浜田広綱の合戦相手でもある熊谷氏の本家・元良郡長崎館主(気仙沼市舘山)熊谷図書助直正と、件の月館熊谷直澄の次弟で直正の養嗣子となった伊勢守直資は歴戦の名将なので、その侵略手段は電撃的奇襲と考えられます。そして陸軍と水軍を駆使し、陸戦で熊谷軍の眼を惹いている内に水軍もて元良郡岩月郷(気仙沼市岩月)を乗っ取ったのではないかと推測されます。
さすれば最知玄蕃が構築した最知ライン、すわ発動かと言いたいところですが、それ以前に17代太守葛西晴信が即座に動いています。
本家江刺氏には先述の通りですが、胆沢郡百岡大林館主(岩手県金ケ崎町永沢)柏山中務少輔明宗に対し、出陣を要請。しかし、柏山明宗は病気のため、柏山氏家老で胆沢郡前沢館主(岩手県奥州市前沢区陣場)三田弾正少弼義広に50騎を持たせ、また同じく柏山氏家老の胆沢郡下姉体館主(岩手県奥州市水沢下姉体)大内源次郎に代理出陣させています。
その一方で磐井郡宮田館主(岩手県一関市赤萩)安部外記之助と葛西家宿老で磐井郡流荘男沢鷹取館主(岩手県一関市花泉町老松)男沢及川越後守信吉を和解の使者に立てます。
磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町薄衣)本家薄衣中務大輔清度にも動員命令が来たと言われますが詳細は不明です。因みに清度の妻は元良郡米倉館主(気仙沼市本吉町津谷)米倉上野介尚持(重持)の娘。
浜田広綱は一旦は矛を収めたようですが、性懲りも無く征服欲を心中に滾らせます。
浜田広綱の熊谷領侵攻と時を同じくして、伊達政宗二世は余りにも周辺諸大名と悉く対立し過ぎたことを些かならず不都合と思ったか、行方郡小高城主(福島県南相馬市小高区)相馬長門守義胤二世と田村家臣を通じて和睦を打診していたようです。
顕胤と晴宗の祖父同士の代から火花散らして対立し、血みどろの戦争を展開してきた義胤二世が今や政宗二世の恰好の悩み相談相手になるとは、人生どこで何が起こるかわからないものです。
当時田村家中は、清顕の妻が相馬顕胤の長女於北の方で、義胤二世の叔母に当たる関係がら、親相馬派と親伊達派で二分されていましたが、伊達政宗二世が相馬義胤二世を頼るようになった副産物で両派は一応団結することにして、清顕の遺言通り政宗二世に従うことになり、結果、伊達相馬田村の三国同盟が自然と成立してしまったのです。
そんな最中の天正15年(1587)2月8日、芦名氏の次期当主に伊達竺丸こと小次郎政道を推す芦名四天の宿老である富田美作守氏実、平田氏、そして猪苗代弾正忠盛国らで構成される親伊達派を抑え、芦名の執権こと金上遠江守盛備ら親佐竹派によって常陸国(茨城県)の佐竹常陸介義重の次男で白河郡白川城主(福島県白河市)白河結城上野介義親の養嗣子となっていた主計頭義広が、芦名盛興の一人娘小杉山御台と結婚して婿養子入りすることが決まり、それを伝え聞いた政宗二世が“案外至極(ふざけんな)”と怒りを露わにします。
伊達政宗二世の親伊達派への猛プッシュも虚しく、芦名の執権として家中を捌いてきた金上盛備の政治力が勝っていたのでしょう。それ以上に芦名家中の反伊達感情も半端では無かった筈。そりゃあそうさ、家督を継ぐなりいきなり侵略して来て、しかもそのとばっちりで対立の止むなきに至らしめた挙句、占領した大内備前守定綱や二本松畠山国王丸らが亡命してるんですから。本気で受け入れてくれるとでも思っていたのでしょうか。それこそ案外至極だろうに。
ちなみに佐竹義重の妻は伊達晴宗の5女宝樹院であり、その次男義広は一応芦名氏のDNAは引き継がれていることになります。勿論竺丸にも。
幼少期の伊達小次郎はとにかく養子縁組の話が尽きません。次男だから仕方無いんですけど、すんなり養子縁組が成立していたらと考えると、これまたハッとして感慨深いです。この年の正月に政宗二世は竺丸と連れ立って母義姫の屋敷を訪問しています。この時点で三者は蜜月な兄弟、優良な母子関係にありました。もし、竺丸が芦名氏の養嗣子に入っていたら、その後に伊達母子兄弟を襲う悲劇は起きなかったでしょう。
3月3日、芦名氏次期家督義広が会津郡黒川城(福島県会津若松市)に到着します。この時13歳。
「天正15年3月11日付け安部外記之助宛て葛西晴信黒印状」によれば、浜田広綱を説得し、熊谷直正と和解せしめた功により、安部外記之助に胆沢郡赤生津邑5000苅(5ヘクタール)を永代宛行いしています。
安部外記之助の年齢は不明ですが、孫が成人しているくらいですからそれなりの高齢と見られます。その長男上野介の次男小次郎こと阿部左近重綱が赤生津邑を相続し、分家しています。
阿部重綱の子孫は葛西氏滅亡後浪人となり帰農しましたが、仙台藩伊達氏に仕官し、その末裔小平治重貞(随波・1619〜91)は莫大な富を築いて仙台藩に献金したことで政商、仙台藩の紀ノ国屋文左衛門の異名を欲しい侭にしています。
一方で安部外記之助と共に合戦の鎮静化に活躍した宿老男沢及川信吉への褒賞は伝わっていません。
3月13日、宮城郡千代城主(仙台市青葉区荒巻)国分彦九郎政重が、家臣古内某を使者に、黄金、馬、鷹を伊達政宗二世に献上し、鬼庭石見守綱元がその使者の応対をしています。
3月29日、17代太守晴信が伊達政宗二世に使者を出しています。内容については不明。
14に続きます。
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さすれば最知玄蕃が構築した最知ライン、すわ発動かと言いたいところですが、それ以前に17代太守葛西晴信が即座に動いています。
本家江刺氏には先述の通りですが、胆沢郡百岡大林館主(岩手県金ケ崎町永沢)柏山中務少輔明宗に対し、出陣を要請。しかし、柏山明宗は病気のため、柏山氏家老で胆沢郡前沢館主(岩手県奥州市前沢区陣場)三田弾正少弼義広に50騎を持たせ、また同じく柏山氏家老の胆沢郡下姉体館主(岩手県奥州市水沢下姉体)大内源次郎に代理出陣させています。
その一方で磐井郡宮田館主(岩手県一関市赤萩)安部外記之助と葛西家宿老で磐井郡流荘男沢鷹取館主(岩手県一関市花泉町老松)男沢及川越後守信吉を和解の使者に立てます。
磐井郡薄衣館主(岩手県一関市川崎町薄衣)本家薄衣中務大輔清度にも動員命令が来たと言われますが詳細は不明です。因みに清度の妻は元良郡米倉館主(気仙沼市本吉町津谷)米倉上野介尚持(重持)の娘。
浜田広綱は一旦は矛を収めたようですが、性懲りも無く征服欲を心中に滾らせます。
浜田広綱の熊谷領侵攻と時を同じくして、伊達政宗二世は余りにも周辺諸大名と悉く対立し過ぎたことを些かならず不都合と思ったか、行方郡小高城主(福島県南相馬市小高区)相馬長門守義胤二世と田村家臣を通じて和睦を打診していたようです。
顕胤と晴宗の祖父同士の代から火花散らして対立し、血みどろの戦争を展開してきた義胤二世が今や政宗二世の恰好の悩み相談相手になるとは、人生どこで何が起こるかわからないものです。
当時田村家中は、清顕の妻が相馬顕胤の長女於北の方で、義胤二世の叔母に当たる関係がら、親相馬派と親伊達派で二分されていましたが、伊達政宗二世が相馬義胤二世を頼るようになった副産物で両派は一応団結することにして、清顕の遺言通り政宗二世に従うことになり、結果、伊達相馬田村の三国同盟が自然と成立してしまったのです。
そんな最中の天正15年(1587)2月8日、芦名氏の次期当主に伊達竺丸こと小次郎政道を推す芦名四天の宿老である富田美作守氏実、平田氏、そして猪苗代弾正忠盛国らで構成される親伊達派を抑え、芦名の執権こと金上遠江守盛備ら親佐竹派によって常陸国(茨城県)の佐竹常陸介義重の次男で白河郡白川城主(福島県白河市)白河結城上野介義親の養嗣子となっていた主計頭義広が、芦名盛興の一人娘小杉山御台と結婚して婿養子入りすることが決まり、それを伝え聞いた政宗二世が“案外至極(ふざけんな)”と怒りを露わにします。
伊達政宗二世の親伊達派への猛プッシュも虚しく、芦名の執権として家中を捌いてきた金上盛備の政治力が勝っていたのでしょう。それ以上に芦名家中の反伊達感情も半端では無かった筈。そりゃあそうさ、家督を継ぐなりいきなり侵略して来て、しかもそのとばっちりで対立の止むなきに至らしめた挙句、占領した大内備前守定綱や二本松畠山国王丸らが亡命してるんですから。本気で受け入れてくれるとでも思っていたのでしょうか。それこそ案外至極だろうに。
ちなみに佐竹義重の妻は伊達晴宗の5女宝樹院であり、その次男義広は一応芦名氏のDNAは引き継がれていることになります。勿論竺丸にも。
幼少期の伊達小次郎はとにかく養子縁組の話が尽きません。次男だから仕方無いんですけど、すんなり養子縁組が成立していたらと考えると、これまたハッとして感慨深いです。この年の正月に政宗二世は竺丸と連れ立って母義姫の屋敷を訪問しています。この時点で三者は蜜月な兄弟、優良な母子関係にありました。もし、竺丸が芦名氏の養嗣子に入っていたら、その後に伊達母子兄弟を襲う悲劇は起きなかったでしょう。
3月3日、芦名氏次期家督義広が会津郡黒川城(福島県会津若松市)に到着します。この時13歳。
「天正15年3月11日付け安部外記之助宛て葛西晴信黒印状」によれば、浜田広綱を説得し、熊谷直正と和解せしめた功により、安部外記之助に胆沢郡赤生津邑5000苅(5ヘクタール)を永代宛行いしています。
安部外記之助の年齢は不明ですが、孫が成人しているくらいですからそれなりの高齢と見られます。その長男上野介の次男小次郎こと阿部左近重綱が赤生津邑を相続し、分家しています。
阿部重綱の子孫は葛西氏滅亡後浪人となり帰農しましたが、仙台藩伊達氏に仕官し、その末裔小平治重貞(随波・1619〜91)は莫大な富を築いて仙台藩に献金したことで政商、仙台藩の紀ノ国屋文左衛門の異名を欲しい侭にしています。
一方で安部外記之助と共に合戦の鎮静化に活躍した宿老男沢及川信吉への褒賞は伝わっていません。
3月13日、宮城郡千代城主(仙台市青葉区荒巻)国分彦九郎政重が、家臣古内某を使者に、黄金、馬、鷹を伊達政宗二世に献上し、鬼庭石見守綱元がその使者の応対をしています。
3月29日、17代太守晴信が伊達政宗二世に使者を出しています。内容については不明。
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