永正元年(1504)8月、磐井郡小梨上館主(岩手県一関市千厩町)西城遠江守景綱の長男行綱が、13代惣梁葛西政信に近侍し、一字拝領して信綱と改名しています。
9月9日、出羽国最上郡山形城主(山形県山形市)8代羽州探題最上左衛門佐義淳が没します。享年不明。長男修理大夫義定が9代羽州探題を継ぎます。
本家松川氏、鳥畑氏の系図によれば、磐井郡松川外館主(岩手県一関市東山町松川)本家松川越中守信胤の3男弾正忠胤持に長男胤堅が誕生します。母は千葉八郎左衛門尉胤長の娘。
本家松川氏、鳥畑氏の系図によれば、磐井郡松川外館主(岩手県一関市東山町松川)本家松川越中守信胤の3男弾正忠胤持に長男胤堅が誕生します。母は千葉八郎左衛門尉胤長の娘。
千田兵庫助重篤の祖母が千葉主馬助胤長の娘、大窪佐々木信濃守泰綱の妻が千葉宮内少輔胤長の娘とありますがいずれも時代が合わず、不明。
田茂山佐々木氏の系図によれば、気仙郡田茂山館主(岩手県大船渡市盛町)田茂山佐々木信濃守泰綱の4男周防守基綱に長男長綱が誕生します。母は13代惣梁政信の娘。
この時期、13代正太守葛西惣梁政信は、消える前に一瞬だけ燃え盛る蝋燭の炎のように、あちこちで活躍しているのがわかります。
すなわち、合戦崎首藤通貞や福地首藤俊兼への加増、佐藤信孝に至っては山内首藤氏のお膝元に所領を賜っている点は尋常な話ではありません。
この葛西政信が葛西宗清ないし重清に比定される可能性は低いでしょう。くだんの地域とその住人は、一揆でもって葛西宗清と干戈を交える関係にあったわけですから、禄を貰える道理はありません。
と言うことはこの時期、佐沼城主であった葛西惣梁政信は、遂に葛西屋形宗清と対立し、三郡鼎足一揆の盟主として、末永能登守はいざ知らず、登米行賢や山内首藤貞通らに担ぎ上げられていたのではないでしょうか。
末永能登守にとって祖父方、祖母方双方の伯父に当たる葛西政信と、どのような関係にあったかを示す物は何一つ遺されていません。血筋が近いから仲が良いとは限らないことは、薄衣美濃入道が義弟常盛に造反され、葛西政信自身も甥の尚信を毒殺していることから見ても明らかです。
永正2年(1505)8月、志田郡松山郷(大崎市松山)で大崎義兼と遠藤盛行が合戦となっています。
会津郡(福島県)の芦名氏では、1500年代に入り、三橋氏など家臣らの反乱に悩まされていましたが、8月、父刑部丞盛高と長男遠江守盛滋との骨肉の争いが発生し、芦名四天の宿老でも佐瀬氏と富田氏が父方に加担して白河口(南会津郡下郷町?)で、筆頭・松本勘解由宗輔と源三(不明)が長男側に与同して耶麻郡綱取館(福島県北塩原村)を本拠にします。
見かねた白河郡白河城主(福島県白河市)白河結城宮内少輔顕頼が和議を斡旋しますが、不成立に終わります。
田茂山佐々木氏の系図によれば、気仙郡田茂山館主(岩手県大船渡市盛町)田茂山佐々木信濃守泰綱の4男周防守基綱に長男長綱が誕生します。母は13代惣梁政信の娘。
この時期、13代正太守葛西惣梁政信は、消える前に一瞬だけ燃え盛る蝋燭の炎のように、あちこちで活躍しているのがわかります。
すなわち、合戦崎首藤通貞や福地首藤俊兼への加増、佐藤信孝に至っては山内首藤氏のお膝元に所領を賜っている点は尋常な話ではありません。
この葛西政信が葛西宗清ないし重清に比定される可能性は低いでしょう。くだんの地域とその住人は、一揆でもって葛西宗清と干戈を交える関係にあったわけですから、禄を貰える道理はありません。
と言うことはこの時期、佐沼城主であった葛西惣梁政信は、遂に葛西屋形宗清と対立し、三郡鼎足一揆の盟主として、末永能登守はいざ知らず、登米行賢や山内首藤貞通らに担ぎ上げられていたのではないでしょうか。
末永能登守にとって祖父方、祖母方双方の伯父に当たる葛西政信と、どのような関係にあったかを示す物は何一つ遺されていません。血筋が近いから仲が良いとは限らないことは、薄衣美濃入道が義弟常盛に造反され、葛西政信自身も甥の尚信を毒殺していることから見ても明らかです。
永正2年(1505)8月、志田郡松山郷(大崎市松山)で大崎義兼と遠藤盛行が合戦となっています。
会津郡(福島県)の芦名氏では、1500年代に入り、三橋氏など家臣らの反乱に悩まされていましたが、8月、父刑部丞盛高と長男遠江守盛滋との骨肉の争いが発生し、芦名四天の宿老でも佐瀬氏と富田氏が父方に加担して白河口(南会津郡下郷町?)で、筆頭・松本勘解由宗輔と源三(不明)が長男側に与同して耶麻郡綱取館(福島県北塩原村)を本拠にします。
見かねた白河郡白河城主(福島県白河市)白河結城宮内少輔顕頼が和議を斡旋しますが、不成立に終わります。
10月、父盛高と長男盛滋は耶麻郡塩川郷(福島県喜多方市塩川町)で激突しますが、不利となった盛滋は伊達尚宗を頼り、出羽国置賜郡長井荘(山形県)に出奔。
かつて父成宗と抗争し、芦名盛高を頼って出奔した尚宗が、今度は出奔した先の親子喧嘩を受け入れることになろうとは、何とも皮肉な巡り合わせですが、伊達尚宗は助力を求めて来た芦名盛滋にかつての自分を重ねたか、それとも芦名氏の内戦に介入してライバルの弱体化を狙ったか、盛滋を支援しています。
黒沢氏の系図によれば11月10日、磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢隠岐守信盛が没します。享年71歳。家督を譲った長男豊前守忠光は父に先立ち早世していたため、次男越中守信理が家督を継いでいます。
また、信理の長男隠岐守信統(越中守信資)に長男信定(信寛)が誕生しています。母は先妻千田主計重茂の娘。
千田重茂とは、磐井郡砂子田館主(岩手県一関市藤沢町)千田兵庫助重篤のことでしょうか。
信盛が曾孫の顔を見ながら没したかどうかは定かではありません。
この年は、山内首藤刑部少輔義通が没します。家督、隠退と都合30年余り、60代くらいでしょうか。名実共に山内首藤氏の最盛期を作り上げた当主が、最期に見た葛西宗清との衝突をどのように感じていたのか気になるところです。
6に続きます。
かつて父成宗と抗争し、芦名盛高を頼って出奔した尚宗が、今度は出奔した先の親子喧嘩を受け入れることになろうとは、何とも皮肉な巡り合わせですが、伊達尚宗は助力を求めて来た芦名盛滋にかつての自分を重ねたか、それとも芦名氏の内戦に介入してライバルの弱体化を狙ったか、盛滋を支援しています。
黒沢氏の系図によれば11月10日、磐井郡下黒沢館主(岩手県一関市萩荘畑下)黒沢隠岐守信盛が没します。享年71歳。家督を譲った長男豊前守忠光は父に先立ち早世していたため、次男越中守信理が家督を継いでいます。
また、信理の長男隠岐守信統(越中守信資)に長男信定(信寛)が誕生しています。母は先妻千田主計重茂の娘。
千田重茂とは、磐井郡砂子田館主(岩手県一関市藤沢町)千田兵庫助重篤のことでしょうか。
信盛が曾孫の顔を見ながら没したかどうかは定かではありません。
この年は、山内首藤刑部少輔義通が没します。家督、隠退と都合30年余り、60代くらいでしょうか。名実共に山内首藤氏の最盛期を作り上げた当主が、最期に見た葛西宗清との衝突をどのように感じていたのか気になるところです。
6に続きます。