天文22年(1553)9月3日、登米郡佐沼鹿ヶ城主(登米市迫町佐沼)佐沼右衛門佐直信が没します。享年55歳。実子は磐井郡黄海古堂館主(岩手県一関市藤沢町黄海)黄海出羽守高衡の妻となった娘が知られるのみです。

15代太守葛西晴胤の3弟直信の死は時期的に見て葛西信胤の乱に関連したものでしょうか。

波瀬市千葉氏の系図によれば、磐井郡門崎館主(岩手県一関市川崎町門崎字波瀬市)門崎安芸守と、松川藤四郎が領地を巡って合戦となります。
9月13日、松川藤四郎の異母弟内膳清胤が門崎安芸守の居館を陥落させ、門崎氏は藤四郎兄弟に全面降伏。安芸守は南部氏領を経て仙北郡(秋田県)へと落去します。


門崎館を奪取した松川藤四郎は門崎氏を名乗り、3弟清胤は波瀬市千葉下総守を名乗り、磐井郡門崎村の他、磐井郡相川村(岩手県一関市舞川)1万8千苅、江刺郡餅田村(岩手県奥州市江刺区岩谷堂)6千苅、桃生郡相野谷村(石巻市)6千苅、合計3万苅を相続します。


門崎安芸守とは系図から、盛常であると見られます。妻は仏坂千葉氏で、


この年は元良郡志津川朝日館主(本吉郡南三陸町)元良大膳亮重隆が反乱したと伝わりますが、原因や過程など、具体的な詳細は不明です。

男沢及川氏の系図によれば、磐井郡男沢鷹島館主(岩手県一関市花泉町花泉)男沢及川大炊介重兼が没します。享年68歳。長男豊後守重俊が跡を継ぎます。
葛西晴胤に近侍し、老臣であったと記します。

大原氏の系図によれば、磐井郡大原山吹館主(岩手県一関市大東町大原)薩摩守信光の養嗣子で葛西晴胤の3男飛騨守信茂に長男茂光が誕生します。母は黄海高衡の娘。

黄海氏の系図には高衡ではなく、その父高量の娘と記しますが、世代的に見て高衡の方が合っています。そうならば大原茂光は佐沼直信の曾孫ということになりますが、直信が随分と早目な曾孫の顔を見れたかは定かではありません。

八幡館熊谷氏の系図によれば、元良郡岩月八幡館主(気仙沼市岩月字千岩田)八幡館熊谷玄蕃直昌が没します。享年54歳。長男式部直則が跡を継ぎます。

南境三浦氏の系図によれば、牡鹿郡南境(石巻市)領主にして登米郡寺池城下(登米市登米町寺池)在住の三浦内蔵助義村が没します。享年不明。長男掃部介義忠が跡を継ぎます。登米郡内の八幡神社の建設に貢献したと記します。

横沢氏の系図によれば、磐井郡浜横沢館主(岩手県一関市室根町)横沢隼人胤広、天文22年存世と記されます。天文22年に生きていた、という意味なのか、この年に没したという意味なのかは判然としません。享年不明。妻は薄衣甲斐守の娘。長男民部介政胤が跡を継ぎます。薄衣甲斐守は磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町薄衣)元祖薄衣甲斐守常盛と考えられます。

米谷亀卦川氏の系図によれば天文23年(1554)6月25日、登米郡米谷禅可館主(登米市東和町米谷)米谷亀卦川豊前守常顕が没します。享年68歳。15代太守葛西晴胤の老臣として、武略に通じ、騎射に達すると記されます。長男豊前守常時が跡を継ぎます。

また、次男右馬助常輔は末永清連の故地である登米郡吉田邑に移住したとあります。

7月22日、大崎義直家臣で執事、監司という氏家三河守直継が上洛し、13代将軍足利義輝に謁見、太刀、馬を献上します。

狼河原亀卦川氏の系図によれば12月、登米郡狼河原館主(登米市東和町米川)狼河原亀卦川周防守信資が没します。享年54歳。長男平四郎信忠は早世し、次弟平左衛門信隆も戦死したため、米谷亀卦川常時の3男和泉守常忠(常隆)が信忠の養子として跡を継ぎます。

「B類系図」によれば、15代太守晴胤の5男信清に次男氏信が誕生します。母は葛西信継(不明)の娘。

東永井及川氏の系図によれば、磐井郡流荘永井青葉山館主(岩手県一関市花泉町永井)永井及川美濃守重氏が没します。享年77歳。長男因幡守重安が跡を継ぎます。

千厩金氏の系図によれば、磐井郡千厩茶臼館主(岩手県一関市千厩町千厩)金野主馬重鹿が没します。享年60歳。長男右馬允重安は早世したか、跡を継がず、次男豊後守持鹿が跡を継ぎます。

熊谷氏の系図によれば、元良郡赤岩館主(気仙沼市)赤岩熊谷主計直脩が没します。享年64歳。長男能登守直秋が跡を継ぎます。

14に続きます。

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本日令和2年(2020)11月3日は、遠祖末永能登守宗春公の507回忌の祥月命日、また、翌11月4日は遠祖末永安芸守清連公享年57歳とその長男末永孫七郎清元公享年32歳、次男末永孫八郎清久公享年29歳、清元公の長男末永孫二郎清次公が、清連公の兄で主君の葛西11代太守伯耆守持信公に叛逆するも、事既に露見の故にその待ち伏せを受けて討死を遂げてより554回忌の祥月命日に相当いたします。

よってここに謀反人の末裔はささやかながら、記念の更新を致します。



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森館跡(気仙沼市長磯字森)



小高い丘を利用して立地。東に向かってすぐに太平洋が拡がる絶景の勝地。それゆえに東日本超巨大地震に於いては甚大な津浪に見舞われたことと想像する。既に堤防が築かれているが、他と比べると気仙沼市はまだまだ震災の爪痕が随所に残っている。

館主は末永修理または和泉守なる人物。末永氏の一族に任せたと見られるが、修理、和泉守がどのような血縁関係で繋がるのかはわからない。



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末永西風館跡(気仙沼市最知字南最知)
東南端からの風景



謀叛に敗れた初代末永能登守宗春の隠棲の地にして終の住処。都合3人の能登守、宗春、清勝、師清の本拠地となり、果たして3万石の大名主となったと系図は誇るが、江戸時代に編纂された系図は所詮、先祖の事績を明らかにする歴史書ではなく、就職活動を有利に運ぶ為の謂わば履歴書、流石に誇張と思うが、一度ならず二度までも太守に叛逆したやんちゃ者の家系がそこまでのお大尽に立身出世(リベンジ)するのだから半端無い事である。



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末永西風館跡
東端からの風景

末永氏は、わけても有力な一族である最知玄蕃晴村(清村?)なる人物に周辺の城館の造作管理を担当させたようだ。
末永西風館、最知中館、塚館に森館を加えて国道45号線、東浜街道を扼する連城の体を成しているようだし、まず北に猿喰東館、猿喰西館を築いて自領最知の北端を押さえ、最知南館で本格的な城館を築いていて、実は末永西風館は規模から言ってもそんなに大した城廓では無さそうである。

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末永西風館跡
東端からの風景


カラオケボックスみたいな構えのパチンコ屋は震災前は本屋か何かだったと記憶している。末永西風館は東側を大分削られたことが、故・紫桃正隆氏の著書「史料・仙台領内古城館」所収の地図、現在の地図を見比べるとよく判る。そのパチンコ屋の辺りに本丸があったようだ。
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末永西風館跡
北東端からの風景

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末永西風館跡
北東端からの風景

思うに下のアスファルトの境目から上のガードレールのある辺り迄は嘗て土だったのではないだろうか。この館の西面に鍬を入れてはならない、金属がボロボロになるから、という恐らく何かが埋蔵されているのではないかと思わせる伝説が残るそうだが、東面はどうだったのだろうか。館そのものを崩してはならない、という禁忌を作っておけば削られることも無かっただろうかと、不肖の子孫は口惜しく偲ぶんである。


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反太守派が旗印に掲げた葛西信胤。この次男坊は何故伊達稙宗の指嗾を受け入れ、父である15代太守葛西晴胤に対し、弓を引く真似を犯したのでしょうか。

恐らくそれは長男16代太守親信の存在があったものと考えられます。

葛西親信はこの時41歳。病弱で実子にも恵まれません。

そんな人物を長男というだけで家督を継がせようとしたことに信胤は反撥を覚えたのではないでしょうか。

「B類系図・仙台B」には葛西晴胤は男女合わせて12人の子沢山に恵まれた、とあります。

息子だけに限って簡略に挙げれば、長男親信(1513年産まれ)、次男信胤(1520年産まれ)。

3男は親清(1533年産まれ)で、天文17年(1548)春に江刺讃岐守重国の養嗣子となったとありますが、元祖にも本家にもそのような名前も記載もありません。

4男は信茂(1533年産まれ)で、天文19年(1550)11月に大原信光の養嗣子となったとあり、大原氏の系図にも同様のことが記されています。

5男は信清(1534年産まれ)、6男は胤重(生年不明)。

7男は信定(1537年産まれ)で、永禄3年(1560)1月に小友顕定の養嗣子となったとあり、小友氏の系図にも同様のことが記されています。

8男は胤資(生年不明)で、平泉長部氏の養嗣子になったとあり、葛西滅亡時に戦死していますが、詳しい系譜関係は遺されていません。

9男は定胤(生年不明)で、永禄5年(1562)8月に赤荻千葉氏を称しますが、養子に行ったのかなど詳細は不明です。

その他にも信近とか晴近などという名前がぞろぞろ出て来ますが、その辺は面倒臭いので割愛します。

そんな面倒臭い系譜関係を敢えて羅列したのは、晴胤の庶子は全て養子に出されていて、信胤も同様にどこかの家に出されていた可能性があり、それは黒沢氏だったのではないでしょうか。系図では黒沢信久を想わせる葛西信久の実子だとありますが逆で、黒沢氏に預けられていたと。

俺様が黒沢の家督で収まるよりはと、信胤が伊達稙宗、大崎義直の支援を受けて力ずくで葛西太守の座を簒奪しようと狙ったとしても、所詮は傀儡政権、それに対する抵抗も凄まじいだろうし、しかもたがらおんつぁん(性格に問題がある中年男性、石ノ巻弁)と隠居させらぃだずんづ(隠居させられたジジイ、石ノ巻弁)の操り人形だから先が知れてるだろうってね。

出奔した葛西信胤はその後、奇遇にも伊達郡大森館主(福島県福島市)となり、100余町(約100ヘクタール)の領地を宛がわれ、あまつさえ伊達姓を名乗って伊達石見守信胤と改名した云々と記されます。

福島県の大森館は別名を臥牛館といいました。桃生郡の大森館も臥牛館という別名がありましたが、偶然と思えないのはおいらだけでしょうか。

葛西改め伊達信胤はかの地で20年を生き、天寿を全うしますが、まぁ悠々自適の若隠居、VIP待遇だったのでしょう。伊達晴宗が信胤をどのように見ていたのかは不明ですが、葛西氏を弱体化させ、分裂せしめ、我が物としたいのは父稙宗に同じだったでしょうから、粗略にすることは無かったものと思われます。
天文22年(1553)8月21日、長男修理大夫盛氏に16代当主を継がせて隠居の身であった、会津郡会津黒川城主芦名氏15代当主・遠江守盛舜が没します。享年64歳。

13に続きます。

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