陶部とは、陶作部(すえつくりべ)、すなわち、須恵器を製作する陶工職人集団を意味する名前です。

陶作部の成立はその国家的規模から類推するに、4世紀後半から5世紀の伝来間もなく成立していたものと考えられますが、日用品にもその用途が拡がっていくと、国家制度から次第に切り離され、8世紀に律令制度が成立した頃には完全に“民営化”されたようです。なんだか近代の電車、電話、塩の事業の変遷を見るようです。

名前の高貴ですが、新漢も陶部も日本に移住してから与えられた名前であることを考えれば、これこそがこの人物生来の名前であることが解ります。

であれば、高が姓で貴が名前だったか、それとも朴高貴とか李高貴という名前だったか、いずれにしましても新漢と名付けられるくらいですから中国人のような名前であったと考えられます。当時の朝鮮人の名前はどちらかというと日本のそれに近い名前でしたから。ちなみに新羅の初代国王は姓こそ朴を名乗っていますが、倭出身の赫居世という名前であり、その重臣瓠公もまた、日本人だと朝鮮の歴史書「三国史記」には記されています。。

新漢陶部高貴の記事を載せた21代雄略天皇7年、いわゆる西暦463年は、陶工の渡来と工房が営まれる5世紀中頃に合致しますが、「日本書紀・11代垂仁天皇3年(BC27)条」によると、前述の近江国蒲生郡鏡村の陶工達は、新羅王子・天の日槍に従って渡来してきた、と述べられています。

新羅王子・天の日槍、「古事記」には意富加羅国王子・天の日矛とある人物は、新羅王朝の系図に記載がない謎の人物で、その子孫が神功皇后、15代応神、16代仁徳天皇へと繋がる、日本天皇家の歴史上重要なキーパーソンになっていくのですが、日本に渡来してきた事情もまた、不可解なものとなっています。

簡単に説明しますが、朝鮮半島のある身分の低い女性が陽の光を受けて妊娠し、珠を産みます。

こうした昔話はモンゴル神話のアラン・ゴアとボドンチャルの母子(その子孫にヂンギス=カァンがいる)のそれにも通じますが、女性はその珠を傍らで見ていた男に渡してしまいます。男が家に帰ると、その珠は美しい女性に変身します。

下衆に勘繰れば、誰の胤ともつかない私生児を、ある男が養女に貰い受けたといったところでしょうか。で、長じて美人に育ったと。

美しく育った娘はひょんなことから新羅とも加羅ともいう王子様に見初められ、愛でたく結婚となるわけですが、東洋の神話は、西欧の童話のようにハッピーエンドにはなりません。

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須恵器は煮炊きすると割れてしまうので、煮炊き用の土師器と共存していました。須恵器は主に祭祀や副葬品として使用され、奈良時代以降になると日常品としても用いられるようになります。

後述しますが、近江国蒲生郡鏡村、須恵村(滋賀県竜王町)を中心とした鏡谷窯跡群、ここは仏法守護のインド由来の八大竜王にちなむ一大宗教地帯であったようで、地名の由来となった鏡山とは恐らく鏡の製造がそこで行われていたのでしょう。鏡もまた、祭祀の道具として邪馬台国卑弥呼の時代から重宝されていました。

当時鏡が重宝されていた理由に、太陽光を反射することによる光通信に利用していたのだという説もあるようですが、単純に自分の顔が見れるのが画期的だったからではないでしょうか。昔話にある、何も知らない女房が鏡を覗きこんで、アンタ!あたしという女がいながらこんないい女持って来て!とてっきり叫んでしまうような。

それはともかく、国家の運営で須恵器が大規模に生産、流通した背景には、大和朝廷が宗教的権威を背景とした統治機構を構築していたことを示唆しているように感じます。

そこに埼玉県行田市まで大和朝廷の支配が及んでいたというのではなく、稲荷山古墳の被葬者・オワケのような各地の有力豪族が、大和朝廷の大王の権威にひざまづき出仕することで、官位や最先端の文物や技術、知識をもらう、朝貢関係を結んでいたのでしょう。

ワカタケル大王の正体が21代雄略天皇であり、なおかつ倭王武であるかどうかはとりあえず差し置いて、4世紀後半から5世紀の朝鮮南部加羅地方は倭国のテリトリーとなっていて、朝鮮北部から中国東北部にかけて蟠踞した高句麗王朝のスーパースター・広開土王談徳の南下に百済と新羅は苦しめられ、堪えかねた百済が王子を人質に差し出すことで倭国と同盟を結んでいました。

朝鮮陶工の大量渡来の背景には、高句麗の圧迫による百済の苦渋の決断があったように感じます。

それでは文献ではどうなっているか見てみましょう。普通は文書→発掘と論を進めるのでしょうが、あえておいらは逆に論じてみました。それは文献が実に頼りなく、いい加減で、恣意的かつ意図的な粉飾に満ちているからです。

「日本書紀」雄略天皇7年(463)条には、朝鮮渡来の陶工として、新漢陶部高貴なる人物の名が記されています。

新漢(いまきのあや)とは、今来た、新しく渡来した漢人という意味の姓ですが、本当に漢民族なのかはわかりません。新漢の前に渡来した東漢(やまとのあや)氏、西漢(かわちのふみ)氏とて、東漢氏こそ後漢最後の皇帝・献帝劉協の子孫を称していますが、本当に後漢の皇帝の子孫なのかは疑問なのです。

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原始時代において、土器はポスト石器を担う当世随一のハイテク技術だったことでしょう。現代のスマホやタブレットに相当するのでしょうか?

遮光器(サングラス)土偶という、オカルティストをして宇宙人ではないかとよく騒がれる発掘物がありますが、実はこの製品、再現しようとなるとバイオリンのストラディバリウス並みに高度な技術が必要になるそうです。尤も、他所の星から何万光年もかけてやって来た宇宙人の技術なら、もっとましなものを造るだろうって思うんですが。

須恵器の製造技術が朝鮮南部加羅地方から日本に伝わった時、道順として九州での生産が最も早いと考えたくなりますが、意外にも須恵器の生産発祥の地は現在の大阪府堺市中区と南区であり、しかもかなり大規模に運営され、かつ統一された規格で製造されていたことが、発掘によって判明しています。

このことは、相当数の朝鮮人陶工が大阪に渡来し、その招聘に巨大な王権体制が関わっていたことを示唆するものでしょう。勿論、材料となる陶土、燃料などの自然条件の存在は言うまでもありません。

大和朝廷、今はヤマト王権て言わなきゃいけないそうですが、大和朝廷で通します。その王権、政権の本質をこれ以上正確に表現した言い方は無いからです。その大和朝廷の政治体制のもとで須恵器は国家レベルでの量産体制が採られ、その堺市を中心に拡がる遺跡は陶邑窯跡群として呼称されています。

そこから近畿を中心に、九州、中国四国、東海、関東、東北へと拡散し、何故か宮城県が早く、5世紀後半に仙台市宮城野区東仙台の大蓮寺窯跡、太白区金剛沢の金山窯跡での生産が判明しています。そんな近所に須恵器の工房があったなんて知りませんでした。

気になる地域では、能登国羽咋郡、現在の石川県羽咋市や同鹿島郡に須恵器窯跡遺跡が存在していました。また、三重県でも四日市市などに窯跡遺跡があったようです。

中国地方の戦国武将では毛利元就や黒田官兵衛よりも俄然魅力があるとおいら個人は合点しているが、友達にしたいとか上司にしたいとかは全く思わない陶晴賢の本拠地、周防国吉敷郡陶郷(山口県山口市)もまた、須恵器生産に因む地名でしょう。

意外に早いと言えば、ワカタケル大王の鉄剣で有名な埼玉県行田市の稲荷山古墳にも須恵器が出土しています。

ということは、5世紀の古墳の被葬者が仕えたワカタケルという大王が、当時関西に構築されていた統一政権のあるじの名前であったことが判明します。もっとも、このワカタケル大王が21代雄略天皇だとか、倭王武と同一人物ではないかというのとはまた別の問題だとおいらは考えていますが。

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