大崎氏の衛星国であった黒川氏が伊達氏の幕下に入ったことにより、伊達氏の勢力範囲は黒川郡にまで及ぶことになります。

浜田氏の系図によれば、気仙郡高田館主(岩手県陸前高田市米崎町)浜田遠江守信継が没します。享年不明。養嗣子で西舘重信4男安芸守基継が跡を継ぎます。

この年は、会津郡黒川城主(福島県会津若松市)芦名刑部丞盛高が、芦名四天の宿老筆頭・松本対馬守輔政を粛清します。これで長男豊前守行輔、次男備前守輔豊、4男藤右衛門輔忠の4兄弟全て亡き者にされたことになります。なお、輔豊の息子勘解由宗輔は降伏を認められます。

明応10年(1501)2月29日、元号は文亀と改元されます。

11月20日、山内首藤貞通の父で既に隠居し、入道の身であった義通は、曹洞宗花輪山天星寺住職海雲に、亡父頼通27回忌法要を2ヶ月早めて執り行っています。
法要を早めた理由は、先祖9代を祀る修善堂を七尾城西館に建設し、その落慶法要を亡父の27回忌命日に当たる翌文亀2年(1502)1月20日に執行するためで、その記録を曹洞宗両峯山梅渓寺住職極浦に依頼しています。

南部氏の系図によれば12月3日、糠部郡三戸城主(青森県三戸町)南部氏20代当主左衛門佐信時が没します。享年60歳。次男修理大夫信義が21代当主を継ぎます。

佐々木系小梨西城氏の系図によればこの年は、寺池城にて葛西太守に、この時は惣梁政信でしょうが、近侍していた西城左京亮盛長が、磐井郡東山小梨郷(岩手県一関市千厩町小梨)150貫の知行地を与えられ、小梨上館主となります。
政信の5番目の大叔父信親が小梨郷の領主であり、その死後空白地か太守直轄となっていたものが西城氏に与えられたものでしょうか。
妻は大原大膳の娘とあり、大原氏の系図には該当する名前がありませんが、磐井郡山吹館主(岩手県一関市大東町大原)大原肥前守広忠の可能性があります。

3に続きます。

「伊達正統世次考・氏宗条」に曰くー

寛正年中(正しくは永正)桃生郡深谷保主・長江某(尚景)来たりて我が旗下に属さんことを請う。嘗て桃生郡北方及び登米、一揆を約し、鼎三足連合の如し。其の家を保つに、連年葛西大崎に攻められ、しばしば戦うに利あらず、自立は難しいとナリ。ー



この記事は、永正7年(1510)3月に、三郡鼎足一揆の一角、長江氏が降伏した史実が、どうしたわけか、ちょうど100年前の人物の伝記に数十年前の元号で記されるという、はっきり言って伊達氏が他氏について如何にいい加減に扱っているかを堂々と示す部分です。

末永能登守が叛乱を起こした明応8年(1499)は、興味深いオメデタが何件もあった年でもありました。

まず山内首藤貞通に長男知貞が誕生します。知貞の母は寺崎下野守正次の娘と「永正B」に記されますが、寺崎氏の系図には寺崎下野守とは倫重であり、下野守正次とは下野守政継こと信継(1551~91)と記されるのですが、倫重にしても政継にしても山内首藤知貞の外祖父とするには世代が全く合致しません。

山内首藤氏に娘を嫁がせた寺崎下野守正次の正体とは誰あろう、「薄衣状」に寺崎下野守とその名が記された、桃生郡中津山館主(石巻市桃生町中津山)中津山刑部大輔、後の磐井郡峠苅明館主(岩手県一関市花泉町老松)寺崎下野守常清その人であったと考えられます。

更に
寺崎常清の妻は、山内首藤氏の分家で桃生郡合戦崎館主(石巻市桃生町樫崎)合戦崎首藤胤通の次女ですから、その娘が山内首藤本家に嫁ぐことは別段不可思議な事象ではありません。

磐井郡黄海古堂館主(岩手県一関市藤沢町黄海)黄海大和守高国に長男高量が誕生します。母親は暗殺された12代太守葛西尚信の娘。ということは母は若くとも16、7歳にはなっていたのでしょう。

黄海高国は「薄衣状」に“藤沢の甥”と記された岩渕経世の3男で、実父を戦死させた黄海高行の養子に入っています。存命だった“藤沢の叔父”経奉と、経世の後を継いだ幼い長男近江守経平は、弔い合戦において黄海氏を屈伏せしめ、養子を送り込んだのでしょう。

磐井郡松川外館主(岩手県一関市東山町松川)本家松川右馬助胤光に長男胤教が誕生します。胤光の父越中守隆信こと信胤はかの薄衣美濃入道の次男であり、妻は13代太守政信の次男信兼の娘と記されます。

しかしこの時西舘信兼は35歳。早婚で出来た娘がいるならば、23歳の婿もありでしょう。ちなみに、信兼の妻は薄衣美濃入道の娘ですから、従兄妹結婚ということになるでしょうか。

2に続きます。

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