2013年07月

10年前の今日は、宮城県で一日に三回も大地震に見舞われた。思い出すにつけ、この日だったかと、記憶の不確かさにはっとする。震源地の伝説に、千年眠る龍があり、目覚めるたびになゐふるのだと云う。そこにはあやまたず活断層が走っていた。
今にして思えば、この大地震がその後の人生の転機となった。

寺崎清慶の出版意欲は旺盛で、明和3年(1766)には「葛西古文集」を著しています。

明和5年(1768)5月、平清存という人物が記述した家系図が登米郡登米町の曹洞宗桁渕山龍源寺に残されています。

系図の体裁は「A類」に「末永系図」がセットになっています。
この系図の作成にも末永氏が関わったのでしょうか。

平清存は、本名を葛西壱岐守清胤(のち清興・1738~1807)といって、旧河北町の源光寺に位牌を納めた飯野川葛西清方の嫡孫であり、くだんの系図編纂2年後の明和7年(1770)より、仙台藩若年寄の要職に就くことになる人物です。

享保13年(1728)7月13日の記録に飯野川葛西氏家老・末永清兵衛、用人・末永仲右衛門の名前が。またこの頃には、末永東右衛門、長吉、長十郎という親子三代が見られますので、こうした飯野川家の家臣となった末永氏の子孫が葛西清胤の系図作成に協力したのかも知れません。

あるいは仙台藩士として桃生郡小船越(石巻市)、通称五十五人地区に所領と屋敷を構え、そして文字通りの55人の家来を抱えた末永氏も関わったかも知れません。

この家系に伝わっている「葛西末永両家之系図」は極めて大きな特色を持っていて、葛西氏のほうは「A類」をベースに、「B類」の要素を取り入れ、記事もふんだんに記され、わずかばかりではありますが、明応永正の戦乱についての記述があるのです。

基本的に「A類系図」は当主の名前だけが羅列するだけで、正確さが伝わらない、実につまらない系図なのです。

しかも、永正合戦については、山内首藤氏の記録である「代々系脈図」、「桃生領主山内伝」や、「永正合戦記」といった数える程の史料が伝えるのみで、葛西氏の史料には全くといっていいほど言及がないのです。

永正合戦についてわずかでも記載があるのは、かつての山内首藤氏の拠点が近いこともあったでしょうが、山内首藤氏の子孫が編纂した記録に触れる機会があったゆえと見られます。特に「桃生領主山内伝」を編纂した大肝入首藤信継がいた桃生郡中島村(石巻市)は、小船越村からは北上川を渡ってすぐの場所に位置するのです。

そうなると、良くも悪くも良いとこ取りのこの系図は、上記の史料が出揃った18世紀以降に編纂されたと考えることが可能です。

さて、末永氏の系図を通して見てみると、流石に末永能登守が叛乱を起こしたことは書いていません。まぁそれは、家系図が歴史書ではなくて履歴書として機能していたわけですから、仕える先に先祖は謀叛人と書く命知らずはいないわけですが、実はその文字の下に、様々な暗号が沈め秘されているのです。

12に続きます。

「A類」と「B類」のどちらも引かぬ綱引きに、葛西氏には二系統対立があったと唱える説があります。

殊に「A類」12代13代の満重と宗清、「B類」の尚信と政信において顕著です。

このことをもって清親系の関東葛西家が登米郡寺池(登米市登米町)の嫡流となり、朝清系の奥州葛西家が牡鹿郡日和山(石巻市日和が丘)の庶流となり、庶流が嫡流を乗っ取るという壮大なドラマを葛西氏は演じた、というわけです。

「奥州寺池葛西家系図」という、旧志津川町の葛西氏研究家・佐藤正助氏の大著「葛西四百年」をして、“一番奇怪で信用できない”と評される家系図があります。南北朝時代、牡鹿日和山に分岐した庶流が、やがて寺池の嫡流に取って替わったことを示す系図です。

この枝分かれしたのが、7代目の高清と良清、8代目の詮清と満良の時代に、正に合致するのです。それがゆくゆく「B類」当主が満信、持信、朝信、尚信、政信となり、「A類」では持重、信重、満重、宗清となり、ここで庶流の下剋上が行われた、というシナリオが見えてくるのです。

そのことはおいおい述べていくことにして、とりあえずこのABどちらにも属さない系図を、「C類」として提案することにします。

C類系図に分類されるのは、冒頭に紹介した「葛西盛衰記」や、「奥州葛西記」所収の系図で、10代目から14代目までがとにかくふざけていて、笑わせるのです。

すなわち、重胤、胤信、信常、常高、高重って、しりとりか!?編者の葛西正信は葛西の血筋じゃないですね。少なくとも葛西晴信の息子ではないでしょう。



佐竹義根に居丈高にあしらわれた寺崎清慶ですが、どのような想いで帰路についたでしょうか。以来、寺崎清慶は「A類」の方に傾いたと考えられています。

寛延元年(1748)、寺崎清慶は「諸家系譜類集」を編纂。翌寛延2年(1749)、盛岡葛西晴時が82歳の長命をもって亡くなり、ここに「盛岡」の第四次編纂が終了するのです。

「盛岡」における第一次、第二次の編纂は、誰か書の達人を雇って記述したのではないかと見られています。その後、第三次、第四次においては別の人間、もしかすると盛岡葛西晴時自身が記入したのではないかと「岩手県史」は類推しています。

宝暦14年(1764)5月、寺崎清慶は「奥州葛西動乱記」、「葛西家紋三柏之由来」をものしています。

元号変わって明和元年8月から翌2年2月にかけての間、寺崎清慶は「天正16年(1588)5月3日付葛西晴信黒印状」を仙台藩主伊達重村に貸出しています。

11に続きます。

14代からになると初名と改名の違いでしかなく、重信と晴重、高信と晴胤、親信と義重、そして最後の17代晴信で両者一致するわけなのですが、「A類」は15代晴胤を伊達氏からの養子とし、一方「B類」は伊達氏から来た養子とは晴清という別人で、家督は継げなかったと主張しているのです。

こうして晴信の直系が「B類」を、晴信の弟胤重の子孫が「A類系図」を著していくわけですが、研究者によってはこの胤重が晴信の弟なのかと疑念を呈する向きもあるようです。

確かに系図の生没年、享年から逆算すると、晴信よりも胤重のほうが3歳年上になるという事態が発生するのです。

まぁそんなこと言ったら、系図なんて疑えばキリがないですよ。それに、葛西太守の弟かどうかも怪しい人物がおいそれと伊達政宗と文書のやり取りをしたり、家臣に取り立てられて高い家格を与えられるかな、とも思うのです。

さて、「A類系図」が当主だけの直系だけを示しているのに比べ、「B類」は兄弟姉妹も記載されているのが両者の大きな違いとなっています。

「B類系図」の代表的なものとして、「盛岡」、仙台藩領内で編纂された「仙台B」、そして中舘氏の子孫に伝えられる中舘系図(以下「中舘」)の3種類が知られています。

この3種類を見比べた時、まず一際目に付くのは、「盛岡」の誤認と、「A類系図」に対する捻くれた対抗意識でしょうか。

他の2系図が清重の息子としている時清、重元を、線引きを間違ったのか、弟にしています。更には満良、持重といったA類当主を、あり得ない世代に“強制連行”するといった、ソ連のラーゲリばりの行為をやらかしているのです。

研究者の立場としては、下手な推理小説や三文ドラマよりもワクワクするのですが、史実として見た時に、これはアリなのか、無しだろうって思うのです。結局それで系図の信憑性が揺らぐわけですからね。

仙台藩領内に流布したB類系図「仙台B」は、そうした「盛岡」のような悪ふざけはありませんが、時折“このほか兄弟男女○人、此を略す”とあり、あんまり当てにならないな、という印象を与えてくれます。

この省略部分は、「中舘」によって補うことが出来るのですが、実は「中舘」は、10代太守持信の弟・西舘重信の子孫の家系図であり、葛西氏に関する部分は、その持信までで止まっているのです。

こうしたことを見て行くと、「B類系図」にはどうやら現存しない、もしくは未発見の原本があったようです。

10に続きます。

鎌倉時代は南北朝時代と違い、嫡子と庶子の区別が厳格に立て分けられていた時代です。確かに葛西氏には両統迭立した時代がありましたが、それは多分に後になってからの話であって、清親と朝清の時代ではありません。それが嫡子然と数えられたのは、単純に、嫡子っぽい名前だったからではないでしょうか?何せ源頼朝の朝に、葛西清重の清なのですから。

2代清親、 3代清時、正確には時清であることが「吾妻鏡」から判明しますが、B類では朝清を入れてしまった為に、本来4代に来るべき清経がはじかれてしまっています。

5代目はA類は清宗、B類は千葉氏から来た養子・清信。
しかし、同時代の資料からは、宗清が正しいことが判明するのです。

この理由は痛いくらい理解できます。何故って?それはA類13代当主に宗清という人物がいて、しかもこの宗清という男、何と伊達氏から来た養子だったのです。

A類系図とは詰まるところ、葛西庶流が葛西を滅ぼした敵である伊達氏に仕官するために、あろうことか、伊達氏の血縁であるかのごとく改竄した系図だったのです。

それゆえに飯野川葛西俊信は準一家などという、一門に次ぐ高い家格を貰えたのです。そして飯野川葛西清方はA類系図を否定し、B類系図に依拠した位牌堂を建立したのです。

話を5代目に戻しますが、A類は13代目とかぶるのを避けて、わざわざ5代目を清宗と転倒させた名前に変えたのです。B類は更にたちが悪く、宗清という名前を書きたくなかったんでしょう。清信という名前をでっち上げ、しかも千葉氏から来た養子等と隠語めいた暗号まで付け足す始末。まぁそれはそれで面白いのですが、おかげでB類系図の信憑性に疑問符がつく結果に。

6代目はA類が清貞、B類が貞清と、こらまた転倒しているのですが、やはり同時代の文書からは清貞が正しく、B類が転倒してしまったのは、清貞の3男に末永氏の養子となった清定があり、混乱を避けて書き換えたものかと見られます。

7代目以降からは高清に良清、詮清に満良と、何やら別人の雰囲気があり、この頃から分立した家柄が発生したのかな、と。

佐竹義根が指摘している9代満清(A類)はB類では満信の早世した異母兄として登場し、やはり別人同士。

10代持信と持重、11代朝信と信重、さらに12代尚信と満重に至っては完全に別系統であり、13代政信と伊達氏からの養子宗清で謎は極まるのです。

これは両統迭立、二系並立ではなくて、庶流が嫡流を凌駕し、下剋上した姿であるとおいらは見ています。

9に続きます。

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