2013年08月

江戸のテロリスト集団・赤穂浪士47名は義士とされました。そうすることによって主従関係における忠義の根幹を揺るがし、やがては儒教思想による将来的な幕府転覆を狙った儒学者浅見絅斎の腹黒い入れ知恵があったとも云われます。そうすると、徳川家康が幕府存続の為のイデオロギーとして採用した儒教がかえって幕府の衰退滅亡を招く皮肉な結果を、思想的にもたらしたと言えます。

話は戻りますが、首藤頼広と「土芥寇讎記」は時代も場所も異なるので、直接の関連はないでしょう。

もうひとつ考えられるのは、末永能登守自身が「孟子」を知っていた可能性です。

そう思わせたヒントは、末永能登守のもうひとつの名前にありました。末永能登守の諱は宗春ですが、「安永風土記」のみ宗時と記しています。もしかしたら別名でしょうか。

時という字について敢えて考察してみると、暗殺された12代太守葛西尚信の次弟が時信という名前でした。末永能登守宗時は案外、自身のクーデターにおいて、葛西時信を旗印に擁立しようと画策したのかも知れません。

また、時は「孟子・公孫丑章句下」の一節を想い起こします。すなわち、“天の時は地の利に如くはなく、地の利は人の和に如くはなし”と。

天のもたらす幸運は地勢の有利さには及ばない、地の利は人心の一致に及ばない、という意味です。

現時点では、末永能登守が「孟子」を読んで知っていたかどうかは結論は出せません。

首藤頼広自慢の息子・知平が仕えた伊達綱村の時代、仙台藩は公称62万石といいながら、実質100万石の石高を誇り、江戸幕府から警戒されていた外様大大名の一つでした。

有名な伊達騒動は綱村が幼少の頃に起きた事件です。江戸幕府公儀隠密・松尾芭蕉と河合曽良の奥の細道紀行と称する仙台藩偵察は、「首藤氏系譜」成立の3年後の元禄2年(1689)の出来事でした。

伊達綱村はそうした経験から、かなりワンマンでハコモノを造りたがる性癖があったようです。また、儒教も盛んに奨励したようで、その環境の中で、首藤頼広が「孟子」を参考に、末永能登守の叛乱を記述したと考えられるのです。

実は「永正合戦記」もまず2種類に分類することが出来るのです。

Aとして提案する分類は、首藤頼広編纂の「首藤氏系譜・代々系脈図・貞通及び知貞条」中の原漢文ないし、漢字仮名混じり文の記録で、岩手県史、河北町史からは誇張だとか粉飾だとか批判されているものです。

Bとして提案する分類は、万延元年(1860)首藤知通編纂の「桃生領主山内伝」や、「仮称・永正の合戦記」、「永正年間戦乱記」とタイトルがついている記録です。

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「永正合戦記」の編者首藤頼広は孟子をどの程度理解していたか定かではありませんが、土芥寇讎論が、真意はともかくとして、危険思想として批判されているくらいは知っていたでしょう。知ってるからこそ敢えて、末永能登守と葛西宗清の対立関係を表現する喩えとして引用したわけですから。

江戸幕府は得てして儒教を根本思想として奨励する政策を採っていました。それは徳川に造反する動きを思想信条面から抑制するという目的があったのです。

余談になりますが、土芥と寇讎の表現を使った書籍に、そのものずばり、「土芥寇讎記」という書物があります。成立は「永正合戦記」成立の10年後の1690~1700年頃、江戸幕府の隠密工作員による各国の大名のマル秘調査ファイルを地下出版した、といった所でしょうか。

「土芥寇讎記」で特筆すべきは浅野内匠頭長矩でしょうか。ずばり言ってしまえば馬鹿殿なのです。この男が悲劇の君主と言われる理由が今一つわかりません。時は元禄14年(1701)3月14日、マザコン将軍5代徳川綱吉のママの叙位任官式の饗応役。

浅野長矩は過去に饗応役を務めていますので、忘れていなければどのような仕事かは理解している筈です。指南役で被害者の吉良上野介義央は地元では知られた名君で、いじめで嘘を教える筈もないし、まずそれをやれば幕府や将軍の母親が恥をかいて、監督不行き届きに問われるわけですからまず有り得ません。

ただ浅野長矩は精神を病んでいて、当日はわけのわからない事を叫びながら吉良義央を斬りつけた、理不尽な通り魔事件なのです。

ですからその後の吉良邸討ち入り事件も、はっきり言って理由不明の暗殺であり、テロ事件でしかありません。赤穂浪士47名は本懐を遂げた後、浅野長矩の墓がある寺院までかなりの距離を歩くわけですが、血塗れになって人の生首を掲げてのおぞましい行列に、鬼平さんや銭形平次さんのような人達がやって来ないのは不可解至極というほかありません。

一説に吉良氏は、徳川氏が源氏を仮冒(系図を詐称すること)する際に色々と協力したゆえに、徳川の血統の秘密を知る家系と言われます。当時の吉良氏は米沢藩上杉氏と縁戚関係にあり、外様雄藩を狙った大名取り潰し政策の毒牙にかかったとも考えられるのです。

実際徳川綱吉の時代は異常なまでに大名取り潰しの多い時代でした。先代の4代将軍家綱が将軍となってまもなく、大名取り潰しによって街に溢れた不満浪人の決起事件があり、極力取り潰しを少なくしようと方針転換されたにも関わらず、です。

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孟子(BC372~BC289)が斉の国(山東半島)の宣王(?~BC301)に説いて語るには、君主が家臣を手足として重んじれば、家臣は腹心のように重んじるであろう、また君主が家臣を犬や馬のように扱うならば、家臣は君主を路傍の人のように接するであろう。しかし、君主が家臣を土芥(つまらないもの)として見るならば、家臣は君主を寇(あだ)や讎(かたき) のように見るであろう、と。

要するに君主が家臣を大事に扱えば家臣は君主に忠誠を誓うし、君主が家臣を粗略に扱えば家臣は君主を憎悪するものだ、という意味合いです。

おいらが高校の漢文の授業などで習ったレベルにおける孟子と言えば、人の性は善なり、の性善説や、孟母三遷また断機の教えの逸話であり、その程度だけで見た時、お人好しの坊っちゃんのような、孔子よりもやや劣る思想家、というような類いの印象を持っていました。

孟母三遷の教えとは、孟子こと孟軻一家は初め、墓地の近くに住んでいたが、息子が葬式の真似事をするようになったので、教育上悪いと感じ、引っ越しますが、市場の近くだったため、今度は商人の真似事をするようになった。葬式も物売りも子供が好きそうなごっこのジャンルですね。で、三回目は学校の近くに引っ越したため、孟子は勉強の真似事をするようになって、母さん一安心というエピソードです。

また孟母断機の教えとは、修業の途中で帰って来た息子に、織っていた布を切って、途中で諦めることの愚を諭した、という教育ママっぷりを示す逸話です。

一般に良く知られる孟子と言えば、その性善説と母親の教育熱心さではないかと思いますがしかし、孟子の思想には、土芥寇讎論に見られる、家臣の造反にも理由があることを示した独特の君主論や、王朝が倒れることを真っ向から肯定する易姓革命論といった、解釈の仕方によっては危険とも過激とも取れる思想も盛り沢山で、その評価は賛否両論あるのです。

特に土芥寇讎論は本場中国はおろか、日本においても最も批判が多い論説なのですが、実際上司が部下を無下に扱えば、人の偽らざる感情として上司に対し、反感を持つのは至極当然のことでしょう。孟子はそれゆえに、人の上に立つ者の心得るべき態度として説いているのであり、叛乱や造反を肯定しているわけではないのです。

そこには非常に正確過ぎる論説はかえって批難を浴びやすいという人間感情の定理が横たわっているのですが、それはさておき、ここで孟子の最も危険と言われる論説が使われている理由を考えてみたいと思います。

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面従腹背のパフォーマンスで、殺せるものなら殺してみろよ、そう言わんばかりの開き直った態度に、葛西宗清は呆れたのか、処刑する無意味を感じたのか、それとも背後に何かあると勘繰ったのか、いずれにしても末永能登守と筑後守は死刑を免れ、同志の門田成国と良忠、勝又氏は蟄居となるのです。

鎌倉幕府を壟断した君側の奸平頼綱の一族・長崎円喜の7代の子孫に当たる末永能登守は意識していたと思われますが、乱を起こした10月6日は曾祖父清夏が没し、祖父清連が名実共に末永氏当主の座に就いた日であります。そしてこの事変の意義は32年前の応仁元年(1467)の末永清連の乱の再現でもありました。事既に露見しながら自害せずに奇特な演出で生き延びる行為は、自刃した祖父末永清連の事蹟を、優に越えるものでした。

この時代、武士道というものが無かった訳ではありませんが、葉隠や新渡戸稲造の武士道に描かれるようなものとは大分異なりました。

要は生き延びたもの勝ちなのです。狡く、悪く、意地汚く、たとえ卑怯と言われようと勝てば官軍。大義などそこでどうにでも繕えるのです。

これ以降、葛西宗清は末永能登守を見ること土芥の如く、末永能登守は葛西宗清を寇讎のごとくあしらったとあります。

首藤頼広編纂の所謂「永正合戦記」は、「石巻市史」においては、“非常に信頼性が高い、ある程度信用してよい”と好評価している一方で、「河北町史」は、“粉飾に富んだ記録”と、やや否定的な評価を下しています。

あらゆる近代葛西氏史研究の種本となった「岩手県史」は、“誇張されている”とバッサリ否定しています。

桃生町教育委員会編纂の「桃生・山内首藤氏と板碑」は、否定こそしないものの、別種の「永正合戦記」こそ原本と絶賛しています。

頼広本が比較的低い評価なのは、おいらには良くわかります。要するに、アカデミズムの世界では土芥がどうたら、寇讎がこうたら、という表現は粉飾以外の何物でもないのです。

これが在野の歴史家、例えば佐藤正助氏になると、“文章は整然として、記載内容も豊富、原本に一番近いものと言える”と絶賛しているのです。

一体どっちなんだ、という論難はおいおい説明していくことにして、実はこの土芥と寇讎という表現には原典があるのです。

土芥と寇讎の出典は、「孟子・離婁章句下・第二段」にある、“君の臣を視ること土芥の如くせば、則ち臣の君を視ること寇讎の如し”の文章に準拠しているのです。

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父親や弟とは異なり、葛西宗清と対立した末永能登守。その原因と理由は何だったのでしょうか。それについては舞台となった広漠たる登米の大地も、洋々たる北上川も、黙して語ることはありません。

そのさなかに末永清春は没したものと見られます。系図には文明4年(1472)4月15日とも、文明10年(1478)8月20日とも、将又文明14年(1482)5月2日とも記されます。享年は60歳(「門崎布佐」)。次兄清久が1439年産まれですから、それ以後の誕生でしょう。戒名は広蓮(「巻物」)または蓮広(「代々」)、蓮黄とも記されます。いずれにしても葛西太守の戒名に代々付けられている蓮の字が使われていることからも、清春が如何に権力の中枢に重用されていたかが窺えます。

その清春を喪ったことで両者の対立が決定的になったであろうことは、容易に想像出来るのです。

東山妙見宮興田神社造営事業から一年後の明応8年(1499)10月6日、末永能登守は弟筑後守ほか同志と連れ立ち、何と!葛西宗清を弑逆せんとの陰謀を企てるのです。

それは桃生郡永井保(石巻市桃生町)で葛西宗清を暗殺しようとの狙いだったようです。

同志の門田(もんでん)氏は系図によると、末永氏と同じ葛西時重の子孫を称しています。この時代の当主は兵部成国か、内膳介良忠でしょうか。

また、勝田は勝間田で、石巻市内に多く見られる勝又氏のことでしょう。葛西氏の係累と記し、もとは磐井郡東山地域に蟠居していたものが石巻市真野や水沼に移動したと考えられています。しかし、末永能登守に同心した勝又氏の名前は系図などには残っていません。

勘繰ればこの暗殺計画は、文明15年(1483)の12代太守葛西尚信毒殺の再現、ないしは報復、因果応報とも取れるのです。であるならば、末永能登守は元々葛西太守尚信にシンパシーを寄せていたことが想像されますが、証明出来る訳ではないので、想像だけに留めておきます。

末永能登守は葛西宗清を暗殺してその後どうする積もりだったのか定かでありませんが、末永能登守のクーデター計画は事前に葛西宗清の察知するところとなり、失敗に終わります。

しかし、ここからが喰わせ者末永能登守の真骨頂、転んでもただでは起きない男の白眉の場面になるのです。

暗殺計画がばれた末永能登守と筑後守は、何と剃髪し、葛西宗清に謝罪を申し入れるのです。

5に続きます。

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