江戸のテロリスト集団・赤穂浪士47名は義士とされました。そうすることによって主従関係における忠義の根幹を揺るがし、やがては儒教思想による将来的な幕府転覆を狙った儒学者浅見絅斎の腹黒い入れ知恵があったとも云われます。そうすると、徳川家康が幕府存続の為のイデオロギーとして採用した儒教がかえって幕府の衰退滅亡を招く皮肉な結果を、思想的にもたらしたと言えます。
話は戻りますが、首藤頼広と「土芥寇讎記」は時代も場所も異なるので、直接の関連はないでしょう。
もうひとつ考えられるのは、末永能登守自身が「孟子」を知っていた可能性です。
そう思わせたヒントは、末永能登守のもうひとつの名前にありました。末永能登守の諱は宗春ですが、「安永風土記」のみ宗時と記しています。もしかしたら別名でしょうか。
時という字について敢えて考察してみると、暗殺された12代太守葛西尚信の次弟が時信という名前でした。末永能登守宗時は案外、自身のクーデターにおいて、葛西時信を旗印に擁立しようと画策したのかも知れません。
また、時は「孟子・公孫丑章句下」の一節を想い起こします。すなわち、“天の時は地の利に如くはなく、地の利は人の和に如くはなし”と。
天のもたらす幸運は地勢の有利さには及ばない、地の利は人心の一致に及ばない、という意味です。
現時点では、末永能登守が「孟子」を読んで知っていたかどうかは結論は出せません。
首藤頼広自慢の息子・知平が仕えた伊達綱村の時代、仙台藩は公称62万石といいながら、実質100万石の石高を誇り、江戸幕府から警戒されていた外様大大名の一つでした。
有名な伊達騒動は綱村が幼少の頃に起きた事件です。江戸幕府公儀隠密・松尾芭蕉と河合曽良の奥の細道紀行と称する仙台藩偵察は、「首藤氏系譜」成立の3年後の元禄2年(1689)の出来事でした。
伊達綱村はそうした経験から、かなりワンマンでハコモノを造りたがる性癖があったようです。また、儒教も盛んに奨励したようで、その環境の中で、首藤頼広が「孟子」を参考に、末永能登守の叛乱を記述したと考えられるのです。
実は「永正合戦記」もまず2種類に分類することが出来るのです。
Aとして提案する分類は、首藤頼広編纂の「首藤氏系譜・代々系脈図・貞通及び知貞条」中の原漢文ないし、漢字仮名混じり文の記録で、岩手県史、河北町史からは誇張だとか粉飾だとか批判されているものです。
Bとして提案する分類は、万延元年(1860)首藤知通編纂の「桃生領主山内伝」や、「仮称・永正の合戦記」、「永正年間戦乱記」とタイトルがついている記録です。
9に続きます。
話は戻りますが、首藤頼広と「土芥寇讎記」は時代も場所も異なるので、直接の関連はないでしょう。
もうひとつ考えられるのは、末永能登守自身が「孟子」を知っていた可能性です。
そう思わせたヒントは、末永能登守のもうひとつの名前にありました。末永能登守の諱は宗春ですが、「安永風土記」のみ宗時と記しています。もしかしたら別名でしょうか。
時という字について敢えて考察してみると、暗殺された12代太守葛西尚信の次弟が時信という名前でした。末永能登守宗時は案外、自身のクーデターにおいて、葛西時信を旗印に擁立しようと画策したのかも知れません。
また、時は「孟子・公孫丑章句下」の一節を想い起こします。すなわち、“天の時は地の利に如くはなく、地の利は人の和に如くはなし”と。
天のもたらす幸運は地勢の有利さには及ばない、地の利は人心の一致に及ばない、という意味です。
現時点では、末永能登守が「孟子」を読んで知っていたかどうかは結論は出せません。
首藤頼広自慢の息子・知平が仕えた伊達綱村の時代、仙台藩は公称62万石といいながら、実質100万石の石高を誇り、江戸幕府から警戒されていた外様大大名の一つでした。
有名な伊達騒動は綱村が幼少の頃に起きた事件です。江戸幕府公儀隠密・松尾芭蕉と河合曽良の奥の細道紀行と称する仙台藩偵察は、「首藤氏系譜」成立の3年後の元禄2年(1689)の出来事でした。
伊達綱村はそうした経験から、かなりワンマンでハコモノを造りたがる性癖があったようです。また、儒教も盛んに奨励したようで、その環境の中で、首藤頼広が「孟子」を参考に、末永能登守の叛乱を記述したと考えられるのです。
実は「永正合戦記」もまず2種類に分類することが出来るのです。
Aとして提案する分類は、首藤頼広編纂の「首藤氏系譜・代々系脈図・貞通及び知貞条」中の原漢文ないし、漢字仮名混じり文の記録で、岩手県史、河北町史からは誇張だとか粉飾だとか批判されているものです。
Bとして提案する分類は、万延元年(1860)首藤知通編纂の「桃生領主山内伝」や、「仮称・永正の合戦記」、「永正年間戦乱記」とタイトルがついている記録です。
9に続きます。